第2話 美海の夜
「
咲綾はまだ頭を下げたままの女に向かってそう訊いた。一度しか会ったことのない女の名前が記憶を辿ることなく出てきたのは、それだけ咲綾があの事件に固執していたという証拠だろう。
「はい。たまたまネットで見かけて」
美海と呼ばれたその女は、まだ頭を下げたままだ。それは、咲綾に対する深い謝罪の意思というより、表情を見られたくないという思いが強そうだ。何度も涙を拭う様子が咲綾にそう思わせた。
「本当にごめんなさい。私のせいで。私がちゃんと話せなかったせいで」
そこまで言って、ようやく美海は顔を上げた。
一週間前の夜。
美海はベッドの中でスマートフォンを眺めていた。寝室の電灯は既に消され、画面の光が未だ少女の面影を残す美海の顔を照らしている。
「これって、あの時の」
声に出すつもりはなかった美海だが、思わず口をついて出た言葉に、手のひらで口を覆った。だが、一人暮らしの美海の声を気にする者はいない。
美海は思わずそんな行動をとってしまった原因になった、偶然SNS経由で目にしたポータルサイトの特集記事をもう一度初めから読み返した。
――移住者たちの声:三年前に東京都から移住してきた梶本咲綾さん(第二回)
都会での生活に疲れ始めていた私は、漠然と都会から離れて暮らすとどういう自分になれるのか、そんなことを考えるようになっていました。そんなときに、都会を離れたいと強く願うきっかけになった出来事が起こったのです。
いつものように、朝の通勤、通学の時間で混雑した電車に乗っていました。その時、私は隣に立っていたオジサンに嫌な気配を感じました。電車に乗ってすぐ、やたらと周囲を気にしていたのです。
あの時の寒気と不安と恐怖は、今でも私の胸の奥で火種となって居座り続けています。それでも私が今こうしていられるのは、そんな小さな火種よりも大きな怒りの炎が燃えているからでしょうね。
そのオジサンの標的は、隣に立つパンツスーツに身を包んだ私ではなく、前に立つ膝丈の制服を着た女子高校生でした。
オジサンはスマートフォンを手に取ると、インカメラを高校生のスカートの下の方へ忍ばせようとしていました。
なぜあの時の私はあんな行動をしたのか。私の行動は間違っていた? 考えが足りなかった? もっといい方法があった?
今でも答えは分かりません。
ただ、あの時咄嗟にオジサンのスマートフォンを持つ手を掴んだせいで、私は暴行の罪で書類送検されることになりました。
おかしいと思うでしょう?
なぜそんなことになってしまったのか。私は人助けをしたつもりなのに。正義に乗っ取った行動をしたはずなのに。
後々考えると、ポイントはみっつだったと思います。
オジサンのスマートフォンにはそういう写真が一枚もなかったこと。私の訴えより早くオジサンが電車内で腕が痛いと騒ぎ立て、その後オジサンが実際に病院に行き、手首を捻ったことによる捻挫で全治二週間という診断書を取ったこと。そして、被害者である女子高校生が自分は関わりたくないと、途中で口を
でも、私はオジサンの手を掴んだだけで捻り上げたりしていません。そのことは強く否定したこともあり、傷害とはなりませんでしたが、暴行の定義は広いみたいで。結局暴行の容疑で書類送検されました。
結局起訴されることはありませんでしたけれど。私にとっては当然の結果ですが、それでもやっぱり送検されただけでも悔しいです。
こんな街に住んでいたら、人間が嫌いになってしまう。自分を含めた人間が。
そうなっても良かったのですけど、私はもう少しだけ人間でいたかった。あのオジサンとは違う、正しい人間で。だから私は、胸を張って私でいられる場所を探してここに来たのです。
美海は知らなかった。あの時憧れるほどの正義感をもって自分を助けてくれた女性が、自分の人生にまで影響を与えたあの女性が、何かから逃げるように西の果ての離島へ移住していたことを。
その記事にたった一枚載せられている写真。あの時、パンツスーツに身を包み、綺麗な黒髪を後ろでひとつに縛って、凛としていた彼女の姿とは随分変わっていた。
化粧っ気がなく、肌は少し日に焼けている。髪は後ろを刈り上げるほどに短くしていて、トップは夕日のようなオレンジ寄りの赤に染められていた。
それなのに、自分は今も変わらず、何の不自由もなくこの東京の中で日々を過ごしている。
今でも美海はあの時のことを考えることはある。だが、自分が被害にあっていた自覚がなく、恐ろしさを感じてもそれはどこか他人事のようだった。
もしあの時、自分が被害者である自覚を持ち、助けてくれた彼女に感謝の気持ちを伝えていたら。そういう「もし」を考えた翌日、美海は勤務先に有給休暇の申請書を出した。
過去に自分自身の手で消してしまった正義の道を歩むスタートライン。それを自分の意思で引き直す時が来た。
そう言えば聞こえはいいかもしれないが、実のところ美海は、そうすることで罪悪感を払拭したいだけなのかもしれないと、自身の身勝手さを疑っていたのだった。
それに、美海にはどうしても確かめたいことがあった。あの梶本咲綾に。
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