Ⅴ.無人の銀世界
桟橋へ降りた未夜達は揃って無意識に“それ”を見上げて大口を開けてしまう。黒光りする巨大な板が、島全体を覆う様に隣り合い並べられているその様は、さながら堅牢な要塞である。島に踏み入るまでもなく『イリア島』という存在の異様さを惜しげもなく醸し出していた。
雪の中で身震いをしながら、海上自衛隊制式の黒い外套を借用した未夜は他の二人に先んじて桟橋を進み、モーメントの如き黒い壁へと歩み寄る。すると、目の前の壁のみ周囲とは異なる様相をしていることに気が付いた。
壁に切り込みが入っており、壁の脇にはモニタや操作パネルを備えた機械的な装置がある。
「三日月さん。可能な限り先行せず、私が安全確認を済ませるまでお待ち下さい」
同じデザインの外套を羽織る加賀美がすぐに後を追い彼女の行動を咎めた。
「失礼。つい好奇心が勝ってしまって」
「猫だって命を落とすんだ。従った方が身の為だぜ」
郷本が二人の後を追って壁に近寄ると、彼らの後ろで波飛沫の小気味良い音が響き渡り、振り返ると乗って来た潜水艦が姿を消していた。
「ここからは明日の同刻まで迎えは来ません」
覚悟を試す言葉を続けることはなかった。未夜も郷本もあえて言葉にせず頷き、再度目の前の壁を見やった。
「しかしこいつは、ひょっとして『扉』かね」
長方形二つ分の切り込みがある壁を叩き郷本が言った。開閉の為のノブも凹みもないが、扉と言われれば扉に見えなくもない形だと思いつつ、未夜は脇の壁に埋め込まれたモニタとパネルに触れる。
「これを操作して開閉する電子扉、かな?」
積雪を払い除け指先で何度か触れてみるものの冷たい感触が返って来るだけで反応はない。
「開け方が解らないけれどね」
「それでは中に入れないな。手紙に指示はなかったが」
加賀美が制服から手紙を取り出し内容を検める。イリア島へ到着した後の指示については明確に何も示されていないが、時刻の指定の後に気になる文章があった。
「出入りが可能になるのは十一時とある」
「待ってみましょう。十一時までは僅か五分です。ところで加賀美さん」
桃色の革紐で留められた可愛らしい時計を見ながら未夜は問いかける。
「言葉遣いが軍人らしくなりましたね」
未夜達に対し敬語を使っていた加賀美だったが気が付くと威圧感のある口調になっていた。
「ああ、任務に気合を入れねばと思い部下に対する接し方になってしまいました」
「そのままで大丈夫ですよ。私も今の方が接し易い」
「俺も同じだね、司令官どの」
二人は立場上民間人ではあったが、ある意味では加賀美の一時的な部下でもあると言えた。
「ではこのままで」
「ええ。さて、あと十秒ほどだ」
時計の秒針が文字盤を滑りやがて頂点を差す。同時に低く大きな音が空に響いた。寺の鐘の音に似た音は何度も一定の間隔で繰り返されていた。
「凄いな。島中に届いていそうな音だ」
「私の時計は正確だったみたいだ」
やがて音が止むと、次は重々しい瓦礫を引き摺る様な音と、金属の軋む音が目の前から聴こえて来る。黒い壁に縁取られた長方形の観音開きの扉が島内へと向かって開放されていた。
「招かれてるねぇ」
「本当に決められた時刻にしか島へ入ることも出ることも出来ないのか。入り口でこれではこの先は鬼が出るか、蛇が出るか」
既に厳重な秘匿性については驚きの対象にもならない。イリア島が如何ほど非常識な空間なのかは誰の目にも明白だ。津々と降りしきる雪が一層現実味のなさを演出していた。
「イエティなら出そうだね」
未夜が冗談めかしていうものの、実際に出会うのが人間でなくとも大した驚きにはならないと感じるほどだった。
扉の先へ進み僅か十分足らず。目の前に広がる幻想的な光景に三人が目を丸くする。それは北欧の田舎町の風景写真を切り取ったかの様な銀世界。島外観の異様さとは裏腹に穏やかで美しい世界を目にしたギャップは筆舌に尽くしがたかった。
「ここは日本に近い海の孤島の筈だろう? ノルウェーに旅行に来た気分だ」
前進が困難ではない程度の積雪を踏みしめ郷本が言う。薄く白んだ空から注ぐ雪の群れは風も無く緩やかで、雪国の観光にはうってつけである。鞄からデジカメを取り出し白い絨毯が彩る木造の家屋達を交えた風景を何度も撮影する。資料としての写真も勿論だが、単純に美しい風景を収めたいという気持ちも強かった。しかし、郷本の様子とは打って変わって未夜と加賀美は気難しい顔を見せていた。
「人の気配がないな」
「ん? 確かに」
加賀美の声に撮影を中断し辺りを見渡す郷本だが、人の姿どころか照明が漏れ出す建物すら見つけられない。未夜は屈み込んで足元の雪をなぞった。
「人通りがある筈の道に積雪がそのままだ。掻き分けられた様子もない。数日は人の通り自体がないみたいだ」
見渡す限り積もった雪に人の手が加えられた様子が見られない。降雪量から少なくとも数時間以上ここに人通りがなかったということだろう。
「それなりに家屋はあるようだが、誰もいないのか?」
高い建物がなく見通しの良い景色の中で家屋の数は十を超えている。その全てから生活音らしき音の響きや灯りの揺らめきがないのは異常だ。これではまるで廃村だった。
「私がこの手紙を拾い上げたのは九月の半ば。あれからひと月近くが経過している。手紙の内容の時点で既に逼迫した状況であったとするなら、今この場に人の姿がないのもおかしな話ではないのかもしれない」
「なんだそりゃ……虐殺でもあったってのか?」
「さて。例えば、大きな災害が起きて住人が脱出、残された七々扇舞夜とラススヴィエートの二人が救助を求めている。という状況なのかもしれない」
「災害? 地震や津波ってわけじゃなさそうだが」
倒壊した建物はない。積雪に対し強い設計なのか重々しい白い絨毯を背負った屋根が落ちている建物すらない。景色は平和そのものだ。
「雪が続いて不毛になり食糧難になったり、汚染物質が村中を満たしてしまったり。可能性は色々ある」
「……東には研究所があるな」
未夜の推測を耳にしながら、加賀美は村の入り口に立っている木造の案内板を見た。先端に風見鶏が備え付けられたそれには、東の方角に向いた矢印型の板に『ハーバート・ラボラトリー』と英語で書かれている。また、北には『所長邸』、西には『制御塔』と記されていた。
「研究所から何かが漏れ出したってか? まるで映画だ」
「もしそうなら私達も無事ではいられないよ。とにかく人を、少なくとも島にいる筈の七々扇舞夜とラススヴィエートを探さないと。村を回ってみるべきだとは思うけど研究所も気になるね」
未夜が東の方角を眺めると、少し離れたところに一際大きな建物のシルエットが見えた。薄暗さもあり肉眼では細かい造詣は判らないものの、自然を感じさせる村の様相とは相反する無骨な鉄筋コンクリートの建物を想像させる姿である。二人も追従し研究所を見やり、加賀美が顎に手を当て低い声を絞り出した。
「私は先に研究所へ向かいたい」
「理由をお伺いしても?」
「何を研究しているかは知らないが、二国合同で公に出来ない何かを対象にした研究所だろう。ラススヴィエートや七々扇舞夜は各々の国から派遣されている研究の責任者である可能性が高い」
手紙に二人の立場を示す情報はない。未夜は加賀美の考察に疑問を抱いた。
「どうして責任者だと?」
「私も大体ひと月前にこの手紙を手にれて、七々扇舞夜の情報を洗ってみた。すると、内調の方で一つの資料が見つかった。手書きの資料のみでデジタルのデータとしては存在しなかったが、そこには『脳科学者M.Nによる研究レポート』というものが存在した」
「脳科学者……」
イニシャルは確かに七々扇舞夜と符合する。
「その資料がいつ、どの様にして内調の資料保管庫に辿り着いたのかは見つけた者にも見当がつかない上に、殆どが黒く塗りつぶされていてどの様な研究をしていたのかは不明だ。ただ、七々扇舞夜という脳科学者が存在するかもしれないというだけだ」
「それでも貴重な手掛かりだね。では研究所から行きましょう」
「次から次へととんでもない情報が出て来て俺は身震いしてるよ」
郷本は肩を竦めてぼやいたが今更引き返せないのも事実であり、案内板に記された研究所への方角へ向かう二人の後を、鳥の巣の様な頭を掻き毟りながらそそくさとついていくのであった。
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