欲望まみれの聖女ですので
月城うさぎ
第1話
ローズモンド王国には、類まれなる力を持つ聖女たちがいる。
多種多様な力を持つ少女たちは七歳から二十歳を過ぎる頃まで神殿に住まい、聖なる力の使い方を学んで世のため人のためとなる奉仕活動に勤しむ。
三十人ほどの聖女の中でも特に力の強い聖女は大聖女と呼ばれ、それぞれ太陽・月・星の称号が与えられていた。
この王国で特に有名なのは太陽と月の大聖女だった。
一晩で荒地に作物を実らせる力を持つ太陽の大聖女と、病や怪我を歌声で癒す月の大聖女は歌劇になるほど有名である。幼い少女たちにも大人気で、神殿にはあわよくば一目でも二人の大聖女に会えないかと詰め寄る人々が絶えないのだとか。
だが忘れ去られた最後の大聖女……星の称号を持つ大聖女の力は神殿内でも限られた者たちにしか明かされていない。
存在感が薄い星の大聖女は、市井では実在しないのでは? と噂される始末。
神殿の奥深くに住まう彼女を、多くの聖女は見かけたこともない。太陽と月の大聖女に問いかけた勇気ある聖女は、困った微笑を浮かべた二人に『彼女はとても繊細で恥ずかしがり屋なんです』と言われたとかいないとか。
謎だらけの星の大聖女の噂には尾ひれや背びれがたっぷりついて、市井に住む人々の話題の的となるのだった。
◆ ◆ ◆
思い出したかのように話題の中心になってしまう星の大聖女、マリエル・アストリッドは今日も死んだ魚の目をしていた。
自分の前に跪くのはこの国の宰相の息子であり、侯爵家の嫡男だ。クリストファーだったかクリストフだったか、遠い目をしていたマリエルは名前をきちんと憶えていない。
「星の大聖女よ、どうぞ息子にもその力の加護をお与えください」
クリスなんとかの隣で深々と頭を下げる宰相は息子想いなのだろう。
数年前に神殿にやって来た時より幾分か年を重ねているが、頭頂部は年齢の割にとても元気だ。薄茶色の髪はふさふさとしており、あと数年は元気な毛根のままでいることが窺える。
対して、まだ二十代前半の息子は、頭頂部が薄毛になりかけていた。毛量が減り頭皮が見え隠れしている。
(まあ、遺伝よね……多分)
数年前まで頭頂部がツルツルしていた宰相のことを思い出しながら、マリエルはそっと息子の頭を見つめていた。
このまま何もしなければ、彼の頭は父親と同じくツルツルになるだろう。まだ二十代前半の青年で、これから結婚を考える時期にてっぺん禿げというのはあまりにも可哀想だ。
髪型を工夫すればいくらでもごまかせることもできるが、そんなことを他人に言われたくないだろう。今の時点で手を打っておけばツルツルになる前に救済できるし、他者に気づかれるリスクも減る。
「頭をお上げください」
マリエルは聖女らしい声音で告げた。極力感情を抑えた声で問いかけると、クリス……は期待を込めた目で懇願してくる。
きっと治療してもらえるという気持ちがありありと伝わってきて、マリエルは顔に微笑を貼り付けた。
星の大聖女と呼ばれるマリエルの聖なる力は、育毛に特化している。
一体どういう加護なのかさっぱりわからないが、孤児院育ちのマリエルが大聖女と呼ばれるに至ったのはこの力のお陰だ。
七歳の時に大好きだった孤児院の院長へ感謝の気持ちをこめて頭にキスをしたところ、翌日には真っ白な髭と同じく白い髪の毛がふさふさと生えた。『わしの頭に奇跡が起きた!』と大騒ぎになり、あれよあれよという間にマリエルの身柄は神殿預かりとなった。
死滅していた毛根が復活したことで、いつしかマリエルは「髪の救世主」とまで呼ばれるようになっていた。
『かつらが不要になった!』
『これで突風なんて怖くない!』
『若返って見える!』
『自信がついた』
『薄毛の遺伝に怯えなくて済む』
などなど、野太い声で涙混じりの称賛を浴びて、純粋に喜ばしい反面、内心では引いていた。大の男が少女の前で泣く姿はとても強烈だったのだ。ちょっと怖いと思うほどに。
そして十歳の頃には国王から星の称号を与えられて、大聖女と呼ばれるようになった。頭をふさふさにしてきた功績が認められての異例の出世だ。まあ、国王本人もマリエルの恩恵に涙を流したひとりでもあるので当然の結果とも言える。
人助けは嫌いではない。むしろやりがいがあるとは思っているが、好きでもない相手の頭皮にキスをするという行為は何度経験しても慣れるものではなかい。若干嫌悪感すら抱いている。
今では仕事として割り切れるようにはなったが、わずかに残る抵抗感が彼女の薄紫色の瞳に現れていた。生気が抜けた死んだ魚の目になるのも仕方ないことなのだ。
もうハゲはこりごりなのだが、毛根との戦いは半永久的に続いていく。
マリエルの奇跡は半年に一度、一年に一度と時間を置いて繰り返し行うことで、薄毛になる周期を遅らせられるものだという研究結果が発表された。聖女の力を分析する研究チームの約半数がマリエルの力を研究しているというのだから、いかにこの国のお偉方の関心が注がれているかがわかる。重すぎてちょっと泣きたい。
そして今目の前で跪いている子羊はまだ若いし、完全につるっぱげではない。今回の一度の加護で、恐らく五年は薄毛の心配をしなくて済むだろう。
「お父様より手順を伺っていると思いますが、簡単にご説明します。まずは聖水で頭皮を濡らし、私が貴殿の頭に口づけます。その間動かれませぬように」
「はい、よろしくお願いいたします」
ゴブレットを傾けて水で手巾を濡らす。
聖水と呼んではいるが、普通の水と大差ない。聖女見習いが癒しの力を注いだものでもなく、純粋にただの水だ。
(頭を拭かずに口づけるとか無理だもの。気持ちの問題だから仕方ない)
さすがに湯浴み後に来てくださいとは言えないため、儀式っぽい手順を演出しているだけに過ぎなかった。
濡らした手巾で丁寧にクリスの頭を拭く。頭皮が見え隠れしている薄毛の中心を念入りに。
お腹の奥に気合いを込めて呼吸を止める。「毛が生えますように」と心の中で唱えてから頭皮に口づけた。
数秒後、新しい手巾をふたたびゴブレットの水で濡らし、唇をごしごしと拭った。これで一連の流れは完了である。
「終わりました。通常は翌日には目に見えて効果が出てきますが、二、三日は様子を見てください。髪の毛の長さには個人差があり制御が効かないので、三日後に整えられることをお勧めします」
「……あ、ありがとうございました!」
感極まった声でお礼を言われるが、少し早い。効果を確認してから改めてお礼がほしい。できれば金品に気持ちを込めて渡してくれるとなお嬉しい。
「星の大聖女様、私からもお礼を申し上げます。これで息子の婚約者選びも進むことでしょう」
「お役に立ててなによりです」
マリエルの目に少しだけ生気が戻る。
表面上は微笑を貼り付けたまま冷静さを保っているが、内心そわそわした気持ちが抑えられない。
(さあ、遠慮せずに賄賂でもお礼でもくれていいのよ!)
神殿は慈善団体だ。国の支援と寄付で運営している。
寄付金を受け付けてはいるものの、聖女個人にあてた贈り物は原則受け取ってはならないとされていた。
だが大聖女の治療を受けた者の多くは、何かしらのお礼品を贈るのが一般的だ。多くの聖女や聖女見習いは贈り物を受け取れない規則があるものの、力の強い大聖女は別である。高価なお礼品を受け取っても咎めを受けることはない。
公平性に欠ける、神殿内の倫理観はどうなっているのだ、透明性の欠如が……という議論もなくはないが、大聖女も人の子だ。多少俗物的でも気分よく聖なる力を発揮してくれた方が効果が高いのなら、誰も文句は言えない。そして何より、大聖女から高価なお礼を持って来いという強要は一切していない。あくまでもお礼はありがたく受け取るというスタンスである。
「つまらないものですが、ほんの気持ちばかりの品をお持ちしました。どうぞお受け取りください」
「まあ……よろしいのですか?」
「ええ、もちろんですとも。星の大聖女様はお酒を嗜むと聞いておりますので、ぜひソランジュール地方の葡萄酒を召し上がっていただきたく。これは現地でしか味わえない代物ですので、きっとお気に召すかと」
(やった! 葡萄の名産地のソランジュール地方の葡萄酒が来た! 宰相ってばいいセンスしてるじゃない)
包みを開けると、それは生産数が少ないため滅多に王都にも入ってこない貴重な葡萄酒だった。マリエルの目が爛々と光り……意思の力でその輝きを抑えようとする。
「ありがたく頂戴いたします。次にお会いできたときに味の感想をお伝えしますね」
「ええ、ぜひとも」
にこやかな笑顔と共に宰相親子は去って行く。きっと息子の頭が以前よりもふさふさになれば、後日ふたたびお礼品を持ってくることだろう。
そのときはなにをいただけるだろうか。希少な宝石やアクセサリーなどかもしれない。
マリエルは宝石が好きだ。指輪やネックレスにアレンジされたものも、いざというときに身一つで逃げて当面の資金にできるから便利だ。特に美しくて高値で売れる石はよだれが出るほど心が躍る。
消えものなら酒と菓子も好きだ。だが菓子箱の底に隠された金貨はもっと好きだった。
「ふふふ……ぐふふ……って、いけない。よだれが垂れそう」
自室への帰り道。緩くなった口許を袖で拭いた。
(いいお酒が手に入ったし、今夜は月見酒をしなくっちゃ!)
多くの子羊たちがマリエルに高価な品を持ってくるのは、感謝の気持ちともうひとつ。若い少女にキスを授けてもらうことへの罪悪感も入っているのだろう。彼らはマリエルよりも年上の子を持つ父親が主だ。己の寂しくなった頭に複雑な気持ちを抱いているだけあり、そんな場所へ若く美しい大聖女がキスをするという背徳感を味わっていることを知っている。
悦に浸る男もいるが、ほとんどの男性は申し訳なさそうな気持ちと感謝の気持ちがないまぜになった感情を向けてきた。
それをわかっているだけに、マリエルも仕事としてプライドを持って向き合う努力をしているのだが……実際に毛根が死滅した頭を見ると無の境地になってしまうのだ。口角だけは根性で上げているので許してほしい。
「今日の予約はもう入ってないし、お仕事終わり! 晩酌の準備に入ろうかしら」
葡萄酒に合ういただきもののナッツ類や乾きものもあったはずだ。食堂からこっそりチーズも分けてもらおう。
神殿内でも特殊な扱いのマリエルは、限られた人の前にしか大聖女の姿をさらしてはいけない。ただの癒しの力なら数十人もいるが、マリエルの特異性の高い力はあちらこちらで火種となりうるものだと、国の権力者たちが考えたらしい。
はじめは「そんな馬鹿な」と笑い飛ばしたのだが数年も経てば理解した。世の中には大金を積んででも寂しくなった頭を復活させたいと望む男性が多くいたのだ。
うっかりマリエルの存在が他国に漏れたら、あちこちから使者が来るかもしれない。政治的ないざこざに巻き込まれる可能性に気づき、マリエルは自分の姿を隠すことへ同意した。その代わり多少の自由を貰えたのだから、ある意味万々歳である。
月がすっかり高くなった頃。マリエルは聖女のドレスを早々に脱いで城のお仕着せに着替えていた。
マリエルの部屋のクローゼットには、聖女のドレス以外にも様々な服が用意されている。中でも一番利用するのが変装用のお仕着せだ。城を歩いていても咎められず、まさか大聖女だと疑われることもない。
聖女のドレスを纏うときは髪の毛を隠しているので、マリエルの特徴的な薄紅色の髪を見られたことはない。お仕着せを着ているときはそこまで気を使う必要もないので、開放的な気持ちでいられる。
バスケットに宰相からいただいたワインとグラス、そしていくつかのおつまみを入れて神殿を抜け出した。目的地は隣に位置する王城の庭園だ。今宵のように雲一つない満月の夜は、特定の条件でしか咲かない花が見頃になる。庭師が手入れをした庭園の一画に咲く花を眺めながらおいしい酒を飲んだら最高に気分がよくなりそうだ。
(今夜も侵入成功ね。っていうか、こんな簡単に城の敷地内に入れちゃうって、警備ガバガバ過ぎだわ)
神殿は王城の隣に位置しているが敷地は分けられている。壊れた柵があることを知っているのはきっとマリエルくらいだろう。多くの聖女はマリエルのように神殿を抜け出すこともしなければ、無断で外出もしない。厳しい戒律があるわけでもなく、そこそこ居心地のいい神殿で暮らしていると、わざわざ危険を冒すような真似はしないのだ。つくづく行儀がいいお嬢さんたちである。
(夜の散歩をひとりで満喫できる自由も知らないなんて、聖女ってかわいそう。子供の頃から箱入り娘に育てるから世間知らずになるのよ)
まあ、世間知らずでも問題ないのだろう。彼女たちは結婚適齢期を迎えれば、神殿が良縁を見つけてくれるのだから。成人年齢の十七歳になれば、年に一度の交流会と称した婚活パーティーまで開かれる。多くの聖女たちはそこで生涯の伴侶を見つけるのだが、生憎大聖女には参加資格がなかった。
気づけばマリエルは十九歳。あと二、三年で伴侶を見つけないと、行き遅れと言われてしまう。
「私もこのままハゲを癒してる場合じゃない……でも出会いがない!」
自分以外の太陽と月の大聖女は、いつの間にかちゃっかり婚約者を作っていた。
作物の実りを助ける太陽の大聖女は各地を巡ることが多い。領地を巡回中に、年の近い伯爵家の息子から求婚されたのだとか。
歌声で傷や病を癒す月の大聖女は、騎士団の遠征に同行した際に魔獣に襲われた副団長を救い恋に発展。年内には人妻になることが決まっている。
そして薄毛に悩むハゲばかりを救っているマリエルには中年の既婚者ばかりとしか出会いがなかった。たまに宰相の息子のようなパターンもあるが、マリエルは自分が救った男には絶対に惚れないと決めている。マリエルの貴重な力が目当てで近づいてくる男かもしれないし、利用されるような関係はごめんだ。
(行き遅れは嫌だけど、このままぬるま湯生活を送るのもどうかと思うな……)
コツコツと溜めてきた隠れ財産を思い出す。宝石類のほかに金貨が九十九枚溜まっていた。銀貨と銅貨も入れたらさらに多い。
一般的な平民は、金貨が五枚もあれば一年を暮らせると言われている。地方に行けばさらに少ない金額で過ごせるだろう。ただ持ち家か賃貸かで支出は変わってくるし、一概には言えないが。
数十年、働かなくても食うに困らない資産があるなら、いっそのこと旅にでも出てしまおうか。このまま薄毛を治療するだけで若くて健康な時間が消費されてしまうのはどうかと思う。
「……ん? なにあれ」
目的の東屋に到着した。だが少し離れた場所に誰かが横たわっている。
マリエルは東屋のテーブルにバスケットを置いて、庭園の前で倒れている人物に近づいてみた。
「もしもし、死体ですか?」
死体ならば返事が来ることもない。マリエルはすぐに「生きてますか?」と訂正した。
「ン……」
応答する声が聞こえた。よかった、寝ているだけらしい。
満月の光が柔らかく辺りを照らすおかげで、倒れている人物を観察できた。男は思った以上にデカくて、身なりもいい。もしかしたらどこかの貴族の嫡男か、ガタイの良さから騎士かもしれない。
もはや習慣のようにマリエルの視線は頭に注がれる。黒髪の男は見たところふさふさとした頭をしているが、後頭部の一か所に円形のハゲができていた。
「部分ハゲ……」
これは恐らく、ストレス性のものだ。
若い人にも発症するもので、長期的な治療が必要になる。一番はストレスの元から離れて心身ともに休むこと。この男は真面目で苦労性なのだろう。
僅かに酒の臭いを感じ取った。恐らく酔いを醒まそうと外を歩いていたら眠気に抗えずに寝てしまったということだろう。すぐ近くにベンチがある。そこには男の物と思われるジャケットが置かれていた。
(見捨てるか、見捨てないか……)
気づかないふりをして立ち去った場合、しばらくモヤモヤが残りそうだ。後味が悪い。そしてストレス性のハゲを見てしまうと、余計にかわいそうな気持ちになってきた。
マリエルはそっと周囲を見回す。近くに人気がないことを確認し、身体を屈めた。
これはただの気の迷いだ。いつもなら絶対神殿の外で力を使うことなどしないけど、今夜は月と花を愛でながらおいしい酒が飲みたいから。そのために気分よく人助けをしてもいいではないか。
心の中で言い訳を呟いてからそっと男の頭皮に口づけた。口づけられた部分だけ、長い髪が生えてくるという珍妙な奇跡をどう対応するのか気になるところだが、それはまあ置いておいて。
「お兄さん、大丈夫ですか? 人を呼びましょうか?」
マリエルは平然とした態度で男の肩を叩いた。いくら初夏とはいえ、夜は冷える。このまま寝ていたら男も体調を崩す。
「ん……?」
男の身体がびくりと動く。そろそろ覚醒するだろうと思っていると、第三者の声が降って来た。
「こんなところに倒れていたとは」
「え?」
振り返った先には、月明りを浴びて輝きを増した金の髪に青い目をした美男子が立っていた。年はマリエルより数歳上の二十代半ば頃に見える。柔和な微笑を浮かべて、少し困ったように眉を下げているところも絵画のように麗しい。美しさが際立つ美形の登場に、マリエルはしばし呼吸を忘れた。
「すみません、お手を煩わせて。その男は私の連れなのです」
「……っ! あ、そうでしたか。行き倒れているのを発見して声をかけただけなので、決して危害を加えるつもりは……」
「ええ、わかっています。助けてくれたのですよね。ありがとうございます。……イグナーツ、起きなさい。帰りますよ」
前半はマリエルに、後半は寝起きで頭が回っていない男に。
イグナーツと呼ばれた男は、状況が飲み込めていないようだった。だが金髪の男を見た途端、すぐに立ち上がり姿勢を正した。
「申し訳ありません、とんだ失態を」
「私は捜しに来ただけです。お礼は彼女へ」
どうやら金髪の男がイグナーツの上司らしい。年齢はあまり変わらないようだが、上官と副官とかそんなところだろう。
(深く考えるのはやめておこう。自己紹介をするつもりもないし)
「あなたが助けてくれたのですか。ありがとうございました」
「いえ、大したことはしていませんので」
「ぜひお礼をしたいので、お名前を伺っても?」
金髪の男に名前を尋ねられる。自ら捜しに来たりお礼まで申し出るとは、随分部下思いらしい。
マリエルは内心狼狽えた。ここで適当なことを言ってしまったら、侵入者だとバレてしまうかもしれない。大聖女だとバレるのも問題だが、警備が厳しくなっていつも使っている柵が修繕されてしまうのも困りものだ。
「お礼は結構です。お気持ちだけで」
「そうですか。ではお名前だけでも」
この男、見かけによらず強引である。
ズイッと一歩近づかれて、マリエルは咄嗟に「マリー」と名乗った。アストリッドまでを名乗るつもりは毛頭ない。ちなみにアストリッドは孤児院の院長の家名である。
「奇遇ですね。私の名前とよく似ている。私のことはマリウスとお呼びください」
「はあ……そうですか」
(いや、呼ばんけど)
花を愛でながら月見酒をするはずが、余計なものが釣れてしまった。この様子だとあまり長居はしない方がよさそうだ。
「ところで、あそこの東屋に置いてある荷物はあなたのものですか?」
(目敏い!)
変に誤魔化すとボロが出そうだ。マリエルは仕方なく、月見酒をしようと思っていたところでイグナーツを発見したと正直に伝えた。
「邪魔をしてしまい申し訳ない」
再度頭を下げて謝るイグナーツに、マリエルは帰宅を促す。随分疲れているようだからゆっくり寝てほしいと告げると、マリウスも同意した。
「ひとりで帰れますね?」
「はい……いえ、ですが」
「私はマリーを送ってから戻ります」
「えっ」
突然巻き込まれるのは困る!
マリエルは狼狽えながらその申し出を断った。
「こっそり抜け出しているので人目につくのは困るんです(ウソではない)」
「見たところあなたは侍女でしょうか。そんなに厳格なのですね」
(知らんけどそういうことにしておこう)
マリーは必死に頷いた。使用人部屋の周辺は男子禁制とも付け加えておく。
「なるほど……では、私も月見酒に付き合ってもよろしいでしょうか」
「え」
嫌だとは言いにくい。マリエルが頷くと手を差し出された。これはエスコートをするということか。
マリエルの思考がぐるぐる回るが、ここで断っても面倒なことになりそうだ。仕方なくその手に手を重ねたところで、イグナーツがこの場を去った。
(グラスを二個用意していたのは果たしてよかったのか悪かったのか……)
マリウスが慣れた手つきでコルクを抜く。グラスに注がれた葡萄酒は味わい深くて香りも豊かで、感嘆とした声が漏れるほどおいしかった。
「はあ~おいしい」
「とてもいい葡萄酒ですね。これはなかなか手に入らないソランジュール地方の名産では」
「っ! そ、そうなんです。たまたま知り合いからお土産でいただいて……」
ひとつ嘘をつくと、次も嘘を重ねることになる。
気持ちよく酔いたいのに、これでは酔うことはできないだろう。相手を酔わせた隙に逃げることばかりを考えてしまう。
ちびちびと葡萄酒を飲み進めて、チーズやナッツを口に運ぶ。目の前の美形はニコニコとした笑顔を絶やさずマリエルに話題を振っていた。まるで接待を受けている気分だ。
(物腰が柔らかくて気品があって……どこの貴族かしら。王族ではないことは確かだけど)
国王も王太子もマリエルの顧客だ。よく見知った顔なので間違えることはない。
この国の王族は全員把握しているし、残念ながらマリウスほど人目を惹く美男子はいなかった。ちなみに王太子は既婚者で、五歳になる王子がいる。
イグナーツが騎士のような体格をしていたことから、きっとマリウスも騎士団の人間なのだろう。イグナーツよりは線が細いが、隙のない振る舞いから剣を扱うことが窺える。
「そういえば、マリーは知ってますか? 星の大聖女の話を」
「っ! い、いいえ……まったく」
急に自分の話題を振られて動揺が顔に出そうになった。心臓に悪いのでやめていただきたい。
「なにか気になることでもあるのですか?」
訊きたくないが、ここで話題を逸らしたら不審に思われる……マリエルは内心気まずい気持ちで詳細を尋ねた。
「そうですね、個人的にはとても。唯一公にはされていない大聖女ですし、噂ではとても人見知りで恥ずかしがり屋とのことですが、聖女の力も秘匿されているとなるとどれほど清らかで純真な心を持った方なのか……」
「……そうですね(棒読み)」
マリエルは遠い目をして月を眺めた。
清らかで純真とは程遠い。自分を表す的確な表現は強欲や金の亡者、潔癖あたりだろう。
(ますます表には出られないわ)
そして遠ざかる婚期。泣けてきそうだ。
もはや星の大聖女と知った相手と婚活をすることは難しい。やはり全財産を持って失踪してしまおうか。無理やりにでも自由を求めて旅に出ないと、一生が薄毛の治療で終わってしまう。
「……実は存在しないという可能性もあったりしませんか?」
「星の大聖女が架空の存在だとでも?」
「お会いになった人が限られているなら、その可能性もゼロではないかと」
マリウスの興味をなくしてしまおう。下手に星の大聖女を美化して、憧れを募らせるのはよろしくない。
いない相手を求めても仕方ないという方向に誘導しつつ、グラスに入った葡萄酒を飲みきった。
「私、そろそろ帰らないと。今夜はありがとうございました」
「いえ、私の方こそ楽しい時間をありがとうございました。今度は私においしい酒を奢らせてくださいね」
「……ありがとうございます」
約束はせずに聞きながす。近くまで送っていくと言われたが、マリエルはここで問題ないと告げた。
マリウスの背中を見送り、神殿へ逃げ帰るように自室へ戻った。
(数日は大人しくしておこう。でもその間に、神殿を去る準備をしなくちゃ)
いつかいつかと先延ばしにしていたが、そろそろ人生の転機を迎えてもいい。
ため込んだ財産を少しずつ現物資産に換えて、持ち歩く金貨を減らした方がよさそうだ。
神殿に向けての手紙も用意しておかなくては。これまで育ててもらった感謝の気持ちを綴り、男性の魅力は毛量の有無ではないことも記載するつもりだ。毛根が死滅したって素敵な人は素敵なのだと声を大きくして言いたい。
そんなことをつらつら考えながら眠りに落ちて、翌日は昼近くに起床したのだった。
◆ ◆ ◆
マリウスと知り合ってから三日が経過した。
ひとりぼっちで朝食を食べ終えると、マリエルのもとへ神官長がやって来た。白い髭と同じく白い毛がもさもさと頭を覆っている。下手なかつらよりもかつらっぽい自前の毛は、マリエルの力で復活させたものだ。
「マリエル、つかぬ事を訊くが」
「はい、神官長。どうされましたか?」
何やら言いにくそうに口ごもっている。いつもとは違う様子に、マリエルは奇妙な緊張感を味わっていた。
もしや神殿を抜け出して夜な夜な出歩いていることがバレてしまったのか……と冷や汗をかきそうになっていると、何やら隣国ベルツシュタインの王族を話題に出される。
「まさかベルツシュタインの王族も禿げてるんですか?」
「これ、言葉はちゃんと選びなさい」
「では、頭が寂しくなっているんですか?」
言い換えても言っていることは同じである。
神官長は溜息を吐き、「あちらは高齢になっても元気な頭髪の家系じゃ」と告げた。
それなら自分の出番はないだろう。マリエルはそっと胸を撫でおろす。隣国まで出張サービスをして来いと言われたら、しばらく行くかどうか迷いそうだ。拒否権はないだろうが。
「ベルツシュタインの王太子が王城に滞在しているのは知っておるか」
「いいえ? そうなのですか? あ、数日後に陛下の誕生祭があるからでしょうか」
国王は今年で五十歳を迎える。その記念すべき日は盛大に誕生祭を祝うのだ。各国からの賓客も増えることを考えると、隣国の王太子が早めに城に滞在していてもおかしくはない。
「そうじゃ。それでその王太子殿下が、星の大聖女との謁見を求めている」
「え……なんで?」
「わからぬ。マリエルよ、なにか心当たりはあるか?」
「そんなことを言われても、私には接点がありませんし……」
「お主がこっそり神殿を抜け出していることくらいお見通しじゃ。うっかり外で人助けなどしていないな?」
「していな……」
イグナーツを思い出した。そして熱心に話しかけてきたマリウスのことも。
「あ」
「やはりあるんじゃろ! ええい、もう全部吐かぬか!」
「いえ、ほんのちょっと出来心で……ストレス性のハゲは可哀そうだなって、つい」
「急に馬の尻尾のようにそこだけ長い毛が生えてきたら驚くに決まっておろう!」
それもそうだ。面白半分で余計な親切心を出すものではない。
イグナーツの混乱や驚愕を思い浮かべると、なんだか良心が痛んで来た……もしやその珍妙な奇跡のせいで、星の大聖女を疑っているわけではないと思いたい。
「いいか、わしの長年の勘が言っておる。ベルツシュタインの王太子は星の大聖女に求婚する気じゃ」
「なんですか、その勘って。急に突飛なことを言われても」
「あの熱の入れようは絶対にそうじゃ。大聖女が独身の適齢期の女子おなごで決まった相手もいないのであれば、婚約者候補にしようと目論んでおってもおかしくないぞ!」
「えええ……考えすぎですよ」
ないない、と笑いながら否定しつつも、マリエルはあの夜のマリウスを思い出していた。
もしかしたらマリウスがベルツシュタインの王太子という可能性はないだろうか……。
(え、なにそれ怖い)
イグナーツはマリウスの側近で、護衛騎士だと考えたら?
晩餐会でマリウスが飲み過ぎないようにイグナーツが調整し、代わりに飲んでいたとしたら? 主が気になってイグナーツを捜しに来ることもあるのではないか。
「……私、しばらく神殿に引きこもるので、星の大聖女は不在か体調不良とでも伝えていただけますか」
「そんなところだと思ったわ……まあ、よい。体調不良で臥せっておると言っておこう。聖女は他の聖女の癒しを受けると余計体調が悪化するし、自然治癒に任せるしかないしな」
ちょっとした風邪程度なら寝て治すしかない。
神官長が去った後、マリエルは急いで自室に戻った。
(こうはしてられないわ! 早く荷造りしなくっちゃ)
自室にこもるとは言った矢先に旅支度を進める。ようは王都から離れれば問題ないのだ。
必要最低限の荷物と地図を持ち、動きやすい服装に着替えた。町娘のような装いなら、市井をうろついても目立たないだろう。
文机の上に用意していた手紙を置いて準備万端だ。
「こういうときって夜逃げが一番だと思うけど、夜だと遠くまで行けないし」
落ち着いたらまた手紙を出せばいい。なんだかんだと神官長はマリエルの家族同然の付き合いだ。いきなり消えたら心配するだろう。
警備が薄い裏口に近づく。門番の休憩時間を見計らって、一瞬の隙をついて外へ出た。
(よし、第一関門は突破成功)
このまま王都の喧騒に紛れ込んで、辻馬車を拾おう。隣の隣町まで行って宿を探したらいい。
周囲を警戒しつつ軽やかな気持ちで進み、あと少しで王都の大通りに到着するはずだったのだが。
「え、なに!?」
背後から近づいてきた人物に麻袋をかぶせられて、あっけなく誘拐されてしまったのだった。
◆ ◆ ◆
(なんか埃っぽい……鼻がムズムズする)
マリエルはそっと目を開ける。身体はでこぼこしたソファに寝かせられていた。あまり上等なソファではないが、床じゃないだけマシだろう。
(私どうしたんだっけ……? あ、そうだ! 誘拐されたんだった!)
大きめの袋をかぶせられてどこかに運ばれたのだった。しばらく大人しく馬車に揺られていたが、いつの間にか眠っていたらしい。自分の図太さに呆れつつも、そのおかげで体力が消耗されずに済んだ。
身体に痛みはなければ、手足も拘束されていない。荷物は犯人たちに取り上げられている可能性が高いが、まあ何とかして取り戻せばいい。
(一体目的はなにかしら)
耳を澄ますと、隣の部屋で何やら言い争っている声が聞こえてきた。マリエルはまだ眠ったふりをしていた方がいいだろう。余計な物音を響かせたくはない。
「――から、今からでも遅くない。やっぱり返そう」
「返すってどこにだ。俺たちはもう犯罪に手を染めてるんだぞ!」
「でも兄さん、聖女を誘拐して身代金をもらうなんて無茶だよ! 真面目に頑張って働いて借金を返そう」
「簡単に返せる額じゃねえだろう!」
(ああ、なるほど。身代金目的の誘拐に巻き込まれたってわけね)
神殿の正門と裏門には門番が立っており、簡単には出入りができない。ましてや神殿にいる聖女は滅多に外には出なければ、ひとりで行動することもない。
マリエルが攫われたのはきっと偶然神殿の裏門から出てきたのを見かけたから、衝動的に行動してしまったのだろう。裏門を出入りするのは関係者以外あり得ないからだ。
(聖女のドレス姿じゃないんだけどな……まあ、彼らの読みは当たってるけど)
誰でもいいから女性が出てきた衝動で攫ってしまったのだとしたら、あまりにも浅はかすぎる。せめて聖女のドレスと見間違えたと言われれば納得もいくが、今のマリエルは市井に住む女性と似たり寄ったりの恰好だ。
ちなみに真っ白な聖女のドレスは、聖女の清らかさを表現しているらしい。ただ白は汚れやすくて好きではない。一度神官長に「黒いドレスとか新しくて良くないですか?」と訊いたら頭を叩かれた。何事にもイメージというものがある。極端すぎると周囲が混乱すると言われ、渋々納得したのだが。
(って、いけない。思考が逸れてた)
簡単には返せない金額の借金があり、犯罪に手を染めてしまった兄弟が誘拐犯の正体らしい。
遊び目的で借金が増えたのだろうかと考えていると、ふたたび弟の声が壁越しに聞こえてきた。
「……俺だって悔しいよ。死んだ父さんを保証人にさせて、俺たちに払えと脅すなんて」
「父さんが保証人になったなんて嘘に決まってる。だが偽造だという証拠もないし、死者は本当のことを証明なんてしてくれない」
「来週までに支払えなんて無茶だよ……このままじゃ家族で過ごした家を奪われてしまう」
(おお……)
遊ぶ金ほしさに借金を作ったと言われた方が簡単に怒れたし詰ることもできたのだが。なんだか予想外に重い話を聞いてしまい、マリエルのお腹の奥もズシンと沈む。
身体を自由にさせられているのも悪人じゃないからないのだろう。衝動的に攫ってしまったけれど、二人の兄弟は罪悪感を抱いているようだ。
(とりあえず話し合いかな)
見たところ、あまり手入れがされていない空き家に連れ込まれたようだ。
聖女暮らしが長いため、不衛生な場所に長居したくはない。湯浴みができないのも嫌だし、用を足すのも外で穴を掘って埋めろと言われるかもしれない。
(うう……お手洗い問題は嫌すぎる)
ここは二人の会話に入り、サクッと借金問題を解決させよう。
いざというときはマリエルの人脈を使って彼らを助けられる人を紹介できるかもしれない。借金の額にもよるが、市井に住む兄弟が貴族を没落させるほどの額を背負っているとも考えにくい。
マリエルは意を決して声を出す。
「あのーすみませんー! 借金ってどれくらいあるんですか?」
「っ!?」
驚愕した声が壁越しに伝わって来た。やや直球すぎたかと思っていると、慌てた足音が近づいてくる。
「起きたのか!」
「身体は痛くない!?」
兄、弟と思しき二人の青年が入って来た。大柄で体格のいい職人風の兄と、ややぽっちゃりした人がよさそうな弟。似てない兄弟に思えるが、見るからに悪人ではなかった。
(悪人なら私の身体を心配しないもんねぇ)
手首くらいは拘束しててもいいと思うが、痛いのは嫌なので黙っておく。
「お二人の会話が聞こえてきたので、もう参加してしまおうかと思いまして」
「あ、ああ……その、すまねえ。あんたを勝手に攫ってきて、反省している」
「もしかして本当に聖女様だった? 罰当たりなことをしてすみません……身代金目的の誘拐なんてするもんじゃないってずっと後悔してて」
ただの聖女ではなく大聖女だと言ったら、この二人は泡を吹くんじゃないか。だが自慢ではないが、マリエルは聖女の威厳も感じられない。珍しい髪色を抜きにしたら、いたって平凡だと思っている。
「それで、借金はいくらなんですか? 聖女を誘拐するほど思いつめていたんでしょう。どれくらいあるんですか?」
金貨が二~三〇〇枚くらいだろうか。何らかの事業に失敗して借金を背負う羽目になったのだとしたら、そのくらいはするかもしれない。
「ああ、その……金貨五十枚」
「……は?」
バツの悪そうに答えた兄に向かって、マリエルは聖女に似つかわしくない声を上げた。
「今五十枚って言いました? 金貨五十枚?」
「あ、ああ……」
マリエルのこめかみに青筋が浮く。
五十枚だなんて、マリエルの隠し財産の半分の額ではないか。(一枚増えた)
「アホかー! たった五十枚で大聖女を取引材料にするなんて、安すぎるわよ!」
「え、安い?」
「ってか大聖女?」
五十枚でも庶民にとっては大金だ。質素に暮らせば十年間は無収入でも暮らせる。
マリエルは胸の前で腕を組んだ。
自分という価値を金額にするのは少々抵抗があるが、客観的に見た自分の強みと聖女の力、独身で結婚適齢期で容姿はまあまあ悪くないという評価を数字にする。孤児院育ちというのは少々マイナスかもしれないが、薄紅色の髪と薄紫色の瞳は珍しくて綺麗だと褒められることもあった。
(それと私がこの十年ちょっとで稼いできた金貨百枚もプラスして……)
「金貨千枚よ! 私を身代金の取引に使うなら、それより下の金額なんてありえないわ」
「せ、千枚……!?」
「ま、待ってください! 俺らの借金は五十枚なのに、身代金千枚も要求するなんて無理です……!」
どうもこの兄弟は人がいいらしい。マリエルのことを守銭奴かなにかかと目が問いかけている。当たっているが失礼だ。
「大丈夫よ、金貨百枚くらい出しても痛くも痒くもない人たちなら、たくさん知っているから。十人が百枚ずつ私たちに寄付したら、千枚なんてすぐに集まるわ。五十枚ずつなら二十人。湯水のごとく使っても使いきれないほどの財産を持つ人たちは、星の大聖女を救うためなら快く寄付をしてくれることでしょう」
にっこり笑いかける。兄弟は震えあがった。
「新手のカツアゲ怖い」
「というか星の大聖女様……?」
「俺たち、なんていう人を誘拐したんだ……」
すっかり牙を抜かれた状態だ。これでは身代金を要求するのは無理そうだ。
「せ、せめて二百枚……」
「千枚を要求する度胸なんて俺たちにはとてもとても……!」
「却下よ。あなたたち、勘違いしているようだけど最低金額が金貨千枚って言っているの。そこから値引きなんてありえないわ」
「そんな!」
「守銭奴すぎますよ!」
「いくら大聖女様と言えどぼったくりすぎる!」
ギャーギャー責められる。これではどっちが悪者かわかったものではない。
なんだかマリエルの心は荒んできた。
「ならば買いましょう。金貨二千枚で」
「え」
「は?」
入口の方から声がした。
この場にはいないはずの乱入者の登場に、兄弟とマリエルは呆気にとられる。
(……げぇっ!)
埃っぽい空き家には似つかわしくない美男子が立っていた。
穏やかな笑みを浮かべた金髪の男の背後には、騎士と思しき男たちが数名控えている。そのうちのひとりはイグナーツだった。
金髪の男、マリウスがマリエルに笑いかける。
「お久しぶりですね、マリー。三日ぶりでしょうか」
「マ……マリウス様……何故ここに」
「あなたの気配を追ってきました」
(なにそれ怖い)
身体に震えが走った。聖女の持ち物になにか細工がされていたのかもしれないが、それを今確認することはできない
「面白そうな話をされていましたね。私も概ね同意です。あなたの価値は金貨千枚でも到底足りない」
「ええ……嘘だろう」
兄弟が密かに引いていた。
なにせ人前に出てこない星の大聖女など、いくらでも騙ることができる。大聖女を証明するものが一切ないのだから、マリエルが自称大聖女と名乗っているだけだと思っていたようだ。
「ですから私があなたの身柄を金貨二千枚で買いましょう。そのうちの五十枚をそこにいる彼らに渡したらいい」
「わ、私を買うって……なに言って」
「私があなたを貰い受けるということですよ。星の大聖女、マリエル・アストリッド」
「っ!!」
(聞かれてた!)
どうやら最初から聞かれていたようだ。気配を消して盗み聞きなんて、お上品とは言い難い。
言いたいことが山ほどありすぎて頭の処理が追い付かないが、今のマリエルは誘拐犯に攫われたとき以上にピンチだ。
「あ、あんた何者だ……?」
「私はベルツシュタインの王太子、ジークベルト・マリウス・ベルツシュタインと申します。近い未来の彼女の夫です」
「違いますから!」
「違いませんよ」
押しが強いし図々しい。
強引さに内心引いていると、あっさり兄弟たちから身体を離されてしまった。ジークベルトの腕が腰に巻き付く。
(力が強い!?)
腰を抱かれたまま胸板を押し返すもびくともしない。
マリエルは必死になって逃げようとするが、ジークベルトは拘束を緩めない。
「は、放してください!」
「放したら逃げ出すでしょう? またこのような事件に巻き込まれたらうっかり犯人を殺しかねないので、大人しくしていてくださいね」
誘拐犯の兄弟が震えあがった。彼らのことを言っているんじゃないと思いたいし、同じようなことが二度も起きるなんて冗談ではない。次こそは命の危機だ。
「金貨二千枚で私を買うって話はつまり、私を愛人にするつもりですか?」
「いいえ、私の正妃として迎えるつもりですよ」
「ひぇ……っ」
愛人と言われた方がまだ気が楽だった……なんて言いだせる空気じゃない。
柔らかい微笑を見せるジークベルトの目の奥が本気だった。
だがここで退いたら終わりだ。自由気ままに生きるなら、余計な権力は邪魔でしかない。
「無理です、無理です! 私は欲望まみれの聖女ですので、王太子妃にはなれません!」
「清廉潔白で高潔な王族なんて滅多にいないので大丈夫です」
(それは国の行く末が心配になるやつじゃない……!)
王太子がなかなか引いてくれない。マリエルの目には汗が浮かびそうになっていた。
「あなたは快楽に弱そうですので、身体から落とすという手もありますね」
ぽつりと落とされた独り言が恐ろしくてたまらない。
「……イ、イグナーツ助けて!」
咄嗟に助けを求めるが、イグナーツは首を左右に振りながら「申し訳ありません」と謝った。主の暴走を止める手立てはないらしい。
恩を仇で返すとはこのことでは……? こんなことなら部分ハゲなんて治すんじゃなかった。そうすればうっかり隣国の王太子とも知り合わなかったのに。
(あ、そもそもイグナーツの部分ハゲの原因って……)
一見柔和で穏やかな笑顔が麗しいのに、平然と他者を振り回す。
押しが強くて強引な王太子ジークベルトが一番のストレスの原因だったのだと、マリエルはほんの少しだけイグナーツに同情した。
――数日後。
マリエルの資産は金貨が二千枚を上回った。
約束通り、五十枚は兄弟に支払っている。今回かぎり聖女誘拐の罪はなかったことにし、金貨は彼らへの寄付ということにした。
そしてマリエルはというと……
(権力もあって強引で話を聞かない腹黒いイケメンってタチが悪い!)
金貨二千枚を返そうにも却下され、自由気ままな生活が一変した。
急に大物を釣り上げてしまったマリエルに神官長は「ほれ見たことか!」と呆れ、星の大聖女に救われていた王侯貴族たちはパニックになった。
髪の救世主を隣国の王太子の元へ嫁がせてやるものかと、ひと悶着も二悶着も起こるのはもう少し後の話。
欲望まみれの聖女ですので 月城うさぎ @usagi_tsukishiro
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