3話

 昼過ぎからから降り出した雨は夕方もなお降り続いていた。灰色の空はいつもよりも増して憂色が濃く、人々の心に虚しさを伝えているようだ。


恭一は頭や体の至るところを包帯で覆われ、酸素マスクをした状態で集中治療室のベッドに横たわっていた。恭一の傍には妻である麻美子がいて、椅子に座り前かがみになり、ベッドに肘を付いた格好で恭一の手を握り、その手を自分の額にあてがいうな垂れている。

「どうして、どうして……」

 時折麻美子は弱々しい声を漏らす。止まらない涙がシーツを濡らし続けている。

 

あの時、恭一は事故に遭った。道路に飛び出したところを車にはねられてしまったのだ。右腕と肋骨が折れ、右足の大腿骨にもヒビが入っている。何よりも深刻なのは、頭を強く打ちつけたことにより、意識が戻らないことだった。


意識不明の重体。


ニュースでよく耳にするこの言葉を、まさか恭一のことで医師から告げられるとは……。麻美子はまだこの残酷な現実を受け止められずにいた。

「目を開けてよ……。私が居るのが分かるでしょ?恭ちゃん……。恭ちゃん、聞こえているわよね?」

 そう言いながら麻美子は恭一の頬をなで続ける。

「柊奈はまだ知らないの。こんなあなたを見たら、柊奈はどうにかなってしまうかもしれない。早く目を開けて。お願い……お願いだから……」

 どんなに麻美子が声を絞り出してエールを送ろうとも、恭一は目を開けない。包帯が巻かれた恭一の身体を見るたびに、麻美子の心は酷く痛んだ。

「柊奈も私も、あなたを愛しているわ。だから……だからお願い!」

麻美子の必死の訴えに恭一が答えることは無く、生きるのに必要最低限の呼吸をしているだけだった。

 

 

 編集部のドアが勢いよく開き、編集長の山崎が入ってくる。

「みんな遅くなってすまない。八時も回ったし、今日は帰って休め」

 それが山崎の第一声だった。鳴海は自分のデスクの椅子に座り、すぐ側に立っていた香月にしがみついて泣いている。取材先で血だらけの恭一を見つけたのも、救急車で病院に連れ添ったのも、取材に同行していた鳴海だった。香月は目に涙をいっぱいに溜めて、泣き通しの鳴海を支えている。高瀬はデスクに座り、失意の表情を浮かべている。

「取材の帰りに病院に寄って来たんだがな……」

 山崎はその先にある言葉を飲み込んだ。それは恭一の容体が今も変わらないことを意味していた。

 しばらく室内には鳴海のすすり泣く声だけが聞こえ、誰も言葉を発しようとはしなかったが、その重苦しい空気を断ち切るべく、山崎が皆に向けて話し始める。

「お前ら、悲しんでばかりはいられんぞ。明日からは袴田の分まで頑張らなきゃならん」

 皆を鼓吹したはずの山崎の言葉に対し、返答をする者はいない。それでも山崎は、雨で濡れているスーツの上着を窓際にある木製のラックへ掛けながら、話しを続ける。

「こんな時だろうが仕事をやらないわけにはいかない。あいつの意識が戻ったら、まず心配するのは雑誌のことだろう。俺たちだけでもいいもん作らんとな。それに、取引先に迷惑はかけら……」

「絶対に許せない!」

 山崎の言葉を遮り、香月が声を荒げて言い放つ。

「僕も絶対に許せません!」

 高瀬が珍しく興奮して怒りを露にしている。

「僕たちで袴田さんを轢いて逃げた犯人を捜しましょう。警察が捜査するのは分かっていますが、じっとしているなんてできません」

「わ、わた……、私も……」

 鳴海が必死に嗚咽を抑えながら言いよどむ。山崎は三人の顔を一度見渡した後で

「そうだよな」

と一言つぶやき、ラックに掛けたばかりのスーツの上着に袖を通し始める。

「許せねえわな」

山崎は緩んでいたネクタイを締めなおし、首を一ひねりしてから眼光鋭く高瀬を見遣る。

「高瀬、出かけるぞ」

「え?」

「聞き込みだよ!決めたら即行動。いつも言ってるだろう」

「わかりました!」

「こういうのは人の記憶がはっきりしているうちがいいからな。夜遅くなったら門前払いする家もあるだろうし、すぐに出るぞ。香月も鳴海も行きたいだろうが、お前らは今日はいい。帰ってゆっくり休んで、明日から頑張れ。高瀬行くぞ」

「はいっ」

山崎と高瀬は小走りに出入り口に向かう。

「香月、鳴海のこと頼むわ」

山崎は最後にそう言い残し、高瀬と共に部屋から出て行った。

 


「私が写真を撮ってなんて言ったから……」

 ようやく泣き終えた鳴海が、香月に話し掛ける。

「何回も同じこと言わないの。袴田さんならきっと大丈夫」

 香月は落ち着きを取り戻した鳴海から離れ、自分のデスクに向かい、パソコンのキーボードを叩き始める。

「鳴海、袴田さんが外に出たのは何時くらいだった?」

「多分、十時半くらいだったと思う。何を作るの?」

「情報提供を呼びかけるビラ。今日はこれ作ってから帰るから、鳴海は先に帰っていいよ」

 香月は鳴海を気遣ったが、それを聞いた鳴海は首を横に振り

「もう大丈夫。だから何か手伝う」

 と言いながら、キーボードを叩いている香月のそばへ歩み寄る。

「鳴海はいいから。今日は無理しないで」

鳴海は大きく左右に首を振り

「もう大丈夫だよ。私も手伝う」

と言って香月のパソコンを覗き込む。

「すぐ終わるから、鳴海はコーヒーでも飲んでなさい」

 香月の計らいに対し、鳴海は少し間を置いて頷いたが、自分のデスクへと移動してパソコンの電源を入れ始める。香月はそれ以上何も言わなかった。

 

しばらく二人はパソコンに向かい無言で作業をしていたが、香月がポツリと話し始める。

「鳴海、袴田さんが救急車で運ばれた時なんだけど……」

 香月は後に続く言葉を飲み込むように、一度視線を落としたが、すぐに顔を上げて表情を引き締め、続きを語る。

「袴田さん事故に遭った時、鳴海に何か言った?」

鳴海は凄惨な現場を思い出したのか、一瞬で表情を曇らせる。そして少し間を置いてから

「私が駆けつけた時には、もう袴田さん意識がなくて」

と答える。鳴海の目は涙で潤みはじめていた。

「鳴海ごめん。思い出したくないよね……。だけど……だけど、でも……」

香月は突如立ち上がり、すぐさまドアの方へと駆け出そうとしたが、勢い余りデスクの上に置いてあったコーヒーカップを落としてしまう。

「大丈夫?」

鳴海がすぐさま香月のそばへ駆け寄る。香月は近づいて来た鳴海に背を向けて、割れたコーヒーカップを拾いながら話す。

「血がたくさん出ていたなんて……」

香月は声を詰まらせた後、まるでダムが氾濫するかのように激しく泣き出し、勢いそのままに話し続ける。

「わたし……。私、袴田さんのこと……、好きなの。袴田さんは結婚しているからどうしようもないけど、だけど……。だけど今は鳴海だけだし、あの人を思って泣くことぐらい……、今はしてもいいでしょう?」

鳴海は驚きと戸惑いの表情のまま、号泣している香月にかける言葉を探している。

「私じゃ……、私じゃきっと……、きっと、耐えられなかったと思う。今も意識がないまま病院のベッドで寝ているなんて。袴田さんがそんな風になっちゃったなんて、どうしても信じられないよ!」

二人しかいない社内に、香月の号泣する声が響きわたる。


降り続いている雨はさらに激しく窓を叩き、香月の声が外に漏れないように努めているようだった。



車のヘッドライトが降りしきる雨と夜の闇を裂き、二人を恭一が事故にあった現場へと急がせる。車を走らせてから当分の間は山崎も高瀬も口を開こうとはしなかったが、流れよく走っていた車が長い信号に捕まると、助手席でタバコをふかしていた山崎が話し始める。

「俺が病院に行ったとき、袴田がいる集中治療室に行ったんだが、あいつの傍らには奥さんがいてな。袴田の手を握って泣いていたよ。とてもじゃないが、声を掛けられなかった」

「そうですか……」

 信号で止まっていた車の運転席で、高瀬はハンドルに額を押し付けて悔しさを露わにする。

「袴田ほど他人を気遣える人間はなかなかいねえ。あいつは家族にもいい親父なんだろうなあ。どうしてあいつがあんな目に遭わないといけねえんだ!」

「同感です。逃げた犯人だけは絶対に許せません!」

「当たり前だ!」

 山崎は吸っていたタバコを灰皿で揉み消し、釈然としない表情で助手席の窓の外を見つめる。

その後五分くらい沈黙が続いたが、今度は高瀬が話を切り出す。

「特に聞かれないことなので黙っていたのですが、僕が東京の会社を辞めた話をしてもいいでしょうか?」

突然話題が変わったことで、山崎は一瞬考える間を置いたが、高瀬は東京の会社を辞めて自分の会社に入社してきた経緯があることを思い出した。

「俺でいいなら聞くぞ」

「はい。ありがとうございます」

 高瀬は車のワイパーの強さを一段階落とし、大きく息を吐き出してから語り出す。

「僕は大丸建設に務めていたんです」

「こりゃまたすげえところにいたもんだな」

 大丸建設といえば建設業の中でも超大手であり、一流企業の代名詞とも言える会社で、なかなか入れるところではない。

「運良く内定もらいまして……」

「運だけじゃ入れんだろうが」

「正直に言いますと、大学に入っても就職のことだけ考えて、勉強は手を抜かずにやっていました。周りの誰もが羨む会社だったし、それが目標でした。内定が決まったときは嬉しくて、大泣きましたよ」

「そりゃ分かるなあ。で、大丸建設のどこにいたんだ?」

「僕は本社の経理部に配属されました」

 車が右折するタイミングに入ると、高瀬は一旦話を止めて運転に集中する。右折が終わり、車が直線に戻ると、続きを語り出す。

「初めて会社に行ったときの話なんですけど、とにかくビルが大きいんです。中に入ると吹き抜けのエントランスがあって、その場所に行っただけで何とも言えない優越感があるんですよ」

高瀬は話を続ける。

「僕のデスクも、まるでドラマに出てくるような綺麗なオフィスの中にあって、高級感のある大きなデスクに座るだけで、一流になれた気がしました。先輩達もなんだかかっこよく見えて。人生勝ち組の道を先に歩いている先輩達と肩を並べて、一生ここで頑張ろうって思いました。恋をして結婚して、マイホームを買って、安定を絵に描いたような人生を送ろうって……」

 ここまで話したところで、高瀬は急に顔を曇らせる。何かを思い出したのか、フロントガラスを見つめたまま、次の言葉がなかなか出てこない。山崎は横目で高瀬の表情を伺い、少し間を置いてから高瀬に声を掛けようとしたが、その行為を遮るかのように高瀬が言い放つ。

「僕は知らず知らずのうちに、会社の金の横領に加担させられていたんです。慕っていた先輩達に、騙されていたんです」

 高瀬は顔を強張らせ、左手で自分の髪の毛を鷲摑みする。それを見た山崎は、相づちを打つこともせずタバコに火を点け始める。そして二、三度タバコをふかし、助手席の窓を少しだけ開けて外に手を出し、雨の量を確かめた。

「雨止まねえな」

 高瀬は山崎が急に話を逸らしたことで我に返り、頭から手を離す。

「大丸建設はもう辞めちまったんだし、過去の話はもういいや。で、今はどうなんだよ?うちの会社に不満あんのか?」

 山崎が高瀬に問いかける。

「不満なんて何一つありませんよ。会社の雰囲気とか、編集部の団結力とか、どれを取っても前の会社には無かったもので、本当に働きやすい職場です。大丸建設辞めて今の会社に入れて、心から良かったって思っています」

 山崎はタバコの灰を灰皿に落とす動作と共に、フロントガラスに映る高瀬の表情を伺った。

「なあ高瀬。世間でも名の通ったでかい会社と、小さくて自慢にはならねえが居心地のいい会社と、まあどっちも悪くはねえはな。お前は会社で上げた功績を家族に話して喜ばせるのと、会社であった馬鹿話を家族に話して笑わせるのと、どっちがいいと思う?」

「もちろん後者を選びますよ」

「そうかあ」

山崎は一言返すと、タバコの灰を灰皿に落とす。

「じゃあもう一つ聞くが、大学出た頃に前の会社と今の会社両方に入れるとしたら、お前はどっちの会社を選んでいたんだろうなあ」

「そ、それは……」

「勘違いするなよ。俺はお前に今の会社のほうがいいだろう?なんて言うつもりはねえし、さっきお前が言ったうちの会社に入って良かったって言葉を否定するつもりもない」

「あ、はい」

「どっちを選ぶかはお前の自由だし、どっちを選ぼうが間違っている選択なんてねえんだよ。俺が言いたいのはな……」

山崎は助手席のシートを少し倒し、頭の上に両手を乗せた格好で続ける。

「いずれお前も、背負うものができたり、年を取ったりして選択肢がどんどん減っていく。そして最後にはレールが一本になっちまう。最後の一本になったときに、過去に自分で決めた選択が間違っていたなんて思うんじゃねえってことだ」

高瀬は何も言わずに、小さく二、三度頷く。

「もっと大事なのはここからだぞ。すなわち!そんな風に考えたら人生楽だってことだ。まあ俺は単に楽な道を選んできただけだけどな。がーっはっはっは……」

山崎は大口を開けて笑い出す。豪快に笑う山崎の声で、高瀬は先ほどとは打って変わって晴れ晴れした表情になっていく。

「ザキさんすいません。部屋に一人で居る時とか、今でも前の会社のことを思い出してしまうんです。情けないことです。この話は両親にしか話していないのですが、ザキさんに話して良かったです」

「おいおいおい、俺は人を慰めるのは得意じゃねえし、そもそも辛気臭い話は苦手だ」

「はい、すいません」

 高瀬が謝った言葉には、山崎の配慮に対する感謝の意が十分込められていた。そして車は袴田の事故現場付近へ到着する。

「よーし、着いたな。まずはそこに見えるコンビニに行ってみるか」

「了解です。話のメモは自分が取ります」

「読める字でメモれよー」

「ザキさん早口ですが、頑張ります」

 二人が乗る車は、袴田が事故に遭う前に向かおうとしていたコンビニの駐車場に停車した。二人はエンジンが止まるとすぐに車のドアを開け、降りしきる雨の中、傘も差さずにコンビニへと走り出した。

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