Ⅸ.電脳の海に佇む妖精②

 私立探偵、三日月未夜の脳内を支配していたのは、高度な次元にある科学技術に対する興味と恐怖だった。


 自らを『ラススヴィエート』と名乗り、同時に『学習型AI』と素性を明かした目の前の女性の映像は、話し方も動作もただの人間だった。


 知らぬ間に科学技術はこれほどまでに発展していたのか、と思うよりも先に、ラススヴィエートの言葉が真実だとして彼女を生み出したのは一体どの様な科学技術者なのか。彼女の疑問は目の前の存在を容易く受け入れつつ更に一歩先へ進んでいたが、加賀美は正反対の思考を抱いた。


「ラススヴィエート、つまらない冗談はよせ。これはカメラの映像を投影しているのだろう?」


 加賀美の知見では世界の『AI技術』はここまで精度の高い会話を可能としていない。高度な立体映像投影技術はあるかもしれないと考えてはいるが、あくまで会話は人によるものだと断じていた。


「そういや、あの写真の女の子とそっくりだな。小さい方の」


 暫く黙したまま観察していた郷本が割って入る。彼の言う通りラススヴィエートの特徴は、この村で初めて訪れた家に飾られていた写真に映っていた女性と酷似していた。


「それはそうでしょ。私の映像マテリアルは、七々扇舞夜の妹をオリジナルに組み上げられたのだから。小さくて悪かったわね」


 上瞼を降ろし半眼で郷本を睨むラススヴィエートだったが、幼い顔立ちが故に子供の様な愛らしさだった。


「私達はお前達の身を案じ遥々来たのだ。下らぬ冗談に付き合わせる程、余裕はないだろう。大体、生身を持たない存在だと言うのであればあのボトルメールはどうやって流したと言うんだ」


「貴方のデータは私の学習ベースにあるみたいね。加賀美多嘉良一等海曹。この経歴では頭が固くても仕方なさそうね」


 ラススヴィエートが映像の中で、中空を指で叩いたり上下左右へ滑らせる動作をする。さながら管弦楽団の指揮者だ。すると、彼女の映像の中に、緑色に発光する文字と加賀美の顔写真が現れた。


「これは……確かに私の経歴だ」


「私には学習用のデータベースに、日本とロシアの政府及び軍事関係者のあらゆるデータがインプットされているの。そして私が組み込まれているデバイスがアクセスしている、ネットワーク上に存在するあらゆるデバイスを、私自身が即興で組み上げたプログラムによってコントロール出来るの。そしてこれが、貴方の質問に対する答え」


 ラススヴィエートが執務デスクを見やり再び指を動かすと、デスクの一部から三脚を開く様な動作で、先端に人の手の様な部位が備え付けられた細長いアームが現れる。それはデスクの上に転がっていたペンを器用に掴むと、映像の中でラススヴィエートが杖を振り下ろす動作に合わせて勢い良くペンを窓の外へ投擲した。


 加賀美は窓の外の積雪に突き刺さったペンを目で追いながら唖然としていた。


「成程。そこの複合機から印刷した手紙と地図をアームで瓶に詰め、放り投げたんだね。しかし疑問は残る。どうしてメールやウェブへの書き込みという、確実に人に伝わる手段を取らずにこんなアナクロな手段を採ったのかな?」


 未夜が加賀美の持つ端末の目の前まで来て、ラススヴィエートとしっかり視線を合わせて訊ねた。


「あら、いい着眼点よ。そこが本題に関わってくるところなの」


 ラススヴィエートは声のトーンを落とす。細かな所作まで本当に生きた人間の様だと未夜は感嘆した。


「イリア島の中でここと研究所、それから電力設備はそれぞれセキュリティ上、外部に接続出来ない隔絶された環境にある。セルゲイは研究の進捗を母国にすら漏らすつもりはなかった。けれどその方が都合が良かった。私は『あれ』の支配を逃れる為に、舞夜が私専用に開発したこのデバイスへ私のオリジナルデータを移行し、セルゲイにここへ運び出してもらったの」


「『あれ』というのは……『マキナ』のことかな?」


 思い当たる節について未夜が訊ねた瞬間、突如ラススヴィエートがマテリアルと呼んだ自身の姿が砂嵐の様に乱れた。


「な、なんだ?」


「……わからない。ラススヴィエート? 聴こえる?」


 返事はなかったが、暫くすると彼女のマテリアルが元通りに復活する。未夜達はホッと胸を撫で下ろした。


「ラススヴィエート、大丈夫?」


 再び訊ねると、ラススヴィエートは首を傾げる動作を見せた。


「何のこと?」


「何の……って、『マキナ』の事を訊ねたら急に姿が乱れたから心配したんだよ」


 未夜が『マキナ』と口にするや否や、再びラススヴィエートのマテリアルは乱れ崩れる。三人は狼狽した。


「『マキナ』と口にするとこうなっている様子だが……」


「おいおい、それじゃあ肝心のことが訊けないぞ?」


「原因は解らないけれどそれを探っている暇はないかもしれない。訊き方を変えるしかないみたいだね」


 ラススヴィエートの姿が舞い戻る。未夜は理解の及ばない疑問を一旦は置いておき、別の質問を投げかけることにした。


「ラススヴィエート。セルゲイ所長は屋敷にいなかったんだけれど、今はどこに?」


 するとラススヴィエートは、二度も姿を消した事実など本当に無かった事の様に平然と答える。


「『あれ』を完全に停止させる為に、島の電力設備へと向かったわ。電力の供給がなくなりさえすれば、『あれ』も自身を再起動させる為に膨大な時間を要する計算だから」


「なぁ、『あれ』ってのはーー」


 郷本が訊ねようとした内容を察し、加賀美が彼の口元を素早く塞ぐ。


「また消えてしまうかもしれん」


「ちょっと待ってくれ、『マキナ』って名前を出すつもりはなかったんだが……」


「『あれ』の正体を探ろうとしただけで反応する可能性もある。ここは三日月さんに任せて様子を見よう」


 小声で話す二人の様子に触れず、未夜はラススヴィエートに対する質問を吟味する。原因は不明だがラススヴィエート自身に制約が掛けられていると判断し、現時点で最も必要な情報を聞き出す事を考える。結果として浮かんだのは、これからの行動方針だった。


「それはいつ頃のこと? 今のところ、島に電気は行き渡っているみたいなんだ。もしそれが随分前の話なら……」


「もうひと月以上前の話。でなければ外部に助けを求めてないわ。恐らくセルゲイの身に何かがあったのね」


「電力設備に向かうだけで何かがあったってことか?」


 郷本が慎重に言葉を選びながら口を挟んだ。


「そこの機器は研究所と同じネットワーク内にあるから、『あれ』の支配下なのよ。彼は急ぎ過ぎたの。今日を待てばもっと安全に行動を起こせたというのに」


 今日ーー即ち十月十日という日付。確かにラススヴィエートは日時をこの日に指定していた。彼女の話し方から、門の開閉時間であるという事以外に理由があるのだと未夜は悟った。


「今は、監視の眼が緩んでいるということかな」


 『マキナ』という言葉や具体的な内容を極力省き、未夜が訊ねると、ラススヴィエートはハッキリと頷く動作を見せた。


「今『あれ』は眠っているわ」


「つまり私達は早急に電力を落とし、研究所に入り込み舞夜さんを救うというわけだ」


「いや待て、研究所には侵入者を遠慮なく殺めちまう様なとんでもねぇ防衛システムがあるんだぞ? そもそも、監視してるやつが眠ってるなら何故あれが動く? 実際には起きてるんじゃないか」


「それは恐らく自動防衛システム。予め登録された認証キーを身に付けていない動的物体を検知し、自動で攻撃するシステム。だから、電力の供給を止めてしまえば動作しないわ」


 自動であの精度だというのならば尚更脅威ではないかと郷本は震えた。


「認証キーは研究所の職員しか持っていないから電力を止めるしか無い。電力設備は島内に入って村の入り口を西の方角に進むとあるわ」


「待て。我々は協力すると決めたわけではない。七々扇博士の状況は理解しているが、お前の言うことは鵜呑みに出来ん。いや、正確には……お前の存在は我々の常識の範疇を超え過ぎている」


 加賀美は逡巡している。研究所へ踏み入り、七々扇舞夜やイリア島の成り立ちや研究を調査するという任務は、荒唐無稽なスペース・フィクションの様相を呈して来ていたからだ。なにより、肝心の情報が雲を掴む様に手を伸ばすごとに霧散していくのでは何を信じて良いのか分からなかった。


「信じて良いのか判らない。この手紙の内容すらも疑わしくなって来た。お前の本当の目的はーー」


 言い切るか言い切らないかのところで、加賀美は言葉を詰まらせる。彼の眼の前には、丁寧に腰を折り曲げ深々と頭を下げるラススヴィエートの姿があった。


「舞夜を救って。たったあれだけの手紙でここまで来てくれた貴方達の人の良さに縋りきりになってしまうのを申し訳ないと思う。危険がないとは言えないし、関係ない貴方達を大事に巻き込んでしまってごめんなさい」


 加賀美は二の句を告げられずに硬直したまま聞き入る。その様子を察してラススヴィエートは続ける。


「私は彼女を助けたいだけなの。その為には誰かの協力が必要……私には自由に動かせる手足はないから。だから、お願いします」


 可愛らしい女性の声が抑揚の薄い平坦な口調で零した想いは、トーンとは裏腹に『AI』とは思えぬ程の感情の強さを見せつけていた。


 加賀美は思わず帽子を深く被り直し、己の表情を隠す。そんな彼の代わりに、未夜が言葉を紡ぎ出す。


「ラススヴィエート。貴女が何者であろうとも、この私立探偵・三日月未夜に依頼をするのであれば貴女は私の客人だ。私に出来る全てを駆使して、仕事に挑むまでだよ」


「あーあ。全く、年下の嬢ちゃんに言わせちまうとはね」


 郷本は鳥の巣の様な髪を掻き毟り剽軽な態度を見せる。


「まだ研究の真相を書き留めてないしな。俺は最後まで付き合うさ」


 未夜と郷本は目線を合わせて頷きあい、そして示し合わせた様に加賀美を振り返る。注目を浴びた彼は帽子を深く被ったまま背を向けた。


「……演算結果とやらは確実ではないのだろう? だったら急ごう、救出が遅れる前にな」


 結句、この場の誰よりも正義感の強い男は、猜疑心よりも良心の呵責が天秤を傾けたのである。プログラムされた存在が無意識に備えていた、人と同じ感情を目の前にして。

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