第3話 二人の朝

「ごめんね、美海ちゃん」

 美海が顔を上げるのを待って、今度は咲綾が頭を下げた。

「え?」

 美海はその咲綾の行動に戸惑った。自転車のスタンドを慣れない様子で立て、倒れないよう慎重に自転車のハンドルから手を外した。

「梶本さん、頭を上げてください」

 咲綾の背後では、朝日を乱反射して輝く波が砂浜を濡らしている。砂を洗う音が、咲綾の美海に対する謝罪という行動を不穏なもののように演出している。

 咲綾の心が風の音にかき乱されるように、美海の心は波の音でかき乱されていた。それは自身の名前に海という文字が入ることと無関係ではなさそうだ。

 無意識のうちに、美海は海と自分の全てを関連付ける癖が付いていた。

 大きく美しい海を前に、大きな後悔を隠しもせず頭を下げ続けている咲綾。

 その姿と、さっきまで自分が頭を下げていた姿とは、根本的に違うものだと美海は感じ取っていた。咲綾の後ろに広がる堂々とした海の表情がそれを証明している。

 雄大で美しいのに、大きな力と、怒りに似た悲しみを波の音に隠している。そして咲綾の紡ぐ言葉たちが、美海の受けた印象が間違いではないと証明していった。

「美海ちゃんは、私がどうしてこの島に来たか知らないでしょう?」

 顔を上げてそう言った咲綾は、無表情ながら眼光鋭い。自転車を走らせ滲んだ汗が、潮風で冷やされただけではない。明らかに別の要因で襲ってきた寒気に、美海は自分の腕を抱いた。

「胸を張って私でいられる場所を探してここに来た。そんなこと書いていたよね、私。でもね、あれは嘘」

 相変わらず無表情で話していた咲綾は「嘘」という言葉を発した後、しばらく空を見上げていた。

「あ、でもある意味では嘘じゃないか。私であるために、ある人を探してこの島に来た。正確にはそう言わなきゃいけない」

「ある人、ですか?」

「そう。私と美海ちゃんを繋げたあの人」

 その咲綾の鋭い声色に、美海はこれまでの人生で初めて、本当に冷たい表情というものを見た。輪郭が朝日に照らされた海で縁取られているから、余計にそう見えたのかもしれない。

「あの、オジサン」

 呟いた美海は彼の名前を憶えていた。もちろん顔も。意識して強烈に記憶に刻み込んだ。再び会った時に、今度はこの手で彼を掴むために。だが、ここでは咲綾の記事に合わせて「オジサン」と辻浦つじうら博信ひろのぶのことを呼んだ。

 美海がそうやって偶然を待っていた間にも、咲綾は自ら積極的に彼に近づこうとしたわけだ。その理由が美海にはひとつしか思い浮かばず、また、その理由を無表情のまま語ろうとしている咲綾の恐ろしさに頭を激しく横に振った。

 話を聞きに来た美海だったが、こんな場所では聞きたくない。美海はそう願ったが、咲綾は言葉を発し続けた。

「あのオジサンね、私のことをSNSで晒してやるって息巻いてたの。あの時私も意地張っちゃって、勤め先の名前言っちゃったのよね。ちょっと大きな企業だったから。もしかしたら、あのオジサンも取引先で働いているかもって思ってさ。そしたら絶対ダメージ受けるでしょ?」

 美海は思った。もしかしたら咲綾はあの時、美海のために痴漢のオジサンと闘っていたのではなかったのかもしれないと。ただ、咲綾自身が相手を許せなかったのではないか。だから、今さっきも美海に向かって頭を下げたのではないか。

 思考を巡らす美海を見ているのか見ていないのか。ただ自分の立つ方向に向かって話す咲綾は、過去の自分に向けて言い訳をしているようでもあった。

「それでね、私の会社の名前と、『腕を』っていうキーワードで検索したら、すぐにオジサンのアカウント見つけてね。もうアイコンがアニメの女の子でさ。気持ち悪いったらなかったな。それで、あのオジサンがこの島に転勤になったって知ったの。絶対左遷だろうなって思ったけど」

 自転車を置いた海岸沿いの道から、ゆっくり咲綾の方に近づいていた美海が、その足を止めた。これ以上進めば、咲綾の怒りに震える息がかかりそうな距離になる。

「それで、オジサンには会ったんですか?」

 咲綾はようやく美海の目を見て少しだけ血の通った表情をした。僅かにほほ笑んだのだ。

「ううん。私が来た時にはね、もう殺されてた」

 美海は自分の耳を疑い、最後に聞こえた言葉を繰り返してみた。

「殺されてた?」

 美海の聞き間違いではない。咲綾は確かに頷いた。

「私も気が抜けた。ここまで来たのに」

 咲綾は回れ右をする学生のように、メリハリのある動作で海の方へ身体を向けた。そして湿った色を砂浜に残す波に向かって話し始めた。

「私、あのオジサンを殺したかったのかな?」

 波の音は様々なものを消す。

 常識や良識といったものもその中に含まれているのだろう。美海は咲綾の言った言葉が、淡い夢を、儚い想いを語っているように聞こえた。そして、日焼けの色が残る咲綾の首筋に視線を置いて口を開いた。

「もし、私がそのオジサンにこの場所で会ったとしたら」

 美海の身体全体が波の音を受けて、鼓動が共鳴している。

「そのオジサンをこの島から追い出そうとしたかもしれません。この場所で殺したら、この場所がオジサンを殺した場所になってしまうから」

 当たり前のことを言って、何を咲綾に伝えたいのだろう。美海は話した後にそう感じていたが、咲綾にはそれでも美海の想いが伝わったようだ。再び美海に見せた表情でそれが分かる。

「私もね、それは思った。もったいないよね、こんな素敵な場所があんな奴に汚されるの」

「あっ、でも梶本さんが来た時にはもう殺されてたって」

「うん。この島でじゃないよ。東京の自宅に帰ったときにね、奥さんに殺されて、奥さんも後を追って、だとか。私も詳しくは知らないんだけど」

 咲綾は人が殺されたという話を、他人事のように軽く話した。あるいは、フィクションの物語を淡々と読むだけのように。

 だがそれも終わったことだ。過去のことだと咲綾は話題を逸らした。

「それで、美海ちゃんはどう?」

「どうって、何がですか?」

「えっと、今は幸せかな、とか」

 想定していなかった質問に、美海は答えが出なかった。

「ごめんね、突然変なこと聞いちゃって」

「いえ、いいんです。幸せだって胸を張っては言えないです。何が不満なのかは、自分でもはっきり言えませんけど」

 美海は咲綾の記事で見た言葉を借りてそう答えた。

 誰しもが自分の人生について、常に答えを求めて生きているわけではない。幸せを求めていても、自分が幸せかどうかを常に判断しているわけではない。

 人はいつだってスタートラインに立つ走り出す前のランナーなのだ。

 既に走り始めていたとしても、ひとつのゴールの先にはすぐに新たなスタートラインが待っている。

「私、一週間休みを取ってきたんです」

 美海が咲綾の横を通り過ぎて波打ち際まで歩みを進めた。

「東京に帰ったら、その殺人事件のこと調べてみますね」

 そう言いつつ、美海は足下まで来た波に触れた。想像していたより温かい。その海の温かさが、この島の温かさでもあるのだろう。咲綾の口から聞いた話の冷たさの割に、しっかりと正しい人間としての自分を繕っている彼女を見て美海はそう思っていた。

「事件を調べるって、どうやって?」

「私、刑事なんですよ。今」

 微表情。五分の一秒に表れる、瞬間の真実。美海は咲綾にそれを見た。

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