9 瑠璃姫
夕日が照らす廊下で、璃朱はとある引き戸の前で佇んでいた。中に目的の人物がいるのは分かっている。呼吸をもう一度だけ整えて、その戸を軽く叩いた。
「いるよ。入ってきて」
戸を引けば、その先も真っ赤な光景だった。
「こっちからの呼び出しでごめんね。来てくれてありがとう」
その赤の中心で、三冴がいつものように妖艶に微笑む。
「整理、できたんだね」
「入ってきてよ。大丈夫、襲いはしない」
三冴の指先が璃朱を手招く。赤の中にいる三冴は浮いて見えた。
壁一面が鮮やかな紅で染まっていた。それだけではない。身なりに気を使っている三冴なら洒落た小物や家具が配置されていると思ったが、寝具と最低限の収納棚しかなく、それも赤の徹底ぶりだ。
璃朱の視線がそれらに注がれているのが判ったのだろう。
「驚いた?」
小首を傾げる三冴だけがその中で他の彩色を纏っていた。
「ちょっとだけ……」
「ごめんね。椅子ないから寝台に座ってもらってもいい? 大丈夫、やましい意味はないよ。心配だったら腕を縛ってもいいよ」
「今日の三冴はそういうことしない気がする」
「今日の、ってのは失礼なー。いつもそんなことしてないでしょ」
「……確かに……発言は酷いけどね」
「そこは言わないお約束」
三冴が片目を瞑りながら寝台に座る。促すように軽く叩かれた場所に座れば、布団が優しく受け止めてくれた。
「さて、何から話そうか……。質問したいって言ってたよね。それってどれのことかな」
どれのこと。それはいっぱいありすぎる。
それでも今、一番訊きたいことは。
「……三冴って、前の貴王姫亡くしているって聞いたんだけど……」
「それかぁ」
三冴の言葉は思ったよりも軽く聞こえた。想定していたのかもしれない。
「誰に聞いたの?」
返された質問に璃朱の口が思わず閉じる。脳内であの時の光景が蘇る。
「大丈夫、そいつを咎めたりしないから。まぁ烏月か狛でしょ? 赤毛と自傷とはそんな話したことないからね」
「狛から……最初に聞いた」
「最初に、ってことは、烏月にも聞いたかな?」
「うん……」
「どこまで聞いた?」
「みんな貴王姫に仕えていたの? って……そしたら烏月が」
厨内の定位置に立ち、烏月は目元の皺を濃くした。一瞬だけ視線が下がったが、ゆっくりと持ち上がり天井付近を見つめる。
問うた璃朱の方は見ず、ぽつりぽつりと唇を動かす。
『私はまだいい方です。しかし狛と三冴の喪失は計り知れないものでしょう』
憐憫ではなく、同調するように。
烏月も喪ったのだ。大切なひとを。
計り知れないほどの喪失感を今でも抱いている。
『狛はもっと表情豊かだったでしょうし……これは推測ですが、三冴は喪ったからあの姿になったのでしょう。前の貴王姫に仕えていた時は普通の男性だったと思いますよ』
「あの人、侮れないね」
控えめな嘲笑が三冴の唇からこぼれた。
「ご名答。俺は貴王姫を喪ったからこうなった」
三冴の顔から笑みが剥がれた。今まで纏っていたものを全て脱ぎ捨てたその顔は憔悴していた。
「……瑠璃姫の形をどうにか残したかった」
彼の肩が震えていた。触れて慰めたかったが、そんなことはできないと布団を掴む。
瑠璃姫はきっと真名だ。
「契りを交わした仲なのに、護れなかった」
三冴の指先がおもむろに動く。丁寧に櫛を通した髪を掻きあげながら赤い簪に触れる。
「綺麗な身体は光に溶けて、残ったのはこの簪だけだった」
璃朱の耳にりんっと簪が鳴り響く。幻聴はその存在の大きさを誇示していた。
「俺は俺の身体を使って、瑠璃姫の姿を現世に留めようとした。でも結局は俺だね。どんなに着飾っても瑠璃姫にはなれない。わかっていたさ」
「三冴……」
ゆっくりと琥珀の瞳が璃朱を捉える。
「今、また、見えた」
空虚な硝子玉に璃朱の姿が映り込んだはずだったが、その目線は合わない。
「姫ちゃんが瑠璃姫になった」
『お姫様、時々『お姉ちゃん』に見える』
いつかの狛の言葉が耳に蘇る。
『…………前の貴王姫に見える』
「何故だろう……たまに見えるんだ。姫ちゃんが瑠璃姫に」
簪に触れていた指先が璃朱に向く。
「だから誰のものにもなってほしくない。俺のものになってほしい」
「三冴……答えはごめんなさい、だよ」
璃朱の髪に触れようとした手が止まる。
「だって瑠璃姫にわたしはなれないんだもん」
言葉はしっかりとしていた。真っ直ぐ目を向けた先で、三冴は迷子のような子供の顔をしていた。
「三冴は素敵な人だよ。見た目も綺麗だし……瑠璃姫が元だって言うのなら、彼女も綺麗で素敵な人なんだね」
心の底から嘘偽りのない言葉を朗々と語る。
「でもわたしはそうなれないから。貴王姫の役割さえ逃げたわたしには」
息がつまるほどに三冴に抱きしめられた。耳元で深い溜め息が零れる。
「俺は素敵なんかじゃない。現にほら、手を出した」
「これ以上のことをしたら叫ぶけど……いいよ、これぐらいなら」
契りを交わすことも、瑠璃姫になることもできないけれど。
「だって寂しかったんだよね、悲しかったんだよね。後悔いっぱいしたよね。いいよ、泣いても。瑠璃姫の代わりに受け止めてあげる」
彼の双眸から慈雨のようにはらはらと雫が落ちる。静かに、静寂にも似た中で三冴は抱え込んだ一部を剥がしている。
優しく背を撫でると三冴は小さく震えたが、まるで安堵を得た小動物のように彼女に身体を預けた。
(今だけは、代わりになることを赦してください)
三冴の簪がまたりんっと鳴った気がした。
「あー、すっきりしたー」
朝の日差しが眩しい。その中で伸びをする三冴の姿を見ながら璃朱は微笑んだ。
昨晩は全ての涙を流しきったあと、三冴は泣き疲れて子供のように璃朱にもたれ掛かったまま寝てしまった。一人にするのも忍びないと璃朱は三冴の寝顔を見続け、また彼女も夢の中に落ちたのだった。
(まさか一晩一緒にいることになるなんて……)
「衣替えしようかな」
「どうして?」
呟かれた言葉に辺りを見回す。赤に囲まれた部屋。最初こそ鮮烈であったが、今はその色も落ち着いて見えた。
「赤は瑠璃姫が好きな色だったから」
彼の声音もまた落ち着いていた。
「すっこし未練たらしいよね。まぁ俺も赤は好きだし、もっとお洒落で映えるような感じにしよ」
「きっと三冴なら素敵な部屋になるね」
「あ、そう思う? 模様替えしたら姫ちゃんをご招待するからそのまま……」
「手を出したらその時点で今度は叫ぶから」
「きゃー、それだけは勘弁」
「……あ」
第三者の声が引き戸あたりから突然聞こえ、璃朱の動きが止まる。螺子の切れかけた機械人形のようにゆっくりと頭を動かせば、そこに驚いた猫のような表情の灯黎が立っていた。
寝台に二人で寝ているところを見られた。
灯黎の顔は完全に誤解しているそれだった。
「ちょっと、いい雰囲気だったのに」
「烏月が飯だって……お前ら……」
「二人ともきっちり服着てるでしょ!?」
璃朱は三冴と自分を交互に指差し弁明を図ったが、三冴は笑って肩の露出を多くする。ほら誤解しろと言わんばかりだ。
(ちょっとやめてよ!)
「あ、そうだ。灯黎ぃ」
三冴は嫌な笑みを唐突に浮かべて直立の灯黎を手招きする。が、彼はこれ以上関わりたくないと脱兎の如く逃げ出した。
「ちょっとぉ」
三冴がねっとりとした声を出すが、その動きは俊敏で軽い身のこなしでその背を追う。
二人の背が扉の向こうに消えた直後、何かが倒れる音がした。
「何で飛び蹴りなんかする!」
灯黎の怒声がいまだに寝台の上にいる璃朱まで届く。
「逃げたからでしょ」
対して三冴の声はどこか楽しんでいる。
「そういえばー、あんたのこと殴っていいんだよね?」
「今の飛び蹴りで十分だろ……あ、痛い……脇腹の傷開いたかも……」
「それは自業自得でしょ。許してやるからちょっと歯食いしばってね」
(ああ、どうか酷いことになりませんように……)
その日の朝餉で目の前の座る灯黎の左頬は痣になっていた――
箱庭の貴王姫 紅藤あらん @soukialan
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