菜切包丁

増田朋美

菜切包丁

その日も、なんだか他の地域では暑いくらいになると言っていたが、この地域では、いつもと変わらぬ暖かさで、なんだか特権のような気候になっていた。そんな中、製鉄所では、母親と息子が、ちょっと困ったことがあると言って、相談にやってきていた。

「はあそうですか。学校では、一言も口を効いてくれないのですね。」

ジョチさんは、座っている15歳という少年を見て、そういった。

「えーと、まずはじめに、お名前をどうぞ。」

とりあえず、そう少年に言ってみる。

「はい、佐野千秋と申します。」

と少年は小さな声で答えた。ということは別に障害や病気で口がきけなくなったというわけでは無いらしい。

「そうですか。それではなぜ、学校では一言も口を効いてくれないのか、話していただけないでしょうかね?」

ジョチさんがそう言うと、

「大丈夫だよ。僕らは何も悪いことはしないから。ちゃんと答えを出してくれれば、馬鹿にすることもしないし、笑うこともしない。大丈夫。」

と、杉ちゃんが彼にお茶を出してやりながら言った。隣にいた、母親の佐野みゆきさんが、

「ほら、ちゃんと話をしなさい。今日は、あなたのために来ているのよ。」

と彼に催促するのであるが、杉ちゃんたちは、そういう言葉は使わないほうが良いのではないかといった。あなたのためとか、あなたが悪いという言葉は、余計に少年を傷つけてしまうおそれがあるので。

「だからあ、大丈夫だって。お前さんの敵でもないし、お前さんを馬鹿にするようなこともしないからあ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうですが、本当の事を言っても、そんな事言って、親御さんを困らせるなとか、そういうことしか言われたことが無いから。」

と、佐野千秋くんは言った。

「そうかあ。それも、ひどい教師だなあ。それでは、教師に反抗する生徒ということで、結構お前さんは悪いやつだと思われているんじゃないの?」

杉ちゃんがそう言うと、

「ええ。そういうことばっかりで。成績が悪いと、そういう生徒って言われちゃうんですよね。だからもう、自分の気持ちを話すこともしたくなくなりました。だから、もう大人なんてのは、そうやって、何でも成績とか、学校のことで判断してしまうものだって、決めました。他の生徒さんだってそうです。成績が良い人であれば、先生にいい顔で見られるけれど、悪い人には、嫌な顔で、苦虫噛み潰したような顔で接するんです。」

千秋さんは答えた。

「まあ、学校ってのは、というか、大人というのは立場でものを言うからねえ。学校の先生は、よりレベルの高い高校へ進学させることしか、考えていないんだよ。だけど、そうではない大人もいるんだ。そういう無責任なやつのおかげで、お前さんがすごい傷ついている事を、ちゃんとわかっている大人もいるんだよ。だから、お前さんの話をしてくれるかな?」

杉ちゃんがそう言うと、

「でも、大人は、本当にずるくて、そうやって僕を助けようとしても、結局は進学率に結びつけようと言うんです。そういう人ばかり見てきたから、もう話したいとは思いません。」

と、千秋さんは言った。

「まあ、そうだねえ。それでは、お前さんの事を、助けたいと思っても、お前さんは信じてはくれないと言うことだなあ。」

杉ちゃんが言うと、みゆきさんが、

「そんな失礼な態度をとらないで、この人達にちゃんと、自分の事を話しなさい。このままでは進学もできないって、先生から言われたばかりじゃないの!」

と千秋さんに言った。

「進学ねえ。進学しなくてもいいと思うけどね。それに、進学したからと言って、幸せになれたやつばっかりじゃないからね。それは僕はちゃんと感じているんだけどなあ。それでも、お前さんは、信じてはくれないのかな?」

杉ちゃんが言うと、

「でも、進学できないとか、成績が悪かったら、幸せになるどころか、一生不幸で惨めな人生しか送れませんよね。皆若いから時間があるって言うけれど、僕は、そんな時間なんていらないです。そんなふうに、頭が悪い、勉強ができない、成績が悪い、偏差値が低いと言われ続けて行きているようであれば、死んだほうがマシです。」

と千秋さんは言った。

「まあ、そうだねえ。まあ、そう言われてしまったら、本当に人生生きている意味がないって考えてしまうのも、仕方ないか。それに、東大とか早稲田とか、そういう学校に行ってれば、すごいと言われちゃうこともまた事実だからなあ。それは、仕方ないねえ。だったら、そうだなあ。そういう人間がいない国家へ逃げてしまうとかしたらどうだ?」

「あなたのほうが無責任過ぎますわ。そんな、別の国家へ逃げてしまうなんて不可能な事を言って。」

みゆきさんが杉ちゃんにいうが、

「いや、世界にはまだ、文字も書けないし、電気もガスも水道も知らないで生きている人間がいます。そういう人のところにお手伝い人として働いている友人も知っていますよ。だから、そういうところに逃げてしまうというのは悪いことではありません。」

と、ジョチさんが言った。

「例えば、勉強ができなくてもさ、他の事ができて、それをまだ発展していない国家に行って、教えることができるんだったら、ちゃんと世のため人のために生きているということになるじゃないか。そういう事して、伝記に掲載されている偉人もいるだろう。だから、勉強ができないからと言って、もう人生終わったとか、そういうふうに考えちゃだめだよ。いちばん大事な命を落としたら、一番の大損をしていることになるよ。」

杉ちゃんが千秋さんに言うと、

「僕も、杉ちゃんの言うとおりだと思います。勉強ができないというのは、あなたの能力すべてを否定しているわけではないです。国語とか、数学とか、そういう学問ができなくても、すごい偉業を成し遂げた人はちゃんといますからね。牧野富太郎とか。そういう人だって、いるんですから、今の人生が辛いからといって、命まで落としてしまうことは、してはいけませんよ。」

と、ジョチさんも彼を励ました。

「幸せな人は皆そういいますが、そんな事、実際には、全然通用しないですよね。先程大人は立場でものを言うといいました。どうせ、福祉関係とか、そういう事をやってる人は、結局自分をもっと偉くするために、ネタがほしいんだとしか思えませんね。命がどうのとか言ってるけど、僕は、一度も大事にされたことはありませんよ。だから結局、大人の言うことなんて、全然役には立ちませんね。信じられるものでは無いんですよ。」

そういう千秋さんに、それだけ傷ついているんだなと、杉ちゃんもジョチさんも顔を見合わせた。

「そうだねえ。ネタがほしいかあ。確かにそうかも知れないな。でも、これだけは言っておくが、えらくなれたからって言って、幸せになれるやつばっかりじゃないってことは、覚えてほしいなあ。それは、お前さんの頭に残してほしいんだけどなあ。お前さんのように、成績が悪いとか、それとはまるで正反対だけど、でも、幸せになれないで、寝たきりの生活をしているやつもいるんだぞ。」

杉ちゃんがそう言うと、四畳半から咳き込んでいる声がした。

「あ、またやってら。ちょっと、僕、薬飲ませてくるわ。ジョチさんは、こいつの話をお願い。」

杉ちゃんは、車椅子を動かして、四畳半に行った。それを見て、お母さんの佐野みゆきさんは、ここでもやっぱりだめかという顔をした。

「このまま放って置くわけではありません。あなたもちゃんと、意識を変えていただかなければなりません。まあ確かに、まだ発展していない国家に行くということもできますが、それは、よほど強運の持ち主ではないとできませんからね。」

ジョチさんがそう言うと、佐野みゆきさんが、

「早く、進路を決めないと、先生に悪い生徒として見られてしまいます。今日はその事を相談に来たんです。」

と泣きそうになりながら言った。

「まあ、進路というか、どこの学校に行くかと言うのは、意外に簡単に決まるかもしれません。学校というのは、どこの学校に行くかを決めてくれれば、それ以上の事を急かしたりすることはまずありませんから。それよりも、彼の意識と言いますか、傷ついている事を治療しなければならないことのほうが問題です。それを治療するには、非常に時間がかかりますよ。人間の意識を修正するというのは、非常に難しいんです。それは、専門家の力を借りないといけません。」

ジョチさんはとりあえず、まず必要な事を言った。それは、千秋さんもお母さんのみゆきさんにもわかってもらわなければならないことだった。

「例えば、若いときから脂っこいものが大好きで、それが原因で脳卒中になったとか、そういう事のように、単純な原因ではありません。脂っこいものを控えるとか、そういうことで修正できるかと言うことでは無いのです。意識を新しいものに塗り替えるのは、非常に難しい。一度、彼が世の中から愛されていないという意識が根付いてしまっている以上、この日本では難しいというのもまた、事実でもあります。でも、変わらなければいけないというのも、また事実でもあります。」

「ということは、やはり、この子を何とかするとか、立ち直らせるとか、そういう事は無理ということでしょうか?私が、やっぱり育て方を間違えていたんでしょうか?」

みゆきさんは、急いで言った。

「育て方の問題ではありません。育て方が悪いとか、そういう事は、全く関係ないのです。ただ、彼が自己肯定意識を持てる環境にいることができなかったので、自分を肯定できなかった、それだけのことですよ。いっぱい得したのはどっちと思うかもしれないけど、そういうことです。だから、お母様の事を批判することはいたしません。それより、お母さんにも、彼に自分を肯定できるような態度に切り替えてもらわないとね。そこは、お母さんの役目でもあります。」

ジョチさんはみゆきさんに言った。それはみゆきさんにはできないことになってしまうかもしれないが、でもそういうふうに気持ちを切り替えるのが大事だった。

「まずはじめに、千秋さんにできることを探しましょう。勉強ができるできないは、二の次であることを知ってもらうことが必要です。進学先は、こちらで紹介する通信制の高校に行くと言えば、学校も文句を言わないと思いますから。もし、偏差値が低いからだめだと言うのなら、偏差値がどうのより真面目に勉強したいので、その高校へ行くんだといえばいい。それでも学校側が交渉に応じないのであれば、僕達もなんとか八方手を考えますよ。それに、通信制の高校などの教育機関であれば、勉強ができない事を批判するような教師は、まずいないと思います。それが信じられないというのなら、一緒に学校を見学に行っても構いませんよ。ただ、僕は車の運転はできないので、送り迎えは必要にはなりますけど。」

ジョチさんがそう言うと、千秋さんの表情が変わった。なんだか他の大人とは違うなと思ってくれたらしい。

「でも、、、。」

千秋さんは申し訳無さそうに言った。

「でもなんですか?本当の気持ちがあるなら、言ってしまったほうがいいです。ここは、あなたのことを、だめな人だとか、そういう事はいいませんから。」

ジョチさんがそう言うと、

「学校には、もう行きたくないです。もう、勉強ができないことで、つらい思いをするのは、疲れました。ごめんなさい。せっかく手立てを考えようとしてくれるのに。」

と、千秋さんは答えた。

「わかりました。そういうことなら、そうしましょう。学校に行くことが疲れてしまったら、こちらに少しの間通っていただくこともできます。そこで、他の利用者さんたちと話すことも、良い気分転換になると思いますよ。こちらを利用しているのは、現在3名ですが、彼女たちは大変に傷ついている人たちですから、あなたの事を非難する人はいませんよ。」

ジョチさんがそう言うと、千秋さんは、ここへはどうやって通えば良いのかと聞いた。富士駅から、富士山エコトピア行きのバスがあるから、それを利用すればいいとジョチさんが言うと、千秋さんは、とてもうれしそうな顔をした。

「大丈夫ですよ。学校に無理やり行かせて、ストレスを溜めてしまうよりも、こちらで利用者さんたちと一緒に、話をしたりするほうが、気持ちが安定すると思います。」

「わかりました。ありがとうございます。それなら、ちょっと見学させてもらってもいいですか?どんな作りになっているとか、見てみたいです。」

千秋さんは、にこやかに言った。ジョチさんが、ハイどうぞ、というと、千秋さんは、応接室へ出て、鶯張りの廊下を歩き始めた。歩くたびにキュキュと音がなる、日本の伝統的な床の張り方に、千秋さんは興味があるようだった。お母さんの佐野みゆきさんは、息子の千秋さんのことを、心配そうに見ていたけど、ジョチさんは、今は手を出さないほうが良いと思いますと言って、それを止めさせた。

千秋さんは、製鉄所の今は空き部屋になっている居室を見て回った。もしかしたら、日本間という作りの部屋を初めて見たのかもしれない。日本の家には、今であれば和室が一つもない家もある。

千秋さんは、そのまま製鉄所の食堂に入った。食堂では、利用者が一人いて、なにか仕事をしていた。仕事というか、単に新人賞に応募するような文章を書いているだけのことであるけれど、彼女は真剣に書いていた。千秋さんがこんにちはと声をかけると女性は、こんにちはとにこやかに挨拶した。千秋さんが何を書いているんですかと聞くと彼女は、

「ええ、富士市民文芸に投稿するためのエッセイなの。まあ、私の事なんて、大したことじゃないかもしれないけれど、書いて誰かのやくに建てば良いのかなって言うことで。」

と、にこやかに笑った。

「そうなんですか。文章を描く才能があるっていいですね。僕は、何も才能が無いし、そういうもので生きていくって事はできないな。」

千秋さんは、羨ましそうに言った。

「ああ、そういう事はね、初めっからわかっていたら、人生面白くないわよ。わからないで、ずっと自分にあうものを探し続けることが、大事なんじゃないかなって気がするのよね。あたしもね、子供の頃は、こういう仕事をしようなんて思わなかったわよ。本当に偶然、やれることは見つかるのよ。」

彼女はにこやかに笑ってそういうことを言った。それと同時に、四畳半で、ほら食べろ、食べないと、だめになってしまうぞ、という声が聞こえてきた。

「あれは一体誰に話しているんでしょうか?」

千秋さんがそうきくと、

「水穂さんのことね。あたしたちも、随分話を聞いてもらったりしたんだけど、本人が、もうちょっと自分が人種差別されているだけじゃないって気がついてくれたらいいのになあ。まあ、生まれたときから、そうなっているって本人も言ってるから、無理な話か。」

と利用者が言った。それは誰かと千秋さんが聞くと、

「隣の部屋にいるから、あんたが自分で確かめてくるといいわ。」

と、利用者の女性は言った。千秋さんはわかりましたと言って、四畳半にいってみた。ふすまをガラッと開けると、杉ちゃんが、布団に寝ている水穂さんにご飯を食べさせようと奮戦力投しているのが見えた。水穂さんの着ている着物は、紺色の葵の葉が入れられた銘仙の着物。いつもなれている洋服とも違うし、一般的な着物とも違っている。これを見て、千秋さんはなにか感じ取ってくれたようだ。

「着物に詳しいわけではないですが、でも、着物が他の人のと違うような、、、。」

思わずそう言ってしまった千秋さんであるが、どのように違うかわからないという顔をしていた。部屋の中にあるのは、小さなピアノと、机、そして、粗末な引き出しがあるのみである。杉ちゃんが一生懸命ご飯を食べさせようとしているが、水穂さんは、どうしても食べなかった。食べさせると、咳き込んで吐いてしまうのだった。

「あ、新入りか、ちょっとさ、水穂さんにご飯を食べさせるのを手伝っておくれよ。よろしく頼むぜ。」

と、杉ちゃんに言われて千秋さんはわかりましたといった。水穂さんは、杉ちゃんから再度ご飯のお匙を出されても受け付けなかった。

「どうして、ご飯を食べようと思わないんですか?」

千秋さんは思わず聞いてみる。

「食べる気にならなくて。」

水穂さんは弱々しくそう答えるだけであった。

「どうして食べる気にならないんですか。食べるっていうことは、大事なことなのに。」

千秋さんがそう言うと、水穂さんは、

「幸せな人はそう言いますよね。それは、衣食住が保証されている身分だからですよ。」

と、彼に言った。杉ちゃんが呆れた顔して、

「あのねえ。新平民と呼ばれていたのは、もうかなり昔だと思うんだけどねえ。」

といった。千秋さんはそこでピンときたようだ。その言葉を聞いて大きな衝撃を受けたらしく、しばらく何も言えなかった。

「そうなんですね。士農工商から外れた身分の人がいることは学校で習いましたが、本当にそういう人がいるんだ。」

と、彼は言った。

「何だ、勉強できないって言ってたくせに、ちゃんと覚えてるじゃないか。それができてれば上等だ。とにかくな、僕達は、こいつにご飯を食べさせなければならないんだ。」

杉ちゃんがそう言うと、千秋さんは、

「わかりました。何か作ります。僕、おばあちゃんの事を世話していたことがあったので、介護料理は得意なんです。」

と言って製鉄所の台所に歩いていった。そして、冷蔵庫を開けて野菜を取り出し、菜切包丁でほうれん草を切り始めた。更に炊飯器を開けてご飯が残っているのを確認し、それを鍋に入れて野菜と一緒に煮込み始める。その手付きは、とてもなれているもので、単に素人とは思えない。

「はあ、なんだ、おかゆ作れるじゃないか。それなら、勉強ができないなんて、劣等感保つ必要が無いよ。そういう料理ができるってことは、これからうんと役にたつ人材になると思うよ。」

杉ちゃんは、菜箸を持っておかゆをかき回している千秋さんに言った。彼の顔は真剣そのものであった。杉ちゃんは小さく、

「その気持を忘れないようにな。」

と言った。


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菜切包丁 増田朋美 @masubuchi4996

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