2話

月曜日。今日はいつもより早く会社に着いた。就業開始時間にはまだ一時間近く時間があり、まだ誰も出社はしていないだろうと思いつつ編集部のドアを開けたのだが、そこにはすでに香月が出社していた。

「袴田さん、おはようございます。今日は早いですねえ」

「おはよう香月。今日は車のガソリンを入れるのにいつもより早めに家を出たんだよ。こんなに早く着くとは思わなかったけどな。香月はいつもこんなに早いのかい?」

「だいたいこのくらいの時間ですかねえ。編集部の中ではいつも一番ですよ」

そういえば香月より早く会社に着いた記憶はない。

「遅刻常習犯の鳴海とは大違いだな」

「もちろんです。だって私まで遅刻していたら、他の部署の人達に『編集部の女子はだらしないやつしかいない』なんて思われちゃうじゃないですか」

「確かに。だけど香月、もう一人我が社の遅刻王の存在を忘れていないかい?」

香月は眉間にしわを寄せて

「ザキさん!」

と言いながらザキさんのデスクを指差す。

「一月の仕事始めの日も平気で遅刻する人ですからね」

「そうそう、あの日は参ったよ。朝礼でザキさんの代わりに『編集部新年の抱負』を発表する役回りになってしまった」

「まったく信じられない神経の持ち主だわ。編集長という自覚、あんのかしら?」

「普段から『朝礼なんか出るくらいなら、健康のために朝グソしてくるほうがましだ』なんて言っているくらいだし。覚悟はしておいたけどね」

「ですけど仕事始めの日ですよ!それに遅刻だけならまだしも、あのだらしなさは社内一どころか日本一ね!耳掻き、つめ切り、歯ブラシ、爪楊枝……。なんでもかんでも使いっぱなしで机の上に置いてあるし、どこから買ってくるのか分からないけど、コーヒーカップがどんどん増えていって、飲みかけのカップが五、六個置いてあることもあるんですよ。それだけじゃないわ。この間なんか靴下が置いてあったんですから!あ、り、え、ないです!」 

香月は一言で言えば聡明女子で、年下とは思えないくらいしっかりしている。ザキさんは言うなれば職人気質で、仕事はできるがそれ以外のことにはあまり拘らない。まあだらしないということにもなるのだが、そのことでいつも香月に小言を言われている。

「ザキさんと鳴海の遅刻癖はなかなか直らないだろうな」

「そうですね。でも袴田さん、私も遅刻じゃないけど、習慣病のようなもので時々自分が嫌になることがあるんです」

「え?香月が?」

「私、せっかち病なんです。子供の頃からどこへ行くのも早めじゃないと気持ちが落ち着かないんです。会社も一時間前には着くように家を出ますし、旅行なんていったら二時間以上も前に集合場所に着いていないと心もとなくて……。せっかちな女はもてないよって、鳴海によく言われるんですけどね。袴田さんもそう思いますか?」

 香月はためらいがちな視線で僕を見る。

「せっかちねえ。香月の場合はせっかちというより、用意周到という言葉が当てはまるんじゃないかな?あまり失敗とかないし。あ、失敗で言えば鳴海は多いけど……」

「でも私の場合は度が過ぎるんです。それに私って可愛げないキャラじゃありませんか?鳴海みたいにおっちょこちょいで、一人じゃ心配に見えるくらいのほうが、男性には可愛く見えるんじゃないかしら?」

二人は二十六歳で同い年なのだが、断然鳴海の方が若々しく見える。しかしそれは香月が老けているのではなく、鳴海が幼く見えてしまうからである。きっとプライベートではしっかり者の香月よりも、鳴海のほうが男性からもちやほやされるのだろう。ここは当たり障りの無いように

「そんなことはないよ」

と返事を返したが、香月の表情がその答えに納得ができなかったように見えて、咄嗟に

「僕が結婚していなかったら放っておかないかもな」

と付け加えてしまった。それを聞いた香月は一瞬視線を逸らしたが、突然立ち上がり僕の方へ歩み寄り、色香をふりまくような笑みを浮かべ

「それって浮気宣言とお取りしていいのかしら?」

と言い、両手を膝に当てて前かがみになり、胸を強調するようなポーズをとる。その格好がぎこちなくて可笑しかったので

「セクシーポーズが甘い」

と言って二人で笑った。

「話は変わるんですけど、土日の休みは柊奈ちゃんに会ってきたんですか?」

 香月が不意に質問してくる。

「ん……。ああ、土曜日に家族三人で動物園に行って来たよ。まあ家族サービスってやつさ」

僕は照れ隠しに面倒くさそうに答えたが

「顔がにやけていますよ」

とあっさり心中を読み取られてしまった。どうも柊奈の話をされると口元がゆるんでしまうみたいだ。するとオフィスの入り口のドアが開いて

「おはようございます」

という声と共に高瀬が入ってくる。

「あっ、高瀬君……。もしかして……。もしかして今の、見ちゃったりした?見た……、わよね?」

唐突香月が訳の分からないことを言い出す。

「えっ?何をですか?」

高瀬は慌てた様子で辺りを見回している。香月は動揺している高瀬に気付かれないように、僕の方を見て目配せをする。香月が言い放った意味不明な発言には驚いたが、今の香月の合図ですぐにその意味が分かった。そして僕は高瀬に歩み寄りながら

「香月、いいんだ。見られたものはしょうがない。高瀬に悪気はないんだし、僕から説明するよ」

と会話に入る。そして難しい顔をしている高瀬の肩に手を乗せて

「実はなあ高瀬。僕と香月は……、なんて言ったらいいんだろう。いわゆるその、あれなんだ……。もう高瀬にはぶっちゃけて言うがな」

高瀬は目を見開いたまま微動だにしない。そんな蛇に睨まれた蛙のようになっている高瀬に

「僕と香月は、つまり……、不倫しているんだ」

と静かに目を閉じながら虚偽を告げる。さらに間髪いれずに

「だけどお前が見たことについては責めるつもりはないよ。見てしまったものはしょうがない。ただ、このことは絶対に秘密にしておいてくれないか。ザキさんと鳴海には知られたくないんだ」

と続ける。それを聞いた高瀬は顔から耳まで真っ赤にして

「はっ、はいっ。ぜ、絶対に誰にも言いません。それに僕は何も見ていませんから。それだけは信じてください」

と今にも敬礼しそうな口調で答える。僕は笑いそうになるのを必死にこらえつつ、哀愁感を漂わせ

「すまない」

と声を落として吐き棄てる。

「高瀬君、本当にお願いね」

香月も笑いをこらえるのに必死で、それがばれないようにうつむいて話していたのだが、肩が小刻みに揺れている。だがその素振りが肩を震わせて泣いているようにも見える。嘘の芝居に全く気付いていない高瀬は

「だ、大丈夫です!あ、あの、もし約束を破ったらですね、約束を破ったら、その……、針千本飲みますから!」

と普段では考えられない子供じみたことを言って、早足で自分のデスクに向かい、落ち着かない様子でパソコンの電源を入れる。僕と香月もそろそろと自分のデスクに座った。


いつもなら誰からともなく世間話が始まるところだが、僕と香月は敢えて沈黙を作る。室内はパソコンのキーボードを打つ音だけが聞こえ、普段にはない異様な雰囲気になっていた。無論異様だと感じているのは高瀬だけなのだが。

この沈黙に耐え切れなくなったのか、高瀬は五分も経たないうちに

「あの、すいません。ちょっとトイレに行ってきます」

とそそくさと席を立つ。高瀬が部屋を出て行くのを確認すると同時に、僕と香月は止めていた息を一気に吐き出すかのように大笑いした。

「もう高瀬君ったら最高。あの子っていっつも騙されるんだもん」

「本当だよな。それに予想通りのリアクションをするから可笑しくて」

「言葉に詰まって『針千本飲む』とか言ってましたよね」

「何を言えばいいか分からなくなったんだろう。可笑しかったなあ。だけど香月の振りには焦ったよ。打ち合わせ無しでいきなり切り出すからさ」

「なんか急にイタズラしたくなっちゃったのよねえ。でもさすがは袴田さん。演技が迫真に迫るって感じでしたよ」

「哀愁漂ってた?」

「バッチリ!」

編集部ではちょっとしたイタズラが日常茶飯事で、騙されるのは高瀬に限ってではない。僕も気を抜いていると騙されていることもあるが、編集部では一番若い高瀬が標的にされることが多い。しかも真面目な性格だからすぐに引っかかるのだ。

「だけど香月、高瀬にはディープ過ぎたかなあ?」

「ちょっと好青年には過激だったかしらねえ」

「でも面白いから当分黙っておくか?」

「賛成。今日の帰りぐらいまで騙しちゃいましょ」

ドッキリにかかった高瀬は、気が気でない一日を過ごすことになるかもしれない。ちょっと可愛そうだが、ちょっとだけ心配だが、ほんのちょっとだけ悪いとは思うが

「高瀬よ。今日一日楽しませてもらうぜ」

と心の中の悪魔が囁いた。きっと香月の心の中の悪魔もニヤニヤしているに違いない。

「袴田さん、もうすぐ朝礼が始まりますね」

「そろそろ行かなきゃな」

「高瀬君、トイレから戻って来ませんでしたね。きっとここへは戻らないで朝礼に向かったんじゃじゃないかしら?」

「間違いないな。僕でもそうする」

二人の悪魔は朝礼を行うフロアへと移動した。


フロアには大勢社員がいたが、案の定ザキさんと鳴海はまだ来ていなかった。そして高瀬は予想通り僕たちよりも先にこのフロアに来ていて、普段通りの立ち位置である僕たちの前に立っていた。背中には『あまり僕を見ないで』と書いてある様で、朝礼が終わるまでずっと可笑しかった。


朝礼を終え部署に戻ると、ザキさんがデスクに座っていて、新聞を広げて読んでいた。

「みんな、おはよう」

いつものことだが遅刻をしたことに悪びれる様子もなく、ザキさんは新聞から顔も出さすに言う。

「ザキさん。今日の寝癖はいつもより増して激しいですよ。その頭でよく外を歩けますねえ」

香月が言うと

「香月は若いのに知らねーのか?これは今流行のヘアースタイルなんだぞ。鳥の巣ヘアーだ!俺と付き合いたくなったろう?」

と新聞を読み続けながら返事を返す。香月は一言

「絶対無理!」

とあしらう。すると遅刻組の鳴海が凄い勢いで部屋に駆け込んで来た。

「おはよう(はぁはぁ)ございます(はぁはぁ)。遅れてすいません!」

デスクに手を付いて息を切らしている鳴海に

「おーはーよう、鳴海ちゃん。会社に走って来るなんて感心ねえ。今日は朝から駅伝でもやっているのかしら?」

香月が嫌味一杯に言う。鳴海は何かを言おうとしたが、息が上がってしまい言葉に詰まり、胸に手を当ててようやく息を整えてから

「今日は朝起きたら靴が片一方なくなっちゃってて。きっとまたあの変な生き物が咥えて行ってしまったんだわ」

と意味不明なことを言い出す。

「その生き物とは先週突如現れて車のキーを隠したという、ブタとネコを足して二で割ったような奇妙な生き物のことですね?」

パソコンに向かいながら香月が返す。

「はい。昨日の夜中に冷蔵庫をガサガサとあさっていた音がしたので、間違いありません」

鳴海がまた返し、二人の会話がニュースの実況中継のようになっていく。

「とうとう家の中まで上がりこんでくるようになってしまったんですか?」

「そうなんです。いつか襲われるのではないかと思うと恐怖で夜も眠れません」

「なるほど。それが遅刻をする理由にもなっていると?」

「ええ。まあ」

「では一刻も早くその奇妙な生き物を捕獲しなければなりませんね」

「何かいい方法はないでしょうか?」

「そうですねえ、餌を使って誘き出すのはどうでしょう?何か冷蔵庫から無くなっていたものはありますか?」

「あっ、はい。えーっと、ヨーグルトと……、あとケチャップが無くなっていました。」

「嫌な組み合わせだなあ」

僕も口を挟む。

「混ぜたら苺ヨーグルトみてえなもんだろう」

ザキさんが言うと

「全然違うと思うんですけど。まずそう!」

と香月が間髪入れずに突っ込みを入れる。

「そういえば急いでてまだ何も食べてなかったんだった。お腹空いたなあ。ヨーグルトだけでも食べてくればよかったな」

鳴海がお腹を押さえて言う。

「だったらちゃんと起きなさい」

香月にもっともなことを言われ、鳴海が舌を出す。

「まったく鳴海は不健康だなあ。俺は今まで一度たりとも朝飯だけは抜いたことはないぞ。朝はしっかり食べないと、いい仕事はできんからな」

ザキさんは尚も新聞を読み続けながら言う。

すると香月がザキさんのデスクに歩み寄り、突如新聞を取り上げる。驚いたニワトリのような表情のザキさんに向かって

「毎朝ごはんを食べられる人が、どうして毎朝遅刻するんでしょうねえ?」

と腰に手を当てて叱咤する。ザキさんは香月の顔を見たままニヤっと笑い

「さてと、香月に競馬新聞も取り上げられたことだし、仕事でもしましょうかねえ」

と言いながら、散らかっているデスクの上に置かれている書類に手を伸ばす。

「はぁ?これ競馬新聞なのーっ?私達には『新聞は毎朝読んで、常に世の中のこと知ることも大切な仕事だぞ』なんて言っているくせに!」

 香月が競馬新聞を丸めながら怒り出す。

「そうだ。コーヒーでも入れてこよう」

ザキさんは逃げるようにその場を立ち去った。

編集部の朝のドタバタ劇場はこれにて終幕だが、この演目に一人だけ参加できない男が僕の隣に座っていたことは、言うまでもない。



「今日取材に行くお店の牛すじカレーって、とっても美味しいんですよ。ランチのみ七十食限定なんですけど、店が開店する十一時前からたくさん人が並んで、午後一時前には売り切れになっちゃうんです。取材のついでに食べられるなんてラッキーだなあ」

僕と鳴海は車で取材先の喫茶店へ向かっていた。その店は高崎市中心市街地から十五分くらいのところで、ランチ限定のカレーが人気の店らしい。

「カレーライスに牛筋の煮込みを合わせるなんてすごい発想だけど、これがまた合うのよねえ。黄色いサフランライスとの相性もピッタリなんです。カレーはもちろん、きっとあのライスにも一工夫も二工夫もしてあるに違いないわ。それだけでも美味しいもの。うううっ……、早く食べたいなあ」

助手席の鳴海は足をバタつかせながら子供のようにはしゃいでいる。朝食を抜いていることもあり、まだ十時前だというのに昼食のことで頭が一杯のようだ。

「私、大盛り頼んじゃおうかしら。でもさすがに恥ずかしいわよねえ。でもたくさん食べたいなあ。あ、そっか。袴田さんが大盛りを頼んで、私のと交換すればいいのか。袴田さん、それでいいでしょう?」

「そんなに美味いカレーなら、僕も大盛りにしようかな」

「ええー、そんなあ」

「並ばないと食べられないカレーと聞いたら、大欲にかられるってもんだよ」

「じゃあしょうがないわね!今日は乙女の恥じらいも捨てて、この押さえ切れない食欲に身をまかせることにするわ。ついでに食後のデザートも食べちゃおうかしら。食後のおいしいコーヒーにはやっぱりスイーツよねえ」

「おいおい、それは食べすぎじゃないのか?この前ダイエットしてるって言ってなかったっけ?」

「へへえ。それは大丈夫」

鳴海はバッグの中に手を入れて、何やらお菓子の包みのようなものを取り出した。

「じゃーん。チョコレートダイエットっていう私にぴったりなダイエットを見つけたんです。食事の前にこのチョコレートを食べるだけで太らないんですって。すごいでしょ」

鳴海は誇らしげに言う。

「へー。かといってたくさん食べてもいいわけじゃないと思うけどなあ」

「これがあるから平気、平気。あ、この先の信号を左に曲がったところがお店ですよ」

「了解。さっさと取材を済ませてしまいますか」

「はーい。カレー、カレー、おーいしーいカレー」

鳴海といるとまるで子供を相手にしているようだが、それを鬱陶しく感じさせないのが彼女の魅力なのかもしれない。


円形の敷地は木々に囲まれていて、木々の切れ目にあたる入口は車二台分ぐらいの幅しかない。そこから中に入ると、辺り一面砂利が敷かれている。車が数台停まっていたのでここが駐車場なのだと思うが、車庫を分ける目印もない。僕たちはこれから来るだろう店の客のことも考え、なるべく店から離れた入り口に近い場所に車を停めた。そしてカメラなどの取材道具を担ぎ、敷地内一杯に敷き詰められた砂利に足を取られながら、店へと歩き出す。

「袴田さん。カレーの匂いがしてきませんね」

相変わらず鳴海はカレーのことで頭がいっぱいらしい。

「いくらなんでもここまでは匂わないんじゃないかな?」

「あらら。私ったら食いしん坊丸出し」

「鳴海が食いしん坊なのは今日に限ってのことじゃないだろ」

「そっかそっか……って、納得してもいいのでしょうか?」

「いいんじゃないか?少なくとも編集部のみんなは納得できる」

「ひどーい」

「あはは……。冗談だよ」

店に近づくにつれて、オリーブ色の丸太を重ね合わせたログハウスの外観が露わになってくる。初めて訪れた場所なのにどこか懐かしく、ノスタルジーな情趣に心を奪われる。

「なんだか田舎に帰ってきたみたいだなあ」

「私もここに来ると学生の頃を思い出しちゃうんですよねえ。部活を終えて学校からの帰り道に、決まってどこからともなくカレーの匂いがしてくるの。そして帰ってみたら我が家の夕食もカレーだったりするんです」

僕がこの場所を懐かしく感じていたように、鳴海も学生時代を懐古していたようだ。ただ、カレーに結びつけるところが鳴海らしいけど。


「こんにちは、文報社です。雑誌の取材で伺いました」

僕たちは店の入口に立ち、鳴海が店内に呼びかける。するとすぐに白いコック服にコック帽をかぶり、ふち無しの丸メガネと口髭と顎鬚がよく似合う中年男性が出てきた。一目で店主と分かる風貌だと思った。

「文報社さん、お待ちしておりました。さあ、中へどうぞ」

僕たちは店の中へと招かれた。


店内はテーブル十席ほどの広さで、レンガ造りの壁に囲まれている。内部の灯りは壁際に取り付けられた天井を照らす間接照明がメインとなっていて、程よく薄暗い。カウンターのすぐ前で、大きな黒褐色の古時計が悠長に時を刻んでいる。各テーブルを灯すランプの形をした卓上照明といい、所々に飾られている西洋絵画や、王冠やライオンなどが描かれた西洋の紋章を象ったペナントといい、まるで古い洋館を訪れているみたいだ。

「鳴海、いい店だな」

僕は店主の後について前を歩いて行く鳴海に、つい小声で話しかけてしまった。鳴海は左手を後ろに回してピースして見せた。

「どうぞ、こちらへお掛け下さい。すぐに戻りますので」

店主はそう言ってテーブルの椅子を二つ後ろへ引いた。そして一礼をして厨房へと戻って行った。

「超いい匂い!取材前に食べたい気分」

「こらこら、まずは取材だぞ。カレーから頭を切り離さないと」

そうは言ったものの、カレーのたまらない匂いが充満する中、今の鳴海に仕事に集中しろというのは酷な話である。実際僕も鳴海と同じ気持ちで、早く取材を済ませてカレーにありつきたい気持ちでいっぱいだった。

「とりあえずカメラの用意をするか」

僕は逸る気持ちを抑えられず、バッグからカメラを取り出す。入社当時から使用している愛用のカメラだ。

「前から思ってたんですけど、そのカメラ大分古そう……」

「ああ、これね。入社以来ずっと使っているからな」

「年季入ってますねー。会社にあるデジカメは使わないんですか?」

「あ、うん。ちょっとね」

「あー、なるほどねー」

「ん?何を納得している?」

「いいんですよ、袴田さん。私もデジカメは使えませんから。操作難しいですもんね」

 鳴海は頷きながら、まるで機械音痴の仲間を見つけて我が意を得たかのように、満足気な笑みを浮かべている。

「おいおい、一緒にするなって。アナログカメラはデジカメよりずっと操作が難しいんだぞ」

「えーっ!デジカメよりも難しいんですか?」

「デジカメを難しいと感じるのは子供か鳴海ぐらいじゃないか?僕がデジカメを使わないのは難しいからじゃなくて、一種のこだわりみたいなもんだよ」

「そ、そうですよねー。袴田さんが使えないわけないか……。で、アナログカメラを使うこだわりって、どんなこだわりなんですか?」

鳴海は僕のカメラをまじまじと見ている。

「まあ大したことじゃないよ」

「大したことじゃなくてもいいから、教えてくださいよー」

鳴海の表情から、言うまではずっと質問攻めに合うだろう予測がついた。鳴海は好奇心旺盛なので、こういうときはしつこいのだが、僕のカメラへのこだわりは鳴海の興味がありそうな内容ではない。それにこだわりを話すということは、なんだかカメラ好きがマニアックな講釈を語るようで、やはり言うのをためらってしまう。

「聞いても何の得にもならないって」

「教えて教えて教えてー。気になって取材になりませんよー」

回避はしてみたが、鳴海が諦めるわけもない。

「しょうがないなー。じゃあ話すけど、デジカメってオートでピントが合って撮るのも簡単だし、撮ったデータもパソコンに送信するだけでいいから簡単だろ。まあ鳴海は難しいと感じているみたいだけどね」

「まあまあ、そこは置いておいて」

「うん。それに比べて僕のカメラは撮るのにもピント合わせから始まって、光の加減やシャッタースピードの調整を考えて写真を撮る。そしてフィルムは現像が必要。デジカメに比べると面倒な作業がたくさんあるんだけど、この工程がいいんだよね」

「面倒くさいことがいいのですか?」

「面倒なのがいいわけではないけど……」

 デジカメを難しいと感じている鳴海に、どう説明すればアナログカメラの良さが分かってもらえるのだろう?これは難題だ。

「ほら、カメラで撮った写真のほうが、雑誌に載っても活き活きしているように見えるだろ」

「そうなんですかー?」

そう言いながら鳴海は、店主に見せるために持参した先月号のページをめくり出す。時間さえあれば、アナログカメラで写真を撮ることの面白さをもっと説明したかったが、いつ店主が戻るかも分からないし、ここは噛み砕いて話すしかない。

「雑誌を見てもわかりづらいよなあ。んー、なんて言ったら伝わるだろう……。そうだ!アナログカメラの写真には魂が込められているんだよ。よく写真を撮られると魂を抜かれるって言うだろう……。いや、なんか違うな」

なんて稚拙な説明だろう。相手が鳴海とはいえ酷すぎる例えだと思った。

「私には分かりますよ」

そうこう説明しているうちに、厨房から店主が戻ってきてしまった。

「店で出しているカレーも同じです。オープンから約十五年、材料も作り方も変えておりません。手間を惜しんでは良い物は作れませんからね」

大声で話していたつもりはなかったが、店主に話が筒抜けだったらしい。すなわち魂云々の話も聞かれていることも明白である。穴があったら入りたい……。

「なるほどー。袴田さん、今の説明でなんとなく分かった気がします」

鳴海の一言がますます僕を辱める。入れる穴はどこにもあるはずはなく、僕はもう笑うことしかできなかった。


赤恥をかいたことはさておき、取材はスムーズに進み、最後にカレーの写真を収めるのみとなった。

「それでは最後にカレーの撮影をお願いしたのいのですが、よろしいでしょうか?」

 店主に撮影の許可を問う。

「わかりました。すぐにお持ちしますね」

店主はテーブルの上に置いていたコック帽を手に取り、それをかぶりながら席を立つ。そして軽く会釈をして厨房の方へ向かい、数歩歩いたところでこちらを振り返り

「写真撮影に使う料理ですが、ご迷惑でなければ、撮影が終わったら召し上がっていかれませんか?」

とにこやかに話す。取材をしていると店の好意で食事をご馳走になれることがあるが、横に居た鳴海はどんなに目を輝かせていたことだろう。

「よろしいのでしょうか?並ばないと食べられないカレーを取材ついでに頂いてしまっても?」

「構いませんよ。雑誌の特集に私の店を選んでいただいたお礼です。お二つお持ちしますね。少々お待ちください」

店主は足早に厨房へと消えていった。その姿が見えなくなるやいなや

「うれしいー。超ラッキー。砂漠で死にかけている私に、ラクダに乗った救世主が水を持ってきてくれたかのような感動だわ」

鳴海は神に祈るときのように手を組んで、目を輝かせている。

「カレーだけにインドゾウに乗ってくるかもな」

 僕も嬉しい気持ちは同じだ。

「こんなに感動したのは久しぶりかも。そうだわ!今の私、すっごくいい顔していると思うの。袴田さんのカメラで一枚撮ってもらえませんか?」

「ええ?鳴海をかい?」

「一枚だけ。ね?お願いしますよー」

「まったくしょうがないなあ。一枚だけだぞ」

「やったね。袴田さんのカメラに写るの初めてー」

僕はカメラを構え、嬉しそうにしている鳴海を被写体にファインダーを覗く。そういえば柊奈も、僕がカメラを持っていると写真を撮ってほしいとせがんでくる。鳴海も柊奈と何ら変わりないなと思うと、可笑しさがこみ上げてくる。さらにピースを作って頬にくっつけるポーズまで柊奈と同じで、僕はすっかり柊奈の写真を撮っている気持ちになってしまっていた。

「じゃあ撮るぞー。イチ、ニ、サン、ダーッ(パチリッ)」

「なっ、何ですか今のー?笑いそうになって変な顔になっちゃいましたよー」

「あ、ごめんごめん。家族写真を撮るときはいつもこの掛け声で撮っているもんでね」

「へー、おもしろーい」

「これをやると娘が喜ぶんだよ。それじゃあ気を取り直してもう一枚。はい、チーズ(パチリッ)」

二枚目を取り終えたところで、フィルムが自動で巻き上がる。

「フィルムが終わったみたいだ。交換しなきゃ」

 僕はカレーが運ばれてくることもあり、急いでバッグの中のフィルムを探す。

「あらら。余計な仕事が増えてしまいましたね。袴田さん、ごめんなさい」

「気にすることはないよ。どの道カレーの写真も四、五枚撮る予定だったし、鳴海を撮らなくても結果は同じ。むしろこのタイミングで交換できてよかったよ。でもあれ?おかしいなあ……。フィルムが見当たらないぞ。予備があったはずなんだけど……」

 今日に限ってバッグの中に予備のフィルムがない。

「私も探しましょうか?」

鳴海が心配そうな表情を浮かべている。

「そんなに心配しなくても大丈夫。車にはあるはずだから、ちょっと取りに行ってくるよ。もし店主が来たら、すぐに戻ると言っておいて」

「ふー、よかったあ。ちゃんと説明しておきまーす」

僕は鳴海に微笑みかけ、急いで店を出た。


こんなことならば店の近くに車を停めるんだったと思いつつ、僕は砂利道を走って車の方へと向かった。車までは三十メートルもない距離だったが、着いた頃には息が上がってしまい、タバコと運動不足で体力が落ちていることを実感する。僕は息を整えることもせず急いで車のドアを開け、助手席のダッシュボードを開けて探してみるが、そこにフィルムはない。運転席と助手席の下も見てみたが、フィルムは見当たらない。後部座席もくまなく探してみるも、たいてい車にあるはずのフィルムが、今日に限って見つからない。

「まずいなあ……」

つい独り言が口をついて出てくる。僕は助手席に腕組みをして座り、息を整えながら考えをめぐらす。まださほど時間は経っていないと思うが、カレーが運ばれてきて鳴海が困っているかもしれない。このまま戻りフィルムを忘れたことを説明して、撮影だけ後日にしてもらうことも考えたが、カレーをご馳走になることを考えると、あまりにも罰が悪すぎる。


なんとかしなければ。


「そうだ!」

思わず叫んでしまったが、僕は店のすぐ近くにコンビニがあるのを思い出した。もしかしたらそこでフィルムが買えるかもしれない。ここからなら車で行くよりも走って行ったほうが早そうな距離だ。僕は焦る気持ちそのままに、車から降りて敷地の出入り口へと再度走り始める。走りながら携帯を取り出し、急いで鳴海に電話をかける。

砂利の上を走る足音が聞こえる中、携帯の音に神経を集中させるが、呼び出し音が聞こえてこない。ボタン操作を間違ったのかと思い携帯の画面に目をやると、どうやら発信ボタンを押していなかったようだ。僕は走るスピードはそのままに、携帯の発信ボタンを押し、画面に鳴海の番号が点滅しているのを確認した。


その瞬間、砂利に取られていたはずの足が急に軽くなる。そしてすぐに金属同士が激しく擦れるような、耳をふさぎたくなる甲高い音がしたかと思うやいなや、右側からものすごい衝撃を受け、僕の体は凄まじい勢いで宙に投げ出された。




バス停の看板が横向きに見えている……。




体全体が言いようのない痺れに襲われ、頭には氷水を掛けられているかのような冷ややかな感覚があり、凍えるように寒い。右足は不規則なリズムで痙攣を起こしている。何があったのかも分からないまま、まず助けを求めようと体に指令を出すが、力なく左手を振ることしかできない。声さえ出すこともできず、徐々に意識が遮断されようとしているような、得体の知れない恐怖に戦慄を覚える……。



程なくして、薄っすらと見えていた景色は白くぼやけて消えていき、か弱くも逆らっていた体の重力そのすべてが、固いアスファルトに沈んでいった……。

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