Ⅱ.静寂の海の真ん中で①

 海面に照り返す日差しがゆっくりと水平線の向こうから姿を表す、十月十日の朝八時。波打つ群青の中を一進に突き抜けるキャビン・クルーザーの上で、未夜は愛用のエクルベージュとキャメルを主軸としたマドラスチェックのキャスケットを片手で抑え、己の存在がちっぽけに思えるほど広大な水平線を見渡し、予想していたよりも数段心地の良い気分に瞳を輝かせていた。


 初めて乗るキャビン・クルーザーに対し、丘の上では酔や転落に対し一抹の不安を抱いていた彼女はどこへやら、今ではキャスケットと同じデザインのアンゴラの春物コートを靡かせ、船の操縦者である未夜の知人ーーかつての依頼主の一人である男、『滝沼たきぬま隆二郎りゅうじろう』ーーが、転落の心配をするほど身を乗り出して満喫しているのである。


「気をつけろよ、未夜ちゃん。居住性も兼ね備えた俺の相棒も、じゃじゃ馬は振り落としちまうかもしれないぜ!」


「じゃじゃ馬、じゃなくて? はは、皮肉が効いてるね!」


 滝沼隆二郎は釣りの趣味が嵩じて自分用のクルーザーを購入した、豪快な髭を蓄えた中年の生粋の海男だ。未夜が隆二郎と交流を持つに至ったのは二年前、隆二郎から依頼された“釣具泥棒の事件”の調査がきっかけだった。愛用の釣具一式を盗難にあった隆二郎は警察に相談したが、カメラのない防波堤での事件だったが為に調査が難航していたことで私立探偵へと依頼をするに至った。隆二郎にとっては釣具を取り戻すことよりも、釣具泥棒の正体を暴き、釣り仲間への被害を無くすことが大事だった。未夜は見事犯人を突き止め、事件の捜査は警察へと引き継がれ解決へと至った。


 以来かつての恩義のあった隆二郎は、未夜の「クルーザーを出してほしい」という求めに二つ返事で応じたのである。未夜には彼の様に頼れる知人が全国におり、このひと月も様々な渡航手段を考え声を掛けていた。


「しっかし、こんなところに島なんかあるんかいね」


 隆二郎がクルーザーの操縦をしながら波飛沫に負けない声量で未夜に疑問を投げかける。振り返ると、操縦室の脇に貼り付けた地図を眺める隆二郎は、刈り揃えられた荘厳な顎髭を指で撫でて首を傾げていて、筋肉質の厳つい中年男性にしては妙に可愛らしい所作に未夜は微笑んだ。


「そればかりは私にもこの目で見て見ないとわからないんだ。なにせ、幾らインターネットで検索してみても、ボトルメールに書かれた情報以上のことは出てこなかったんだからね」


「このご時世に前時代なことだが、本当に古い手紙ってことはないんかい?」


 未夜も隆二郎が言う“古い手紙”の可能性は頭を過ったが、一ヶ月の思考の末に否定した。


「確かに、ボトルは年代物のウィスキーのボトルだ。けれど、遥々海を超えて浜辺に辿り着いたとしてその旅は決して長くはないだろうし、観光客が気が付かない筈はない。用紙も陽光に晒され変色している程度。栓を抜いた時の空気もそう歴史を感じさせない。なにより、これは。手書きではないんだ」


「パソコンかい」


「デジタルなのは間違いないよ。ただその場合、別の疑問が浮かび上がる。何故、メール等のネットワークを用いた手段でこれを送らず……いや、別の送信手段用いている可能性はあるけど、デジタルで生成した文書をどうしてボトルメールという形で送ったのか?」


 とりわけデジタル機器に疎い隆二郎は考える様な仕草で溜め息を吐いたが内心では疑問の意図が把握出来ていなかった。鋭い鷹の目を更に細める隆二郎に苦笑し、未夜は肩を竦めながら補足する。


「なにかアナクロな方法で送らないといけない理由があったのか、それとも単にボトルメールという方法に拘っているだけかってことだよ」


「拘る理由ってのがよくわからんな」


「そういうこと。手紙の内容も、必死に助けを求める感じだからのっぴきならない理由があってこんな方法を採ったのだろうね」


 探偵らしく理に適った推測を並べ立てて見るものの未だ雲を掴む様な手応えだ。それもその筈、手紙には最低限の情報しかなく、重要と思しき単語からは何一つ手掛かりが得られない。『ラススヴィエート』、『イリア島』、『七々扇舞夜』、この三つのキーワードから得られたものは、『ラススヴィエート』がロシア語で『夜明け』を意味する単語だと言うことだけであり、綺麗な名前だという感想を抱くだけであった。


「島が見つからなければ単なる悪戯で全て忘れるつもりだし、本当に存在するのであれば上陸するさ」


「しかし地図に乗らないなんてことがあるかね」


「大国の政府が作り上げた人工島、らしいからね。秘密の研究をしている極秘施設でもあるんじゃないかな?」


「こりゃ実はハリウッドの撮影かい?」


 隆二郎のジョークに二人は笑いあった。未夜も自分が口にした言葉のあまりの現実味のなさに天を仰いだ。


 空にはカモメが三羽グルグルと螺旋を描いて飛び回っていた。そのまま螺旋を描く軌道をぼんやりと見つめていると穏やかな気持ちになり、乗り出したデッキから身を引っ込めてチェアに寄りかかった。


 そうして暫く、大自然の奏でる音楽とモーター音の合奏に身を委ね、移動の間の時間潰しにと買っておいた恋愛小説を開く。ミステリーやサスペンスを読み漁り続けていた彼女が新たに開拓を試みたジャンルだった。


 隆二郎は途端に静かになった未夜の様子を観察して、「よく読書に集中出来るな」と感心と呆れの混ざった声を漏らしながらも、そのまま暫く操縦に集中した。


 やがて分針が二往復する頃、不意に未夜の頬に冷たいものが触れた。水飛沫かと思い、少し波が荒くなって来たかと屋根の下に入ろうとすると、今度は掌に触れたが小さな結晶から液体へと溶けていく様が見えた。


「ーー雪?」


 再び空を見上げると、晴天の空に分厚い絨毯の様な雲が掛かり始めていて、北国の代名詞が落葉の如く舞い散りつつあった。


「なに? そういや随分と肌寒くなって来やがったと思ったぜ」


 隆二郎は七部丈のシャツから覗く自分の腕を軽く摩りながら身震いする。未夜も春物とはいえコートを来ていなかったら両肩を抱く様にして屈んでいたことだろう。しかし、急激に雲が空を覆うことによる薄暗さと共に勢いを増す結晶のすだれを前に、寒さ以上にふと湧き上がった疑問が彼女の脳を支配する。


「この辺りではこんな急激な天候の変化が起こり得るのかな」


「海と山のご機嫌は読み切れねぇもんよ。こんなところまで来たことはないがな」


 隆二郎の言葉に未夜も随分長いことボートに乗っているなと思い返した。ノットやマイルといった船舶の移動に用いる単位の計算は未夜には知識不足だが、時計を見ると一時間から二時間程度は船に乗っていたので結構な移動距離なのではないかと感じた。


「そういえば、船舶の操縦で港から離れて良い距離って決まっているのではなかったっけ」


「俺は一級小型船舶操縦士の免許を持ってるからな。移動距離に制限はねぇさ」


「そんな立派な資格を? ただの釣り好きのおじさんだと思ってましたよ」


「そんならこんな立派なクルーザー、ローンこさえてまで買わねぇよ!」


 隆二郎の船は居住性も立派に兼ね備えたキャビン・クルーザーである。並の車とは桁が一つ変わる。


「だが、雪ん中操縦すんのは初めてだ。随分と見通しも悪くなり始めたし、こいつはちと厳しいな」


 しんしんと降り注ぐ雪と比例するかの様に、静寂と白くぼやけた視界が深くなり、広い海の真ん中に取り残される様な不安が胸中に生まれる。


「燃料は?」


「そいつも問題だ。替えの燃料を一缶分積んではいるが、これ以上進むとわからん」


 船旅を嘗めていたわけではない未夜だったが、想定していた問題がこうして眼前へと迫ると旅行気分もすっかり抜けて緊張感がこみ上げてくる。島を見つける以前に、自身や隆二郎の命に危険が及ぶ可能性を考慮し隆二郎に意見を求める。


「どう見ますか?」


「地図を信じるならこの先を更に三十分も進めば見えて来る筈だが、このままの視界ではリスクが高い。精々百メートル先しか見えんからな。幸い、方角ははっきりしとるから遭難とまではいかんだろうが、見つかるまでに燃料が持つ保証はない」


 隆二郎の声は渋いが、はっきりと「引き返そう」とは口にしない。彼は未夜の決定に従うつもりである。未夜も敏感に意図を察し、一度じっくりと思考の海に沈む。


 未夜が事前に海に出て島の発見をせずに、指定された十月十日の当日に強行したのには訳がある。手紙の文面を読み解くと見えて来るを恐れたことが理由だ。判断材料は複数あり、第一に、『助けを求めるにはあまりにも詳細が記されていないこと』、次に『日時をはっきりと指定した上で、その日時のみ上陸が可能である旨が記されていること』、極めつけは『二つの国家の政府間で民間人に知られず極秘裏に建造された人工島であること』だった。


 未夜は、指定された日時以外で島へ近付くというのは『イリア島』の秘匿性にまつわる脅威があると考えても大袈裟ではないと踏んだのである。


 結果としてそれは当日の島への到達を困難としていた。事前に島の存在を何らかの方法で確認しようとしていれば、その時に見つからずとも今現在もっと確実な手段で島探しを出来ていた筈だ。未夜は悔しさに歯噛みした。どちらにしても悪戯に時間を経過させている暇はない。


「隆二郎さん。救命用のゴムボートがあれば私一人でーー」


 方針を定めて隆二郎へと提案しようとした刹那、クルーザーの近くの海面が大きく盛り上がり、海原をかき分けて黒い鉄の塊が姿を覗かせた。二人は突如訪れた荒波に全身を硬直させ、驚愕の表情で海中から浮上してきた“金属の怪物”を眺めていた。すると、鉄塊の上部に設けられていた扉ーーハッチであるーーが開き、中から黒い正装姿の青年が現れ、クルーザーへ向かって敬礼のポーズを取るのだった。

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