非公式短編集

村田非公式

ふやしおに


 バイトが終わり、帰路へと着く。早足で帰って、さっさと湯船に浸かってこの疲れをとろう。バイトを始めてかれこれ二年半が経とうとしているのに、この足の痛みが現れるのは、宿命か。日々の行いの蓄積か何かなのか。いずれにせよ、この代わり映えのしないフリーター生活を早く抜け出したいという思いは、レジでバーコードをスキャンする度に募るものであった。夏の風は、やはり生ぬるい。夜十時を回ったというのに、セミがちらほら鳴いている。全く、お盛んなこった。バイトでは長ズボンが強制されているため、こんな日でもふくらはぎに張り付くこの忌々しき黒の布地。早く脱いでやりたい。

 家まではもう少し。公園を抜け、いつから営業を辞めてしまったのかも分からないスナックを通り過ぎて角を右折すれば我が家である。自ずと足を運ぶ速度が上がる。公園に差しかかる。すると、いつもは感じることない、どっしりとした重みを全身に感じた。湿った夜にべったりとのしかかる、黒くて冷たい感覚。突如、俺の目は数メートル先、ベンチ裏の茂みの前に、ほっそりとした人影を視認した。遠くの電灯の灯りが、じんわりとその人影を鮮明にしてゆく。無造作に横に流された黒い髪の毛。有名格安ブランドの安いシャツ。そして、真っ黒のズボン。その瞬間、とてつもない寒気を感じた俺は、一目散に走り出した。疲れた足にムチを打ち、不気味な影から逃げ惑う。

 二つの音が、公園に響く。確実に追いかけてきている。砂利をけとばす俺の足音とは別の、重たい足音がずんずんと近づいてくるのがわかる。俺だ。間違いなかった。あれは、俺を追いかけてきているアレは。俺だった。恐怖からか、上手く走れない。その時、何故か俺は、「またなのか」と思った。ふと、後ろの足音が止む。振り返ると、数メートル後ろで、アレが立ち止まっている。このままゆっくりと立ち去ろう。なに、まだ悪いやつと決まった訳じゃない。いい妖怪とかなのかもな。俺に化けて……遊んで欲しいのかもしれない。だが、今の俺にはそんな余裕はない。ここでおいとまさせてもらうよ。ここで、あることに気がつく。辺りの茂みが騒がしい。ガサガサと音を立て、まるで何かが中で暴れているような状態だ。恐怖で足がすくんで動けない。怖い。怖い。そして次の瞬間、その茂みから、また、もう一人、「俺」がゆっくりと、うねるように姿を現した。目はどこか遠くを見ている。

 「ああ、あああああ……」

 喉を限界まで締めたような声で、ソレは鳴く。血の気が引いてゆく。

 ― 逃げなきゃ。

 そう思うと、突然ふっと足に力が入った。一心不乱に、疲れを忘れ、ただ逃げることだけを考え、公園の出口へと向かう。振り返ると、そこには十数体もの「俺」が、幾度となく関節を不可思議な方向に曲げながら追いかけてきていた。家に早く家に着かないと。そう思ったが、駄目だった。急激に力の入った俺の足は、公園の砂利の上で摺動した。混乱と恐怖。天地はひっくり返り、ただ無数の気配が一気に押し寄せる。もう駄目だ。目を瞑り、死かもわからないこの一幕の終わりを覚悟する。しかし、俺は拍子抜けした。何が起きることもなかったのだ。安堵の少し手前で止まった俺の心臓。ゆっくりと目を開けると、少し前に、一人、単独で走ってゆく俺がいた。わからない。何としてでも、彼を引き止めたい。このまま行かせてはならない。そう思った。彼に向かって、無我夢中で走る。起き上がった感覚は無かった。ただ追いかける。遠のく彼を、追いかける。しかし、彼は走り去ってしまった。また彼がここを通る時、その機会に、俺は、彼を。俺を。

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