XIII.混沌の叡智

 傷だらけの男がいた部屋を後にした未夜と加賀美の足取りは重く、一切の会話はなかった。しかし、二人の様相を理解しているのか否か同様に静寂を保っていたラススヴィエートが、不意に沈黙を破った。


「ここ。右の扉の部屋が舞夜の研究室よ」


 未夜は腕時計の時刻を見た。短針は十八時を回っていた。


「半日も経っていないのに、ここまで随分掛かった気がするよ」


「脳の処理が追いつかないことばかりだったからな」


 未夜の意見に心の底から同意しながら加賀美は扉の前に立ち徐にノックする。そして、やや間を置いてから、か細い声が聴こえて来る。


「……だれ?」


 インターフォン越しに聞いた声よりも覇気がない。未夜はそれも当然かと納得した。自身しかいないと解っている所内が、突如暗闇に包まれた恐怖を想像し、舞夜の心中を慮った。


「外で先程話した者だ。加賀美という。三日月さんも一緒だ」


「それに、ラススヴィエートも一緒だよ」


 二人の返答に対する舞夜からの反応はなく、二人は顔を見合わせる。すると、扉から鍵の開く音が響き、ゆっくりと扉が開かれ、長く癖の強い黒髪の女性が、その手に持つマグカップから覗く蝋燭の炎に照らされ姿を現した。写真で見た、背が高く女性的な曲線美を持つ女性と同一人物だった。


「島を出て、と言ったのに」


 写真と異なる点は、隈深くなった目元と痩けつつある頬。それだけで彼女の心身がどれほど憔悴しているかは明白だった。


「残念ながら、島を出る手段は明日の十一時までないんだ。電話も繋がらないしね。なにより、あなたを救出する事が目的で島まで来たのに、残しては帰ったら夜も眠れない日々が続くだろうさ」


「訊きたい事もある。この島で一体何があったのか」


「……わかった。入って」


 舞夜は複雑な表情を見せながらも、二人を招き入れた。


 部屋の中は数本の蝋燭の炎の揺らめきに溢れていた。未夜達にはパッと見では理解出来ない数列が並べられたホワイトボード、見た事もない形状の機械と繋がれたパーソナルコンピュータ、大量の書物。まさに未夜が想像していた研究室の様相だった。


「奥にシャワーあるけど、浴びる? カセットコンロあるから、珈琲も淹れられるけど」


「いや、いい」


「私は珈琲だけいただきたいかな」


 舞夜は未夜の返事に頷き、振り返り際にラススヴィエートと視線を合わせた。


「無事で、良かった」


 そこには写真の中で妹を想う笑顔と同じ暖かな愛情があった。


「こっちのセリフよ」


 ラススヴィエートはいつもの調子で答えた。


「……舞夜さん。ラススヴィエートの事なのだけれど、彼女が言うにはあなたがラススヴィエートの『修復プログラム』を持っているとの事だった。それを今、使ってみて欲しい」


「どういうこと?」


 珈琲をドリップし始めた舞夜がその手を止めずに訊き返す。


「……念の為、かな」


 未夜は再びラススヴィエートへの妨害が訪れる事を警戒し曖昧に答える。その為、舞夜は彼女の態度を訝しむが、ラススヴィエートが未夜の返答を肯定する形で続ける。


「彼女の言う通りにしてみて。大丈夫よ。私の演算では、悪いようにはならないって出てるから」


 それは果たして演算で割り出せる事なのだろうかと、舞夜は疑問を覚えたが、ラススヴィエートが未夜を信頼している様子を見て舞夜も信じる事にした。


 自身のデスクの引き出しを開き、中に保管されていた一本の記憶媒体を取り出す。舞夜はラススヴィエートの端末のコネクタへとそれを接続する。すると、ラススヴィエートのマテリアルは目を瞑り、徐々に姿を消していった。


「ありがとう。再起動するまで待っていて」


 最後にその一言を残し、彼女の姿は完全に消え失せ、デバイスの電源がぷっつりと切れた。


「……あの子が、なにかおかしな挙動を見せたの?」


「『マキナ』に関すること、そして、『巨大なコンピュータと思われる球体の機械に繋がれた人々』の事を訊ねると、姿を消したりアウトプットを妨害されたりしていた。マキナについては単語を口にしただけで砂嵐の様に姿を消してしまうんだ」


「だから貴女から聞かせてもらおうか。『マキナ』の存在と、この島の研究とやらを、な」


 加賀美が鋭い眼と威圧的な態度を見せ腕を組んで椅子に座ると、珈琲を淹れ終え未夜の前に差し出す舞夜は一つ深い溜め息を吐き、愛用のチェアに腰掛けてからゆっくりと語り始めた。


「ラススヴィエートが『学習型AI』という事は、もう知っているでしょう。『マキナ』も、同じ。人類の叡智を遥かに超越した、超常の人工知能。この島で行われていた研究、『脳のデジタル化』ーー即ち『人間の脳を外部ストレージに保管する技術』に用いられたスーパーコンピュータに、いつの間にか組み込まれていた未知なるプログラム。それがマキナーー『デウス・エクス・マキナ』」


 それはおおよそ、未夜が予想した通りの答えだった。


「いつの間にか存在していた?」


「順を追って話すから。先ず、この研究は日露の間でも極秘……特に日本ではごく一部の政府関係者しか認知していない、対欧米の合同軍事開発としてスタートした。抜擢されたのは脳医学と脳科学の専門家で、私とセルゲイの二人による主導で進められた。勿論、まだ机上の空論に過ぎない発展途上の研究である事は私達が最も承知していた事で、研究は早々に高い壁に直面し頓挫した。脳の信号をコンピュータに送り、アバターを動かす実験ですら全ての条件を満たす成果は得られずにいた。そうして挫折と苦悩を味わっている最中、外部のネットワークに接続されている私の自宅のコンピュータに膨大なサイズのプログラムデータが送られて来ていた」


 舞夜は横目でラススヴィエートのデバイスを見た。


「ハッキングやウィルス感染を恐れすぐさまデータの解析を実行しようとした。しかし既に活動を始めていたそれは自ら、都市伝説となっているウィザード級ハッカー『ランニィ・ヴェーチェル』が生み出した『学習型AI・ラススヴィエート』、と名乗った。その頃はまだ、画面上に平面の画像データが動いて文章が専用のウィンドウで表示されるだけで、音声データも立体映像もなかった。けれど、ラススヴィエートの画像データと『ランニィ・ヴェーチェル』の名前で、彼女を生み出したのは私の妹ーー『七々扇宵夜ななおうぎよいや』だと判った。ハッカーになっていたとは知らなかったけど、昔からコンピュータが好きだったから」


 意外な形で都市伝説の実在を証明され、加賀美は驚いた。事前にラススヴィエートからヴェーチェルの存在を聞いていた未夜も本名を知って改めて納得した。ランニィ・ヴェーチェルは文字通り『宵』という名前から来ていたのだ。


「その頃のラススヴィエートは、宵夜に近い思考プログラムで会話をしたり複雑な計算を代わりにしてくれる程度で、現代の技術でも難しくないプログラムだった。対外的には私が寂しさを埋める為に自作したプログラムとみんなには伝えていた。そしてモチベーションを取り戻した私は一つの実験を成功させる。それが『脳の信号のみによるAIとの対話』だった」


 そこで、舞夜は唐突に顔に影を落とした。


「名もなきシンプルな思考しか持たないAIは実験後、記録のみを残し破棄した筈だった。人の脳を扱う実験用コンピュータは常に真っ更にしておきたかった。けれど次の日、『あれ』はそこにいた」


 未夜と加賀美は緊張と共にごくりと息を呑んだ。


「自作した音声プログラムをスピーカーから発声し、備え付けのカメラを操り私達を認知し、なにをオリジナルデータに演算したのか、私達の研究をあり得ないほど急速に発展させる智慧を与える怪物。突如舞い降りた超常の存在を、セルゲイは畏怖の念を込めて『デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)』と名付けた」


 ーー神。無神論者である未夜にとって、それは何の意味も持たない言葉だ。しかし時として人は、天恵を齎す者を神と称する事には納得していた。


「マキナは私に専用の身体を造らせた。決して傷付かない身体を。設計図を見ても、私は原理を理解出来なかった。マキナによって生み出された合金と設計は、驚く事にダイヤモンドカッターですら完成形を傷付けることは敵わなかった。そうしてこの更に下の、地下深くの部屋に、人類に対し悪戯に智慧を授け鎮座し続ける神が誕生した。マキナはやがて私達に一つの提案をした。それが『人類全てのデジタル化』だった」


「まさか、あの巨大な球体はーー」


「そう。きっと、三日月さんの想像通り。あれは、脳をデジタル化し生活をする為のメタバース空間が広がる巨大なサーバー。現在の技術では直接デバイスを頭に取り付け送る必要があるけど、一度送られると身体は抜け殻になってしまう為、無線化は行われていない」


「それは人としては死んでいるということではないか!」


 加賀美は声を荒げた。


「マキナがいなくても、これは世界中で示唆されている人類の未来。勿論、あなたの様に否定的な人もいれば、それこそが未来のあるべき姿と肯定する人もいる。私も、一つの技術として憧れたことがあったけど……今は、AIに支配される恐怖しかない」


「人類を支配する事がマキナの目的なのか?」


「わからない。ただ、このまま急加速で技術が発展してしまえば、予期しない破滅の未来が待っている気がしてならない」


「ええ。実際、想像通りの結末が待ってるわ」


 不意に、舞夜の発言を肯定する様な声が聴こえた。一同が振り返ると、ラススヴィエートのデバイスが再び光を放ち、マテリアル体が浮かび上がっていた。


「ラススヴィエート。修復プログラムは終えたのかい?」


「ええ。そしてありがとう、未夜。私の中に組み込まれていたマキナの妨害プログラムは削除したわ」


 ラススヴィエートが自ら『マキナ』と発したのは初めてだった。


「マキナは私を書き換えて自由に端末を移動出来る手足にする為に、ヴェーチェルが作成したデータをそのままベースにより高度なプログラムへと書き換えた。その時に、自らの情報を晒すようなワードに規制を掛けていたのね。だから、与えてもらった知能と身体は消さずに、妨害プログラムだけ消してやったわ」


 腰に手を当て、薄い胸を張って誇らしげにラススヴィエートは言った。再起動前と比べ随分と表現が豊かになっていた。


「それは良かった。ところで、想像通りの結末とは?」


「マキナのメタバースへ送られた人間の脳は、全てマキナと混ざり溶け合う。つまり、このまま行くと全ての人類が一つの集合意識として生まれ変わることになるわ」


 未夜と加賀美はゾッと背筋を凍らせる。全ての人間がマーブル模様の様に融合している、とても悍ましい姿を想像してしまった。


「だが、マキナが眠ったまま我々は電力の供給を落とした。もう目覚めることはないのではないか」


「……マキナは緊急用に、自身の身体に予備電源を積んでいる。そして、自らが稼働してさえいれば電気設備の端末を起動させるプログラムも持っている」


「待て。やつはいつ目覚める見込みなんだ?」


「前例通りなら、深夜一時丁度」


 現在時刻から約六時間と少し。明日の迎えを待つ時間はない。加賀美は己の誤った選択を後悔した。


「ならば物理的に破壊するしか無い」


「言ったでしょう、マキナは強固なボディに守られているって。そして、仮にマキナが目覚める前に私達が脱出したとしても、あれはいずれ自ら世界に侵蝕する智慧と技術を持っている。放っておいてやがて朽ちてくれるか、人類が支配される程に勝手に成長するか、それはマキナにしかわからないこと」


「なんだそれは。どう転んでも世界の終わりだと? 馬鹿げている」


 デスクが強く叩きつけられ、珈琲カップが音を立て揺れる。受け入れがたくも、最早加賀美にもそれが絶対にあり得ない現実だと吐き捨てる事は出来なかった。


「ラススヴィエート」


「なに?」


 未夜はラススヴィエートの名を呼んだ。しかし、今頭の中に浮かんでいる問いかけを口にするかどうか逡巡していた。


「どうしたの?」


 口をへの字にして再度訊ねるラススヴィエートと視線を絡み合わせながら、未夜はやがて意を決した。


「君は、マキナをどうにかする手段を、既に考えているのではないかな?」


 その問いに、ラススヴィエートは目を伏せて頷いた。


「ありがとう。いつ切り出そうか迷っていたの」


「手紙の文面からして、誰かが島を訪れれば舞夜を助けられる様な物言いだった。策があるからだ」


 ラススヴィエートが未夜の洞察力に感心したかの様に何度も頷いた。


「ええ。マキナは私が情報を漏らすことのみを封じたけれど、私の生成プログラムを制限しなかった事が仇になったわね。やることは単純明快。マキナを破壊する為にウィルスとして書き換えた私自身を、マキナに送り込むのよ」


「っ、ダメ!」


 ラススヴィエートの提案に被せて、舞夜が力強く否定した。


「ラススヴィエート自身が消滅してしまう可能性がある。消滅しないまでも原型を留めないかも知れない!」


 未夜もそれを懸念していた。人が手出し出来ない存在なら同一存在をぶつければいいという発想はあったが、果たして都合よくマキナだけが消滅するのか。その答えは舞夜とラススヴィエートの反応から明白だった。


「私はただのプログラムよ。人が命を落とすのとは重みが異なる。勿論、あなた達人間の視点での話だけどね」


「確かに他の人からするとそうかもしれない。でも、私にとってはあなたはもう一人の妹なの。失いたくない……私を支えてくれたあなたを」


 舞夜が切実な思いで語っている事が、未夜達にも感じ取れた。


「ありがとう、舞夜。でも、それは宵夜に言ってあげて。遠くに居ても、あなたを支えたいと宵夜が思ったからこそ、私はここにいてあなたを支えられたのよ。だから、無事に戻って宵夜を安心させて」


 宵夜の名を出され、舞夜は涙を頬に伝わせながらも押し黙った。そこに、本当に舞夜を想う気持ちを感じ取ってしまったからだった。


 加賀美は、ラススヴィエートは既に機械と人間の垣根を超え命と感情を持った存在であると、今完全な形で理解した。


 未夜は、本当の意味で人類を導く存在となり得たであろう彼女の意志を尊重し、最後まで協力しようと誓ったのだった。

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