StartToRain

西野ゆう

第1話 咲綾の朝

 It will start to rain in the morning and then rain will be on and off for the whole day.


 AFNから天気予報が聞こえる。

 どうやら今日の佐世保地方は朝のうちから雨が降り始め、今日は一日降ったり止んだりの天気らしい。

「今はこんなに天気良いのに」

 咲綾さあやは玄関を開けると空を見上げた。彼女の言葉の通り、空には雲ひとつ見当たらない。ここは佐世保市とは言っても、六十キロメートル離れている離島だ。天気も佐世保市街とは異なる。

 咲綾はこの島で聞こえる一番大きな音に、スマートフォンの時刻を確認した。隣の島からやってくるフェリーの汽笛。時刻は七時三十二分。定刻より僅かに遅れている。とは言っても電車とは違う。このくらいの遅れはよくあることだ。

「私も出なきゃ」

 厚手のスウェット姿の咲綾は、油で少し汚れたニューバランスの踵を潰しながら履き、玄関を出て大きく伸びをした。

「よしっと」

 大きく呼吸をして冷たい空気に少し赤くなった頬を両手のひらで叩く。咲綾はそうやって気合を入れて、一日のスタートを切るのだ。

 爪先でトントンと地面をノックし、開いた踵の隙間に人差し指を入れてスニーカーをしっかり履く。片足立ちになっても全くふらつかないのは、若さと毎日のウォーキングの成果か。

 いつものコースを辿り、この島で一番広いビーチまでゆっくりと歩く。

 急いで歩くよりも、一歩一歩両脚とお尻と下っ腹の筋肉を意識しながら歩を進める。そうした方が効果的なウォーキングができる。というのは咲綾の持論であり、実証実験がなされたわけではない。

「でもね、そうに違いないと思うわけ。カモミールティーだって、科学的根拠はないでしょ? でも確実に安眠効果はあるもん」

 咲綾がよく晴れた朝に海を見下ろしながら歩き出すとき、必ず自身が言ったこの言葉とカモミールティーの香りを思い出す。不思議とその味は蘇らないが、七年前にちょっとした正義感を発端とした苦い思いは蘇る。

 そして、咲綾は気持ちを今に戻すために再び頬を叩く。

「進まなきゃ」

 咲綾は自分のことを脱落者だと思っている。

 受験からの脱落。会社からの脱落。結婚生活からの脱落。世間からの脱落。

 くだらないことで書類送検されたことを発端に人生の全てから脱落した咲綾は、失ってしまった自分自身を取り戻そうとこの島に来た。

 日の出とともに朝を迎え、日没と共に夜が訪れる。

 そんな当たり前のことを初めて実感したこの場所で、咲綾は生き方を探して歩き続けている。

 崖に張り付くように生い茂る低木。強い海風を受け続けて、断崖にその風を描写しているかのような姿をしている針葉樹が群生している。

「私は流されないんだから」

 初めてこの景色を見た時の咲綾は、その木々を見てそう心に誓っていた。だが、今ではその思いも変わっている。

「身を任せてみたら、周りに溶け込めるのかな」

 美しさを感じる風景は不思議と誰もが共通している物が多い。

 咲綾の目的地である海から昇る朝日。海へ沈む夕日も。

 その太陽が空を縦断する間に花弁を大きく開かせる花たち。

 眩しい太陽から解放された真の空の姿に散らばる無数の星々。

 それらとは違い、今咲綾が横目で見ている海風の針葉樹は、美しいと皆が感じるわけではない。

 彼女も美しいとは感じていない様子だ。視界には入れながらも直視しない。

「今日は風吹いてないよ」

 その心の中に潜むものを窺わせる言葉を咲綾は呟いた。風は吹いていない。咲綾のアシンメトリーな前髪が柔らかな頬を撫でる程度に、空気が軽く揺れているだけ。

 風は吹いていないが、咲綾がその木々を見るとサワサワと海風の音が聞こえてくるような感じがしていた。

 同時に、彼女の心もザワザワと音を立てる。

 風のない日でも、一度風に流された姿はそのままだ。多くの木々は、どれ一本としてはぐれることなく崖に張り付いている。

 慣れることと染まることは違う。咲綾はそう思っている。

 自分のままで生きられる道を探して今日も咲綾は歩く。同じ道を、同じ視点で、少しずつ変わる思いを抱いて。思いを変えられる彼女はやはり、張り付いたままの木々とは違うのだろう。

 スニーカーの底から伝わる感触が柔らかくなる。

 舗装路から砂地に変わる。

 冬が近いとはいえ、光の強さも、肌を撫でる空気の質も変わる。

 目的地であり、職場に向かうスタートラインに咲綾はしばらくの間立ち、仕事へ向かう気持ちが固まった時にやはり頬を叩いた。そして空いた両手を見て思い出す。

「あ、折り畳み傘持ってこなかったな」

 空にはまだ雲ひとつない。

「オンアンドオフ。雨がオフの隙に私がオンになればいいか」

 咲綾は気付いていない。そういう考えができるようになったのも、この島に来てからだということに。峠道を越えた彼女には、最初のスタートラインは既に稜線の向こうに隠れて見えなくなっていた。

「おはようございます」

 咲綾の背中に控えめな声がかかる。

「おはようございます」

 振り返った咲綾が挨拶を返す。そこには、この島の観光協会から無料で借りられる自転車の隣に立つひとりの若い女がいた。

 咲綾より五歳から十歳程度若いであろうその女は、明らかに島の住人ではない。

「観光ですか?」

 咲綾がそう訊いた瞬間、自転車と共に立つ女は涙を溢していた。

「あの、梶本かじもとさん。本当に申し訳ありませんでした」

 そう言って深々と頭を下げる女を見て、咲綾は全身の血液中の酸素が足下の砂の底へ浸透したかのような眩暈を起こした。

 咲綾にはその女の正体に感情を激しく揺さぶられたが、なぜここまで動揺しているのか、その理由は本人にも正確には理解できていなかった。

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