4話
「しーっ、声を出さないで」
暗闇の中、押し殺した小さな声が僕に語りかける。その声の主は僕の左手を掴み、ゆっくりと前方へ引っ張っていく。
「早くベッドの下に隠れて」
僕は薄っすらと見えてきたベッドの形を手探りで確かめ、声の言うとおりに床を這いながらベッドの下に潜り込んだ。するとすぐに頭の後ろでベッドの軋む音が聞こえてくる。声の主がベッドに上ったのだろうか?
「絶対に音を立てないで」
その声を最後に物音は一切しなくなり、まるで暗闇に従うように静かになった。
さっぱりわけがわからない。
僕は何者かに手を引かれ、暗闇の中、ベッドの下で息を潜めて床に伏している。この場所も、ベッドの上にいるだろう人物も皆目検討がつかなければ、この場所にどうやって来たのかさえ思い出せない。ただ現状で考えられるのは、音も出さずに隠れていなければならないという、極めて危険な状況に身を置いている可能性があるということだ。
僕は隠れなくてはならない状況に至るまでの経緯を把握するため、必死で記憶を呼び起こそうと脳裏に呼びかけてみる。だがどうしたものか、手がかりになるような小さなことさえ思い出すことができない。
いったい何がどうなっているのだろう。
両手で髪の毛を鷲掴みして頭に刺激を与えてみるが、それでも何も思い浮かばない。耳を澄ましても何も聞こえず、暗闇は何も語らない。何も思い出せないことも然りだが、それ以上に深刻な問題がある。それは今僕が隠れているのがベッドの下であるということ。子供のかくれんぼじゃあるまいし、こんなところに隠れていて大丈夫なのだろうか?もし見つかった場合、伏している状態からすぐに逃げ出すのは至難の業であろう。なんだかここに隠れているよりも、この場から逃げ出すほうが得策のように思えてくる。ここから出て辺りを探索すれば、何か思い出せるかもしれないし、この部屋の間取りも気になる。ドアの位置はどこなのか?電気のスイッチの位置はどこなのか?ここは何階で、最悪窓から飛び降りることはできるのか?とりあえず首をもたげて辺りを見回してみるも、暗闇を透かし見ることはできない。
「決断は早いに越したことはない」
ふといつだったか誰かが言っていた言葉が頭を過ぎり、焦る気持ちが膨らんでいく。クイズ番組のように司会者がヒントをくれるわけもない二択問題。ここでじっとしているべきか……。ここから逃げるべきか……。答えを出せないまま悩んでいると、錯綜する思考は徐々に恐怖という概念に向かって歩き始める。いったいこれから何が起こるのだろう?いったい誰がここに来るというのか。混迷する思念に追い討ちをかけるかのように、顔の見えない黒い影、見えざる敵の姿がぼんやりと頭に浮かんでくる……。
もしも相手が凶器を持っていたら!
相手の凶器が鈍器やナイフなら戦うことも可能だが、拳銃だったらひとたまりもない。とにかく絶対に見つかるわけにはいかない!僕の心臓の鼓動は早く大きく打ち出し、額から大量の汗が噴き出てくる。足元がベッドからはみ出してないかどうかが無性に気になるが、それを確かめる術も無い。再度体勢が変わらないぎりぎりまで首を伸ばして辺りを見回すも、やはり暗闇から得るものは何もなく、徒労に終わる。焦りは増すばかりで、このままじっとしていなければならない現状に、憤りを感じはじめる。
もう無理だ!ここから逃げ出そう!
僕は伏している状態で肘を立て、物音を立てないようにゆっくりと匍匐(ほふく)し、ベッドの下から這い出そうと動き出す。少しずつ少しずつ左側へと進み、もうすぐで体の半分がベッドから出るところまで移動したその矢先、まるでその行動を抑止するかのように、遠くから人が歩いてくる音が聞こえてくる。その足音は五、六歩ほど歩いたところで止み、その直後にドアの開く音がする。そしてものの一分も経たたないうちにドアを閉める音が聞こえ、また足音が鳴り出し、ドアが開けられ、その後閉められる。まるで一つ一つの部屋を巡回しているかのように、規則的に繰り返す。遠くへ行ってほしいと願う気持ちとは裏腹に、その足音は徐々に大きくなっていく。すなわちこの部屋へ近づいてくる。
紛れもなく僕を探している!
もう選択肢は無くなった。這いずって移動した体を、音が出ないようにゆっくり元の位置に戻し、暗闇に同化するように息を殺す。生唾を飲み込み、神経を研ぎ澄まし、来るべき時に備える。首筋に汗が伝い、一粒、二粒と床に滴り落ちていくのが分かるが、それを拭う余裕はない。依然として足音は規則的に歩を進め、この部屋へと迫ってくる。
「ママに会いたいよう。ママ、ママ……」
思いがけないことに、すぐ近くから男の子だと思われる子供の泣き声が聞こえてくる。位置的に右隣の部屋であろうか?いずれにせよこの部屋から近いことは間違いない。そしてその声が届いたのか、足音は急に速度を上げて歩を早める。慌ただしい足音はどんどん大きくなる。そして荒々しくドアが開けられる音が聞こえてきた。その音の大きさからも、隣の部屋であることが確信めいてくる。僕は聴覚に全神経を集中させ、隣部屋の状況の把握に努めるが、なぜか子供の声はぴたりとしなくなり、急に静かになってしまった……。
というよりはかき消された?
まさか、殺された!?
僕は恐怖におののき、一瞬にして顔から血の気が引いていくのを感じる。それと同時に体全体が歯の根も合わぬほど震えだす。僕はうつ伏せのまま、自分の腕を抱えるような姿勢で両腕に爪を食い込ませ、震えを無理やり抑えつけた。というよりもこの痛みで気持ちを落ち着かせるしかなかった。いったい泣いていた子供は何をされたのだろう?口を押さえつけられ、一思いにやられたというのか?恐ろしい光景が脳裏に浮かび、背筋が凍りつく。
次は僕かもしれない!
体全体にかいた汗が凍りついていくかのように、僕の体温を奪っていく。極度の緊張で乾ききった喉をなんとか唾液で潤し、この恐怖に飲み込まれないように
「大丈夫だ、大丈夫だ……」
と心の中で連呼し続ける。
そうしているうちに見えざる敵の足音は、ついに僕がいる部屋の前まで来てしまった。僕はもう普通に呼吸をする方法さえ分からなくなっていた。そして見えざる敵は静かにドアノブを回す。まるで寝込みを襲うかのように、そのドアは静かに開けられる。ドアは僕の顔から左斜め前の位置にあるようで、そこから薄い橙色の光が差し込んでくる。この位置から見えるのは敵の足元だけで、僕は息を止めてそれを凝視する。とうとう見えざる敵は部屋の中に足を踏み入れた。
カチッ!
この音と共に、眩しい白い光が僕のすぐ脇の床を丸く照らす。どうやら懐中電灯のようだ。万が一その懐中電灯でベッドの下を照らされた場合、敵に見つかることは必至。そう恐怖したのも束の間、その光は一瞬だけ僕の左肩辺りを照らし、ベッドの上の方へと消えていく。さすがに敵もベッドの下に隠れているとは思わないのであろうか?このままいけば、敵は僕に気づかずにこの部屋を出て行くかもしれない。
いや、違う!
このまま無事に生還するには、大きすぎる問題が残っている。ベッドの上には僕の手を引いた人物がいるかもしれない!その人物が見つかった場合、僕が次に見つかる可能性は一気に跳ね上がる!
いや……、違う違う違う……。
この心配は取り越し苦労だ。何せその人物がベッドに上がってから長い間、何一つ物音はしなかったし、今も尚ベッドの上に居るはずなんてない。それに僕に隠れろと言っておいて、まるで見つけてくださいと言わんばかりにベッドの上でじっとしているなんてことも有り得ない。きっと僕が気づかぬうちに、どこか別の場所に身を移したはず。そうとしか考えられない。このまま事無きを得て僕は助かる。今まで身が削られるほどの恐怖に苛まれ、頭の中を覆いつくした苦悩が一気に吹き払われようとしたその瞬間、僕の頭の後方からベッドの軋む音が聞こえてくる。心のどこかで「ドラマや映画じゃあるまいし、人に襲われるなんて空理空論だろう」といいように片付けようとしていた僕の見解は、有無を言わさず誤りだと突き返される!
いる!
上には人がいる!
案の定、見えざる敵はベッドの方へと静かに近づいてきた。僕は助けようにも逃げようにも動くことさえできず、さらに力強く両腕に爪を食い込ませ、体の震えを抑えつけることだけで精一杯だった。そしてこれから聞こえてくるだろう一切の音を遮断するべく、両耳を塞ぎ、目を硬く閉じ、下唇を血が出るほど強く噛み締めた……。
東京行きの新幹線に、麻美子と柊奈が乗っていた。普段なら楽しいはずの仙台から高崎への旅路は、今日の柊奈にとっては憂鬱で堪らないものだった。それは、柊奈が初めて入院している恭一に会いに行くからであった。
恭一が事故に遭ってから一週間近く、麻美子は高崎にある恭一が住んでいるアパートに泊まっていた。その間恭一が入院している病院に通い、手術の立会いや意識が無い状態で寝ている恭一の世話をしていた。柊奈には恭一は病気で入院していると話しており、意識が無い状態であることは伝えていなかった。柊奈にはずっと話さずにいることも考えたが、嘘を突き通すことはできないと思い、仙台に戻り、今日会わせることにしたのである。そこには恭一と柊奈を会わせることで、意識が戻らない恭一に奇跡が起きてほしいという願いも込められていた。
「柊奈。今日はパパに会えるけど、パパは病気で寝ていて何も話せないの。だから、パパが早く元気になるように応援しに行くのよ。柊奈が悲しい顔をしていたらパパの病気は良くならないから、病院では泣かないようにしようね」
柊奈は麻美子の目をまじまじと見つめ、大きくうなずく。その眼差しは、小さいながらも一切の苦渋を受け入れようと覚悟を決めているかのように力があり、思いがけなくも立派に見えた。その反面、気丈に振舞う娘がひどく不憫で、麻美子の目から涙が出そうになったが、麻美子は窓の外に目を移すことで、それを柊奈に悟られないようにした。
新幹線から見る外の景色は、言うまでもなく疾う疾つと移り行き、行き所のない二人の不安な気持ちに拍車を掛けているようだった……。
「もう大丈夫だよ」
ベッドの上から聞こえてきた声はさっきまでの押し殺した声とは違い、小声ではあったが子供の……、いや、女の子の声だと分かるのに充分だった。
「もうここから出てもいいのかな?」
僕はここに来て初めて声を出すことができた。
「うん」
僕は静かにベッドから這い出て、まずは額の汗を拭った。そのタイミングと同じくして窓のカーテンが開けられ、月明かりが差し込んでくる。窓越しには髪の長い細身の少女が立っていた。少女が月明かりを背に立っていたことと、部屋の明かりが点いていないこともあり、少女の顔はよく見えなかった。
「汗びっしょり」
身を切る思いで葛藤していた僕に向けて、少女はまるで無頓着な言葉を投げ掛ける。
「窓開けるね」
少女は窓を少しだけ開け、側に置いてあった三段重ねの小さなタンスの上段から、白いタオルを取り出した。そして僕のほうへ歩み寄り、なぜか僕と視線を合わせないように顔を伏せ、僕にタオルを差し出す。間近で少女を見たのだが、知っている人物ではなかった。軽く御辞儀をしてタオルを受け取ると、少女はすぐに窓の方へと歩き出す。僕は顔の汗を拭き取りながら、少女の後姿を目で追う。少女は窓の前まで歩いて立ち止まり、外を眺め始めた。
僕は少女と話すこともなく、しばらくの間窓の外を眺める少女を見ていた。その状態で今までに起きたことを頭の中で整理していると、
「良かった」
と少女が口を開く。僕はその先にある言葉を待っていたが、少女はその先を語ろうとはせず、窓から離れ、僕の目の前にあるベッドの上に座った。そしてちらっと僕の顔を見やり、すぐに下を向いてしまう。まるで僕に対して照れているかのようなしぐさにも見えるのだが、なぜ僕に照れる必要があるのかは知る由もない。そんな様子の少女に語りかける言葉を探していると
「やっと、会えた……」
と先に少女が口を開く。
「毎日毎日神様にお祈りをして、ずっと待ってた」
なぜか少女の声は涙声になっている。
「ずっと待っていたって、僕のことをかい?」
僕の質問に、少女は視線を落としたまま小さく頷く。
「やっと願いが叶ったの……。パパが来てくれた」
少女はそう言いながら顔を上げ、僕を見つめる。少女は涙を流していた。
聞き間違いではないと思うが、少女は「パパが来てくれた」と言った。この部屋には僕と少女しかいない。すなわち僕が少女の父親だということなのだろうか?今一度少女の容姿を注意深く見澄ますも、少女に見覚えは無い。月明かりで顕になったこの部屋にもまったく……。少女とは初めて会ったことに間違いはなさそうなのだが、どうにも不思議な感覚である。今まで一度も会ったことのない少女であるはずなのに、少女の言葉を否定する感情が湧いてこない。僕は無意識に記憶の中から自分と少女との接点を手繰り寄せようとしていた。
しばらく少女は下を向いたまま泣いていたが、涙を拭い、顔を上げて再び僕と目を合わせる。その表情は悲しい思いが晴れたかのように、安堵感に満ちていて、僕の心に何かを語りかけてくる。その瞬間胸の辺りが急に熱くなり、僕の目から涙が溢れ出そうになる。だがこの沸きあがる感情さえ記憶を呼び起こす手助けにはならならず、やはり何も思い出せない。目の前にいる少女に聞いてしまえば手っ取り早いのかもしれないが、どう切り出していいのかも分からないし、名前も分からない。何よりも質問をした後の少女の反応が気がかりで、行動を起こせない。
僕はもう十分に拭ききった額の汗をタオルで拭う振りをしながら、目から零れ落ちそうになっている涙をタオルに染みこませた。その動作を繰り返しながらしばらく葛藤していると、不意に風が窓を鳴らす。少女も僕も自然と窓の方に目が向く。
この瞬間、僕はある重要なことに気づく。
僕は、自分が誰なのか分からない。
自分の名前が分からない。
僕の名前……。
名前……。
そのことを考え始めた直後、急に頭が割れそうになるくらいの頭痛が僕を襲う。僕は痛みに耐えきれず、堪らずその場に座り込んだ。
「パパどうしたの?」
少女はすぐさま駆け寄り、肩を抱いてくれる。こめかみの辺りを強く抑え、この激しい痛みを和らげようと試みるが、痛みは激しくなるばかりである。
「頭が痛いの?大丈夫?早くベッドの上に横になって」
少女に言われるがまま、なんとか支えられてベッドの上に倒れこんだ。少女は僕に布団を掛けながら
「パパ大丈夫?すごく痛い?」
と心配している。少女は僕の額に手を当てたりして、一生懸命何かをしようとしてくれていたが、痛みはまるで目の奥をえぐるように激しさを増す。尚も少女は必死に僕に語りかけてくれていたのだが、徐々にその声は聞き取れなくなっていった……。
「パパ、苦しそう……」
柊奈は黄色の小さなハンカチで、恭一の額の汗を拭った。麻美子と柊奈が病室に着くなり、恭一の様態が悪化したのだ。
「すぐ戻るから、柊奈!パパを見ててね」
麻美子は柊奈にそう告げると、ナースコールを鳴らすことも忘れ、慌ててナース室へと駆け出した。
病院の個室には柊奈と恭一の二人だけになった。
「パパどこが痛いの?もうすぐお医者さんが来るから……。すぐに来るから頑張って!」
柊奈は懸命に語りかけ、苦しそうな恭一の手を握る。
「柊奈が悲しい顔をしていたらパパの病気は良くならないから、病院では泣かないようにしようね」
柊奈は電車の中で麻美子から言われたことを思い出し、苦しそうな恭一を目の前にしても、必死に泣かないよう努めた。
「パパ頑張って。パパ……、パパ頑張って……」
柊奈の呼び掛けとは裏腹に、恭一は苦しそうに顔を歪め、時々弱々しいうめき声をあげる。とうとう柊奈の瞳からは大粒の涙が零れ落ちる。
「パパ……。パパ……」
柊奈は嗚咽で呼吸が乱れ、声を出すことさえ困難な状態になりながらも、苦しむ恭一に向かって懸命に呼びかける。虚しくも恭一が柊奈の呼びかけに答えることは無く、柊奈はこれまでに経験したことの無い不安感に心を引き裂かれる思いだった。
病室に麻美子が戻ってくると、柊奈は堪らず麻美子の方へ走り出す。麻美子は膝を落とし、涙で顔がぐしゃぐしゃの柊奈を抱きしめた。そのタイミングで麻美子の目からも涙が溢れ出る。そんな二人のすぐ後ろから、医師と数人の看護師達が足早に病室に入ってくる。駆けつけた医師はすぐに恭一の脈を取り、看護師に指示を出し始める。麻美子は泣いている柊奈を抱きかかえて立ち上がり、苦しそうな恭一を見守る。柊奈は振り返り、恭一の体に心電計を取り付け始める看護師達の行動を不安いっぱいに見つめ、苦しみ続ける恭一を前に号泣している。麻美子は柊奈を抱く腕に力を込め、心配で堪らない娘の心の痛みを少しでも和らげようと努めるが、その手は恐怖で震えている。
まもなくして心電計から恭一の心拍数を示す音が鳴り出す。心電図の数値は五十を下回っていて、恭一が危険な状態であると分かるのに充分だった。ゆっくりと脈を打つ心電図の音が、この重圧に押し潰されまいと二人の心に張り合わせた板を、一枚一枚剥がしていく。麻美子は今にも崩れ落ちそうな状態であったが、子供を守らなくてはいけないという母親の使命感だけで、自身の体を支えていた。頭の中には恭一の死という最悪のシナリオが渦を巻いている。
「先生、どうか……、どうか助けてください」
麻美子は声を絞り出して必死に医師に訴える。それに対して医師は
「すぐに集中治療室に移動します」
と伝え、看護師たちにベッドの移動を指示する。
慌ただしく動いている看護師たちを目の前に、麻美子と柊奈はこの悪夢のような現実にこれでもかというほど打ちのめされ、崖っぷちに立っているような心境であった。二人は地の底に落ちないように何とか踏堪えながら、恭一の命の灯が消えぬよう、心の中で恭一の無事を必死に祈り続けていた……。
emergency @chinzou
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