第4話 On And Off
雨が落ちてきた。冷たい雨だ。
だが、二人の頭上には青空が広がっている。強い風が、遠くの雲から雨粒を飛ばしているのだ。
「こんなに青空が広がっているのに、どこから雨がきてるんでしょうね」
美海が空を見渡して言った。その言葉に咲綾の反応はない。あったとしても美海にそれを認識できることはない。言葉や大きな動作で反応すれば別だが、美海は先程の怒りと驚きの微表情を見せた咲綾の本性からわざと目を背けていた。
「私、休みを取ってきたって言ったじゃないですか?」
雨降る青空を見上げたまま、美海は続けた。
「ええ」
思ったより近い位置で聞こえた咲綾の声に、美海の方が僅かに上がった。緊張の表れだ。
「上司には言っていないです。私と梶本さんとの関係。あと、あのオジサンとの関係も。もちろん、上司だけじゃなくて同僚にも誰にも」
それ以降の、美海の深くに押し込めている気持ちを話すか考える間に、咲綾の方がその思いを読み取った。
「責任、感じることないのに。そりゃあ、記事であんな八つ当たりみたいなことを書いた私が悪いんだけど」
――美海が自分は関わりたくないと、途中で口を噤んで姿を消してしまった。
その部分のことを咲綾は言っているのだと、美海にもすぐに分かった。だが、それが怒りの矛先を向ける場所がなかったから発せられた言葉だったと理解したとしても、あの時の美海に原因の一端があったことは事実だ。責任を感じるなという方が無理な注文と言えよう。
「美海ちゃんは悪くないよ。悪いのは私とあのオジサン」
美海は咲綾のその言葉を聞いて嘆息した。自分と辻浦博信を同列に並べ、自分が悪いと言い切った咲綾に。
「でも奥さんは、関係なかったですよね?」
ずっと上を見上げていた美海の顔は濡れている。その濡れている頬に、新たな流れを涙が作る。
美海の目の前には、また無表情の咲綾がいた。本当に目の前に。怒りに震える息がかかるほどの距離に。
「だって、あんなクズ男なのに庇うんだよ」
美海は冷たさを忘れさせるくらい強く咲綾を抱きしめた。雨の冷たさも、咲綾の心の冷たさも、世間の冷たさも。
「私、お休み中ですから。何も、記録には残しませんから」
美海の言葉に、咲綾はなぜか怒りを覚えた。
「ダメだよ。そんなの正しくない。正義じゃないよ」
咲綾は七年前にその正義感で行動したために痛い目を見た。理不尽な社会に打ちのめされた。三年前、そんな社会が悪いと、自分の手で悪を裁いた。それなのに、正しいはずの自分は人生の全てから脱落した。それでも、自分の信じる正義には背けない。咲綾はそういう人間だ。
「美海ちゃん、これだけは聞いて」
咲綾は強く抱きしめていた美海の腕を押し開き、彼女の目を見た。その目はまだ冷たいままだ。美海は、もうこの目はあの時の、自分を助けてくれた七年前の咲綾の目には戻ることがないのだと悟った。
「はい。なんでも受け止めます」
咲綾は覚悟をしている。美海はそれを受け止めなければならない。
「私は、もう正しい人間には戻れない」
「そんなことはありません! ちゃんと罪を償えば」
「あのオジサンが生き返る? 奥さんも?」
美海は返す言葉がなかった。
被害者や遺族の気持ちに寄り添わなければいけない。その無念を晴らさなければいけない。その気持ちが事件解決に向ける刑事としてのモチベーションだと叩き込まれている。
「美海ちゃんは何しにこの島に来たの? 私に会って何をしようとしてたの?」
思えば、咲綾は美海の目を見た瞬間、全てを見通していたのかもしれない。だからこそ、全身の酸素を奪われたような感覚に陥ったのだろう。
美海もそうだった。咲綾を助けたい。彼女を見た瞬間に感じた闇から、引き揚げてあげたい。そう思っていた。
そもそも初めから美海は、咲綾を助けたいと思ってこの島までやってきたのだ。全ての仕事を後回しにしてでも。
その助け方も、心の奥底では決めていたはずだった。正しい道に案内する。過ちを正す。そうするべく、咲綾から事実を聞き出すつもりだった。
だが、自分を刑事という立場に導いた彼女を失いたくないという思いも強かった。
いつの間にか雨は止んだが、空には雲が広がっている。
それでも海は青く、波は白線を引いている。
時折吹く風は、海鳥の声を運ぶ。
全ての音が彼女らの心をざわつかせたり、なだらかにしたりを繰り返している。
降ったり止んだりを繰り返す雨のように。
美海は知っていた。あの時自分を助けた女性が書類送検されたことを。不起訴処分になったとはいえ、書類送検されたという事実は残る。同じことが続けば、簡単に言うと目を付けられることになる。
実際咲綾は逮捕こそされていないが、警察に指紋や掌紋、全方向からの画像の撮影、DNAサンプルの採取はされている。いわゆる犯罪者のデータベースに、犯罪者予備軍として記録されているのだ。
それでも三年前、辻浦博信とその妻の殺害現場となった彼らの自宅から、咲綾のものはもちろん、第三者の痕跡は何ひとつ発見されなかった。
凶器の包丁は妻の手に握られたままで、施錠されていた自宅の鍵は、玄関のキーボックスに夫婦が使用していた二セットと、未使用の一セットが収められていて、周辺の合鍵製造業者には、その家の合鍵を作った記録は残っていなかった。
警察は約半年間の捜査の後、妻による無理心中として結論を出し、検察もそれを受理し容疑者死亡で処理した。
終わっていた事件だったが、真犯人の自白という証拠の出現で、新たなスタートラインが引かれた。
そのスタートラインを引いたのは、事件の発端にいた美海だ。
だが、美海はそのスタートラインから捜査という道を走り出すことはなかった。
彼女は警察を辞職し、咲綾の裁判が終結した後に、二人が七年ぶりに再会した島で新しい生活を始めていた。
事件を再び白日の下に晒した元刑事でありながら、被告人の極刑を回避するために証言台に立ったことを週刊誌に叩かれたその日から、美海も咲綾と同じように自分を脱落者だと感じていた。
「よしっ」
ランニングシューズを履いた美海は、ふくらはぎ、ひざ、ふとももと、順番に手のひらで叩く。
春の強い南風が海から島へ駆け上ってくる。
その風に向かって、美海は走り始めた。
海風を受ける背の低い針葉樹は、揃って岸壁に張り付いている。
だがその中に紛れて、一本のツバキが花を咲かせていた。
実を結ぶことなく風に花を散らすツバキ。美海は、ころころと木に咲いたままの姿で地面を転がる花たちとすれ違う。
別々の方向に進んでいても、同じスタートラインに立つ日が来るかもしれない。
落花したツバキも、社会と隔離された空間に生きる咲綾も、迷路の出口を探す美海も。
StartToRain 西野ゆう @ukizm
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