Ⅳ.静寂の海の真ん中で③

 未夜が加賀美の手引きにより不慣れながらも潜水艦内部と乗り移ると、拳銃程度では穴一つ開かなそうな巨大な鉄の塊に包まれる不思議な感覚を味わえ、外観から想像していたよりも狭く閉鎖的な空間は、閉所恐怖症の人では長くいられないだろう独特な息苦しさがあった。


「乗艦完了。民間のクルーザーも海域を離れた。潜航開始の指示を出してくれ」


 加賀美は、未夜がハッチに備え付けられた梯子を降りきると同時に無線を取り出し指示を飛ばした。無線からは「了解」という声が返って来る。


 潜水が始まったことによる気圧の変化で耳がボーッとし始める。潜水艦に慣れていない未夜の様子を見て、加賀美が言う。


「日本に現存する潜水艦の数は二十一隻。その全てが自衛隊か、海洋に携わる研究開発を行っている組織が所有しているのみであること考えると、極めて貴重な機会ですよ」


「不謹慎ながら冒険気分でワクワクしてしまいますね」


 まともに立って歩ける通路ではなく億劫な思いをしつつ、新鮮な気持ちで辺りを見回す未夜。少年の様な眼差しである。


「注意しておきますが、この船にある情報は基本的に機密です。その為、食堂以外の部屋には立ち入りを禁じます」


 今まで以上に強い口調で加賀美は釘を刺した。


「ええ。大人しくしています」


 狭い通路を進み、二人は一つの扉の前に立ち止まった。重々しい水密扉である。加賀美が扉を開けると目の前に広がるのは一際開けた空間で、いくつかの長テーブルが設置されていた。


「食堂です」


 部屋を見渡すと三つの人影があった。うち二人は加賀美の姿を見るが早いか、素早く立ち上がり敬礼を取った。この船のクルーで加賀美の部下なのだろうと未夜は悟る。しかしもう一人は、片手にポケットサイズの手帳を広げたまま、突如来訪した未夜を静かに見つめ、口元を釣り上げて笑った。自衛官の制服を着ていないその人物はボサボサの髪に無精髭を生やし、アイロンの掛けられていない皺だらけのシャツをだらしくなく着用した中年の男だった。その男が誰よりも先んじて口を開く。


「こんな大海原で遭難かい、お嬢さん」


 本当に軽薄な態度で言い放った男に対し、未夜は大体の人柄とここにいる経緯を察し肩を竦めながら答える。


です……ってね」


 無精髭の男は返事に対し目を瞬かせた。そして鵜の様な大口を開けて高らかに笑った。


「ノリのいいお嬢さんだ。こんな子どうしたんだい加賀美サン」


「貴方と同じです。ボトルメールを見てここまでやって来た方です」


「へぇ、こんな若い女性がね。オカルトハンターや都市伝説マニアか? それとも、流行りの動画配信者ってやつかい?」


「私立探偵だよ。ジャーナリストのオジサマ」


 皮肉交じりに訊ねた男だったが思わぬ返しに一瞬だけ驚きの様相を見せた後、目を細め値踏みする様に未夜を上から下まで観察した。加賀美とはまた異なるタイプの鋭い目つき。例えるならば狡猾な狐の様な眼だ。


「よくわかったな」


 未夜には彼がジャーナリストであるのは明白だ。使い込まれた手帳と表紙に留められた万年筆、特に万年筆は高級なブランド品で拘りを感じさせる。目元に深めの隈が彫り込まれ、日に焼けた肌は僅かに覗く袖や胸元の内側が焼けておらず海やプールでの日焼けではない。つまり仕事柄。もっとも、決め手となったのは胸ポケットに留められたもう一本のペンだ。


「加賀美さん、会話の録音は禁止していないのですか?」


「なに?」


 未夜に振られて加賀美は咄嗟に無精髭の男を振り返り、吸い込まれる様に胸ポケットの膨らみに視線が向かった。


郷本ごうもとさん。失礼ながらその胸元のポケットのペンをあらためさせていただけますか?」


 郷本と呼ばれた無精髭の男は、焦った様相を見せるわけでもなく素直に指示に従う。姿を覗かせたのは一本の万年筆ーーの形をしたボイスレコーダーである。


「お目聡いお嬢さんだ」


「三日月未夜。宜しく頼むよ、郷本さん」


「ま、そうだな。郷本ごうもとさとし、科学誌専門の記者だ」


 二人が挨拶を交わすのを横目にペン型レコーダーを受け取った加賀美は郷本を半眼で睨みつけた後、未夜へと向き直った。


「彼もまたボトルメールを拾った者だ」


「正直海を嘗めてたよ。海水浴場で遊ぶ為に買ったモータボートじゃ大海原に挑むのは無謀だったな。そこを加賀美サンに拾い上げてもらったってわけさ」


「それで私の進言も妙にすんなりと受け入れてくれた、ということですか」


 トントン拍子に目論見が進んだ事に多少の違和感を感じていた未夜だったが、郷本という存在によって漸く得心が行った。剽軽で胡散臭いこの男の存在が、加賀美に“一人増えたところで変わらない”という考えを生ませていたのである。


「座って下さい。お二人をお招きした理由について改めてお話しましょう」


 促されるままに近場の空いている席へ未夜は腰掛ける。薄暗い照明が彼らの顔に影を落とす。不意に、今いる乗り物が音も光も遮る世界を進む鉄の塊であることを思い出し、外が昼であることを思い出した。


「先程もお話した通り、この船の乗組員は私を除き全員島を発見次第帰投します。上陸し調査を行うのは私一人。その理由は、この任務が極秘であり、自衛隊組織や政府に調査していることを秘匿する為です」


 荒唐無稽だ。どの様な危険があるかも分からないというのにたった一人で何が出来るのか。未夜も郷本も顔をしかめる。


「理由はともかく、普通一人で行けなどという指示が出ますかねぇ? ましてや手紙の内容が真実だったら、島にはロシアの連中もいるんですよ」


 もっともな意見だ。手紙が悪戯であったならば何も問題はなく事実をそのまま報告するだけで良いが、手紙の内容が真実ならば調査を実施しなければならないのである。


「無論、命を最優先にすることを許可されています。しかし、信頼出来る部下を除き、秘匿は徹底しろとの指示です」


 きな臭い、と未夜は嫌なものを感じた。


「その言い分、貴方の上官はひょっとして島の事を知っているのでは?」


「その可能性は高いが、この私に対し調査の命令を下したということは、私の上官ーー階級は一等海佐だが、彼は島の内情に思うところがあるのではないかと考えている」


「島じゃ随分ことやってるってことですか?」


 郷本の指す『ヤバイ』は抽象的で具体性の欠片もなかったが、未夜も想像し難い危険な出来事が起きているのではないかと考えた。


「軍用の新型化学兵器の開発、だったりでしょうか?」


「それも非人道的ってところかね」


 民間人の陰謀論的発想に過ぎなかったが、五割の人助け精神と五割の好奇心でやって来た二人にとっては出立時よりも厄介事に巻き込まれていることが現実味を帯び、軽口とは裏腹に身震いしていた。


「私が二人の同行を受け入れたのは、一つには止めるより同行を許した方が身の安全を確保出来ると考えたからです。そしてもう一つが」


 少しだけ溜めを作り、手にしたままだったペン型のボイスレコーダーをテーブルの上に置き、それを指差して言う。


「真実を持ち帰ってもらうことだ」


 そう告げられ二人は顔を見合わせた。


「つまり、記事にしていいってことですかね?」


「その判断は私の指示を待って欲しいが、調査完了後に都合の悪い事実を上が潰してしまう可能性を憂慮し『真実』の追求者と報道者である貴方達の同行を許可した次第です」


「成程。こちらのワガママのつもりでしたが、お互いにとって都合が良かったということですか」


「貴方達の様な職業の方とこうして出会えたことは幸運でした」


 加賀美はボイスレコーダーを郷本へ向かって差し出す。


「艦内での録音は禁じますが、上陸しましたらどうぞご活用下さい」


「とんでもない事に首突っ込んじまいましたなぁ」


 郷本がそれを受け取ると同時、加賀美の胸元の無線から砂嵐の様な音が響いた。


「加賀美一等海曹。目の前に巨大な影が見えます。あれは、壁? ーーい、いや違う、島だ。島が見えました!」


 無線からの音声が食堂全体へと届き、一同が一様に加賀美の胸元の無線へと視線を向け、加賀美が応答するのを待った。


「岸はあるか」


「視界内にはありません。旋回して確認します。ただ、妙ですよこの島」


「妙とは?」


「島全体が大きな外壁に覆われている様子です。五階まであるビル程度の高さの、コンクリートか金属の壁です」


 食堂にいる全員が島の様相をイメージするが、誰もが無線の声の主と同様、その様相を奇妙に感じた。


「徹底した情報の秘匿の一環というところでしょうか」


 未夜の言葉に加賀美は唸りながらも内心で同意すると、無線の声が叫んだ。


「ありました、桟橋です! 乗降可能です。これより浮上し接岸します」


「了解。お二人とも、浮上しましたらただちに上陸します。準備を怠らないようお願い致します」


 午前十時半。ボトルメールによる救助要請の手紙を受け取った三人は、指定時刻の三十分前に目的地へと到着したが、『イリア島』が実在したという事実を誰もが完全には受け止められていなかった。各々の思いを胸中に、桟橋へ停泊した潜水艦は静かに波間に佇むのだった。

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