どでんとデン子ちゃん

神原

第1話

どでんとデン子ちゃん

 

 今日もネコのデン子ちゃんは歩道橋の真ん中で車道を見下ろしていた。夕方頃の赤茶けた空の下、太った茶色い体と愛嬌のある顔で。


 表情を見せないでただただ通路の真ん中を陣取っている。

「あー、デン子ちゃんだぁ」


 ランドセルを背負った女の子がデン子ちゃんを触って去って行く。セーラー服を着た少女もデン子ちゃんの頭を撫でていった。


「えらいね、今日も待ってるんだね」


 歩道橋を渡る人々が声を掛けては通り過ぎて行った。


 一声も発する事なく、どでんと腰を下ろしている。誰が言うともなく、デン子ちゃんと呼ばれる様になった顔の大きなネコはそこを微動だにしない。飽きる事もなく居続けていた。


「デン子ちゃんや、デン子ちゃん」


 そんな中ゆっくり昇って来たお婆さんが声を掛けた。どっしりと腰を落ち着かせて、デン子ちゃんは応えようとはしない。


「ほれ、今日はマグロのお刺身じゃ。これなら食べてくれるじゃろ?」


 ちらりと一瞥してデン子ちゃんは道へと視線を戻した。


「むぅ、これも駄目じゃったか……あたしゃデン子ちゃんにも食べてほしいんじゃがなぁ」


 デン子ちゃんの前に刺身がのったトレーがそっと差し出される。ほんわかとした、なんとも言えない可愛い顔をその時だけお婆さんに向けていた。


 デン子ちゃんが目を細めてお礼をする様に頷く。そして、「なーおぉ」と一声鳴いたのだった。歩道橋の下から応える様に「にぃー」と言う声が返ってくる。お婆さんもそちらへと視線を巡らせた。跳ねる様にして白い子猫がデン子ちゃんへ駆け寄ってくる。デン子ちゃんは前足で刺身のトレーをその子猫へ押し渡したのだった。


 マグロを貪る子猫。


 舌なめずりをして子猫とデン子ちゃんが帰って行く。嬉しそうに二匹を見守っていたお婆さんも「うんうん。やっぱりデン子ちゃんは優しいのぅ」と言って立ち去って行った。






 ――あれは何時の事だったろう。お婆さんがその歩道橋を初めて渡った時だった。デン子ちゃんは既に歩道橋の真ん中を陣取っていた。子猫の頃のデン子ちゃんはやっぱりそこを誰にも譲る事なく町を見守っていた。


 子供が巣立ってもう二十年以上、一人になって数年経っていたお婆さんはそんなデン子ちゃんの横に立って町を眺めたのだ。


「お前には何が見えるんだい?」


 ふと尋ねるもデン子ちゃんはこちらを見てはいない。ただ、一声だけおばあさんに応えてくれた。「なあーお」と。まるでお婆さんには見えていない物を説明してくれているかの様な鳴き声で。


「お前……」


 お婆さんは毎日の楽しみもなく、生きる事に飽いていたのかもしれない。デン子ちゃんはそんなお婆さんの心に空いた部分へ飛び込んできたのだ。


 なにが分かった訳でもないが「そうか、そうか」と呟いて。お婆さんはデン子ちゃんと町を交互に見つめた。そこは時の流れが揺蕩っている様な、緩やかさが確かにあったのだ――






 翌日の夕方、お婆さんは急いでいた。スーパーで慌てて買い物をして行く。もちろんデン子ちゃんにあげるニシンの干物も買い物袋へ詰めていた。慌てていて自動ドアへぶつかりそうになり一瞬立ち止まる。


「あぁ、長話なんぞするんではなかった。デン子ちゃん、待っていておくれよ」


 お婆さんが駆け足で道を行く。袋を持つ手を激しく前後させて。精一杯枯れた様な足を動かして歩道橋へと向かっていった。




 遠くデン子ちゃんのいる歩道橋が見える処まで来て、お婆さんは足を緩めた。

突如、


「なあああぁーーおおぉ!」


 とデン子ちゃんの大きい声が響いたのだった。


 お婆さんが何事かと辺りを見回す。少し先に風で飛ばされた袋を追い駆けて道路へと子猫が迫っているのが見えた。


「デン子ちゃん!」


 お婆さんの叫びが先かデン子ちゃんが凄まじい勢いで走り出したのが先か。階段から三段飛びで飛び下りてくるのが見えた。折り返しで手すりを蹴る。そして一番階下の壁を蹴ると、駆けて来た子猫にデン子ちゃんは体当たりをぶちかましたのだった。


 子猫が倒れる。デン子ちゃんが反動で車道へと飛び出していた。ブレーキ音が鳴り響く。デン子ちゃんの体は跳ね飛ばされて、路肩へと横たわった。


 荷物を落としてデン子ちゃんに向かってお婆さんは走り寄った。


「だれかぁ! だれかあぁぁぁ!」


 必死の叫びに気づいた道行く人々が立ち止まっていた。皆がデン子ちゃんを取り囲む。轢いた車はもう既に走り去って居なかった。携帯電話で周囲の人々が連絡をしていた。


 かち合った何台ものタクシーが到着する。震える手でデン子ちゃんを抱いたお婆さんの服が真っ赤に染まっていた。乗り込み「病院! 動物病院」と言うお婆さんの必死な言葉に応えて車は動きだす。






 三週間の日々が流れた。魂が抜けた様にお婆さんがとぼとぼと歩道橋へと歩いていた。ブツブツとデン子ちゃんの名前を呟いて。


 病院到着後、お婆さんは過労と心痛で救急車で運ばれた。デン子ちゃんが病院で治療を受けられてほっとしたのだろう。動物病院で倒れたお婆さんは病院の場所を知らなかった。急を要していた為、料金も未払いで。


 あれ以来デン子ちゃんの姿は誰も見ていない。


 歩道橋へと辿り着いたお婆さんが二段目の階段に腰を下ろす。ぼーっと車道を見つめていた。


 そんな時ふと、視界を白い物体がよぎっていった。


「あれは……」


 期待に胸が高鳴る。よろよろと立ち上がり階段を踏みしめた。違っているかもしれない。そう思うと足も震えてくる。階上が徐々に視界に入ってきた。


「おおおぉ。デン子ちゃん!」


 そこには包帯を体に巻いたデン子ちゃんが、通路の中程にどでんと座っていたのだった。お婆さんが涙を流して喜びに浸ったのは言うまでもない。




 子猫思いのデン子ちゃんのお話は近所で有名になった。『通路の真ん中にどでんと腰を下ろしたネコ』から始まるお話が。







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どでんとデン子ちゃん 神原 @kannbara

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