Ⅶ.黒髪の姉妹
昼を回る頃、気が付くとしんしんと降り続いていた雪が止んでいた。しかし空は変わらず薄暗い。静かな村を彩る美しい雪化粧を晴天の下で拝めたらと思える余裕が未夜達にあればどれほど良かったことだろうか。今の未夜達には観光気分でいられるほどの穏やかな心は持ち合わせられなかった。
舞夜の話では、ラススヴィエートは『セルゲイ』なる人物の邸宅にいる公算が高い。未夜がラススヴィエートを探しに行くという方針を打ち出し、それに従った加賀美はセルゲイの自宅へ向かうことを提案する。ラススヴィエートの存在が舞夜を説得する材料になり得ると考えたからだ。
郷本もラススヴィエートを探すことに賛同した。もとより目的は記事の取材である彼に一人で行動する理由はなかった。
二人は早々に大きな建物を目指して歩き出すが、後ろから未夜が「少し待って欲しい」と呼び止める。
「どうした?」
「まだ他の住人が見受けられない理由を私達は知らないと思って。研究所には舞夜さん以外誰もいないと言っていた。正確にはもっと不気味な言い方をしていたけれど、とにかく研究所に避難している様子ではなかった。だから少しだけ他の家屋を見て回りたいと思って」
人として残っている者というのは何かの暗喩なのか、額面通りの意味なのか。どちらであっても恐ろしい事実が待っているのでは、と身震いした。
「本当にこの島は気味の悪い事だらけだ。黒い外壁に無人の村、あげくの果てに島を支配しているという未知の存在。悪夢を見ている気分だ」
「果たして上層部はこれを認知していたのかな?」
「それを調べる為にも施設へ入る必要がある。村の人間を探すことには賛成するが、程々にして所長の邸宅へ向かおう」
未夜は頷き、近場にあった家屋の扉を二度ノックする。湿った木の音が鳴るが返事はいくら待っても返って来なかった。
「開けていいかな」
「待て。私が開ける、下がっていてくれ」
ノブに手を掛けた未夜を止め、加賀美が入れ替わり扉の前に立ちゆっくりと手を掛ける。蝶番が虫の音の様に鈍く鳴く。半開きの状態で隙間から覗き込むと、薄暗い部屋の中に動く物体は見受けられなかった為、後ろの二人を呼び寄せながら扉を全開にした。
「やはり誰もいない」
玄関口と居間がそのまま一つになっている、外観と相違ない小さな間取りの部屋。未夜の目算ではおよそ八畳程で、入って左手に対面キッチンが四畳あるかないか程度の、計十二畳前後の部屋。深いウッドカラーの調度品で揃えられた小奇麗な内装だが、ダイニングテーブルに残された果物のバスケットや、ソファの上に無造作に置かれた本など、生活感を感じさせる名残があった。
「映画のセットではないみたいだね」
ソファの脇に置かれたゴミ箱を覗き見ていた未夜が、くしゃくしゃのティッシュや破られた包装ビニールを見て言った。
「寝室は奥かねぇ」
郷本は奥の扉を開いた。すると、六畳程の部屋にピンクの羽毛布団が掛けられたシングルベッドが一つとその脇に薄桃色のマットが敷かれた上にキャビネット、壁際に大量の書物が並べられた本棚があるだけの簡素な部屋だった。それだけに、キャビネットの足元に設置された一斗缶程の大きさの鈍色の無機質な金属の物体が酷く異質で目に付いた。
「なんだ? お二人さん、こっちに妙なモンがあるぜ」
呼ばれた未夜と加賀美も寝室へと足を踏み入れる。
「……何かの機械、に見えるね」
ほぼ立方体のそれの上面には目盛りとスイッチが備え付けられており、背面には二本のケーブルが生えている。一本は壁のコンセントへ伸びるプラグ。もう一本はベッドの枕元へ伸びていた。
加賀美が枕の裏へ手を忍び込ませると予想外に大きな物が姿を見せた。
「ヘッドフォン……いや、『ヘッドギア』か?」
頭部に装着するのだろうと思しき形状の機械。耳当てがありヘッドフォンの様に見えるが、頭部全体を覆う様にアーチが張り巡らされている奇妙な形状のそれが、更に得体の知れない箱に繋がれている事に加賀美は不気味さを覚えた。
「寝る時に音楽でも聴いていたのかねぇ」
「だとしたら、随分とセンスのない音楽プレイヤーだね。大きいし無骨だし、ヘッドフォンは医療器具とも拷問器具ともつかない不気味なデザインだし」
率直に酷評する未夜だったが、音楽プレイヤーだとは微塵も考えていなかった。
「音楽と言えば、居間にはテレビがあったけど電波が入るのかな」
「電源でも入れてみる?」
未夜が苦笑いを浮かべながら言うと、郷本は肩を竦め加賀美は小さく溜め息を吐いた。テレビの電源を試しに入れてみる、という行動ですら気味が悪くて実行出来ないでいるのだ。
未夜も同じ気持ちで溜め息を吐き、自身のスマートフォンの画面を開いた。すると、恐ろしい事実に気が付いてしまい思わず「笑えないね」と呟いた。
「何があった?」
「テレビの電波以前に、スマートフォンの電波も入ってないよ」
即ち、外部との連絡手段が断たれたという事を意味している。最悪の場合に救助を呼ぶ事すら出来ない。次々に悪い方向へと転ぶ現実に、郷本は感情が一周回り笑い声を上げた。
「島に上陸した時、真っ先に確認するべきだったな! こいつが使えるのが当たり前になり過ぎてたぜ」
「迎えは明日の朝来る。それを逃すわけには行かなくなったが、島を出られなくなったわけではない」
加賀美の言う通りではあるが、不安な方向へ気持ちが流れるのを止めることは難しい。それでも、無いものに縋る事は時間の無駄だと、未夜は気持ちを切り替えた。
「この機械、動かすべきかな」
足元の立方体を指差して言う。気味が悪くとも、どの様な動作をするのか好奇心もあった。
「ヘッドギア着けてか?」
「いや、それは危険だと思う。頭部へ何か刺激を与える可能性があるものなんて無闇矢鱈に触るべきじゃない。それを着けないで電源を入れてみたい」
「それもそうか。本当に拷問器具だったら嫌だしな」
「二人は部屋の外へ」
未夜達は加賀美に従い居間へ戻り、扉の向こうから様子を見守る。二人が十分に離れたのを確認すると、加賀美は電源らしきボタンに手を掛けた。
次の瞬間、枕元のヘッドギアが鋭い金属音を立てる。見れば、小さな無数の針がヘッドギアの内側にびっしりと突き出している。身構える加賀美の前で、ヘッドギアは更に青白い光を迸らせた。何度も光放ち明滅する暴れ馬を一同は黙って見つめるしかなかった。
やがてヘッドギアは落ち着きを取り戻し静寂が訪れると、焦燥する心音に混じって足元の立方体が小さな駆動音を立てている事に気が付く。加賀美は恐る恐る立方体に顔を近付けた。
「動いているようだが……」
外見を見ただけではどの様な動作をしているのかは判断が出来なかった。
「装着しなくて正解だったみたいだね」
部屋へ戻って来た未夜がベッドの上のヘッドギアに手を伸ばす。恐ろしい閃光を放っていたそれも今はすっかり落ち着きを取り戻しているものの、突き出した針は残ったままになっており、郷本は顔を青褪めさせた。
「脳になんかの刺激を与える機械なのか?」
「概ね郷本さんの言う通りだと思う。もっとも、それだけじゃ済まない気もするけど」
恐れながらも興味津々に観察する未夜も針に触れる事は憚られ、多様な角度から観察してみたが何も情報が得られないと判断すると速やかにベッドの上に戻す。そのまま振り返り立方体の機械を見ようとした時、キャビネットの上にあるウッドフレームの写真立ての存在に気が付いた。
興味を惹かれ手に取ると収まっていたのは二人の人物が撮影された一枚のカラー写真だ。若い長身の黒髪の女性が、よく似た顔立ちをしているが長身の女性より四、五歳程幼い少女と並び立っている。長身の女性は非常に穏やかで優しげな表情を浮かべており、少女の方はやや目線を正面から逸し口をへの字に曲げているが、未夜には照れ隠しの様に映った。
「そっくりだな。姉妹ってところか?」
後ろから観察していた郷本が訊ねる。毛量が多く癖のある長い黒髪、深いエメラルドカラーの碧眼、美しいと表現するより愛らしいと表現する方が適切な顔立ちと非常に類似点が多く、一目で血縁関係があることが見て取れる。相違点を挙げるならば身体的な成長度合いに大きく差があることだろう。特に、長身の女性は胸部が豊満であった。
「背の高い女性は七々扇舞夜かも」
「ああ、白衣も着て研究者っぽい出で立ちではあるな」
共にカジュアルな服装だったが長身の女性は上から白衣を纏っていた。しかし未夜は「それもあるけど」と一部否定した。
「本棚の書物だよ。半分はロシア語だったり知らない単語で判別出来ないけど、日本語と英語のタイトルの中で多いのは『脳科学』と『医学』、それに『ネットワーク技術』に関する本だ。瞳の色を除けば日本人の特徴が強い風貌である点を考慮しても、舞夜さんである可能性は高い」
「いつの間に本棚なんか見てたんだ?」
未夜の観察眼に敬服しながら郷本は本棚に手を付けた。未夜とは異なり英語に堪能でない彼は日本語の背表紙でしか判断出来なかったが、専門的な参考書が多い事は理解出来た。指先を背表紙の上で滑らせていく中で、郷本はあるものに関心を惹かれた。
分厚い参考書に紛れて、背表紙に文字も入らない薄い書物が隠れている。手に取ると、表紙には手書きの文字でタイトルが書かれていた。
「キリル文字だね」
「ロシア語か。日本語と入り混じっているが……なんちゃらの噂、か。翻訳アプリがこいつに入れてあったな」
郷本が自身のスマートフォンを操作するとダウンロード済みの翻訳アプリが見つかり、ロシア語から日本語への翻訳で表紙の文字をカメラで読み取る。すると間もなく翻訳アプリが答えを返した。
「意味は深い夜を意味する『宵』。読み方は『ランニィ・ヴェーチェル』と読むらしい」
「『宵の噂』? いや、この場合ランニィ・ヴェーチェルは『宵』という概念ではなくて、『人』や『物』の名前か通称と考える方が自然かもしれない。中身を読んでみようか?」
未夜の提案に頷き郷本が本を開こうとすると、ほぼ同時に加賀美が小さく言葉を発する。
「ウィザード級ハッカーの都市伝説だ」
「え?」
「コンピュータ技術に長け、それを生業や趣味にする者をハッカーと呼ぶのは知っているだろう。その中で特に技術のあるハッカーを『上級』、とりわけ魔法の様にハッキングを行う技術力を持つ者を『ウィザード』、神の領域にある者を『デミゴット』と呼ぶ。他にも呼称はあるが、上級の呼称自体に上下の差は殆ど無い。そのウィザード級ハッカーの一人で、都市伝説の如く存在を示唆されているのが『ランニィ・ヴェーチェル』だ。ハッカーは正体を隠して活動する事が多く、コードネームを愛用する事が多い。ヴェーチェルの名も恐らくコードネームだ」
「今度はハッカーか。次から次へと非日常が舞い込んで来てキリがないね」
加賀美が語った内容の真偽を今更疑ってはいないが、未夜の好奇心も流石に飽食気味であった。
「都市伝説ってのは?」
「ヴェーチェルは善意も悪意も持たない『グレーハット』と呼ばれる中立のハッカーとして有名だ。その理由が、“主な活動は依頼の請け負い、その内容如何は問わない”というところにある。そして、依頼を受ける過程が都市伝説と化した原因だ。ヴェーチェルへの依頼方法は、『ネット上のどこでもいいから“助けてヴェーチェル”と言語問わず書き込む事』だ」
「そんな方法で本人に依頼が届くのか?」
「書き込みを自動で探し出すプログラム、みたいなものを構築してあるんじゃないかな。門外漢だから具体的な方法は解らないけどね」
「実際に、ヴェーチェルへの依頼と思しき書き込みとセキュリティを破られた企業が一致したり、依頼者に冤罪を着せ逃亡した男の情報が突然警察に送られたりと、ヴェーチェルの存在を裏付ける事件もある。国籍、年齢、性別、素顔まで全てが正体不明ではあるが、もし存在するならば主だった活動の形跡は日本、アメリカ、そしてロシアの三カ国であると判明している。日本政府も国のお抱えとしてヴェーチェルを追っているんだ」
加賀美は一頻り説明を終えると言葉を切る。郷本が本と呼ぶよりは冊子に近い厚みの書物の内容を読み進めると、中身はまるで文書ファイルを製本したものであり、概ね説明通りの内容であった。
「この家の主ーー恐らくは舞夜だと思うけれど、彼女は何故ヴェーチェルの噂を調べていたのだろう。ただの興味本位とは思い難いけれど」
「今はヴェーチェルの事よりもセルゲイ所長だ。手早く調査しセルゲイ所長の邸宅へ向かおう」
三人は寝室の隣の部屋がユニットバスとお手洗いであることを確認すると家を後にする。そしてセルゲイの邸宅と思しき大きな建物を目指し、幾つかの建物を調査していった。
しかしどこにも、人の姿は見つけられなかったのだった。
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