8 聲
「ごめんね」
呟いた声は自分が想像したより小さいものだった。
言われた相手は布団の中で身じろぎして、紅玉の瞳だけをこちらに向けた。
「……案外早いものだな」
狛に勇気づけられ頑張ろうとしたが、それでもこの部屋に赴くまで時間がかかった。それでも灯黎にとっては想定より早い訪問だったらしい。もう来ないとも思ったのかもしれない。
「ちょっと落ち着いたから」
その場にすとんと座り込む。
改めて部屋の状況をみると、予想以上に被害は深刻だった。この部屋に水は禁忌のようなものだ。
(本にもだいぶかかっちゃった)
寝てはいるが布団もそのままじゃないかと指先で触れれば、じわりと湿り気が感じられた。
「その……とりあえず布団買える?」
「あんたはそんなことを言うために来たんじゃないだろう」
頭を振りながら灯黎は身体を起こす。紅玉の瞳は相変わらず鋭かったが、その中に哀愁をみた。
璃朱は一度目を閉じて目線を外す。一呼吸おいて、瞳を見開くと意志を込めて灯黎を見た。
視線が一瞬だけ交差する。しかしそれは灯黎によって外され、彼は顔を璃朱の身体に埋めた。
「灯黎!? 大丈夫!?」
「身体は平気だ……どうせ自分で付けた傷だ」
息が詰まる。三冴が言っていたことは間違いではなかった。
「もう少しこのままでいいか」
「……うん」
頭を撫でると彼の唇から深い溜め息がこぼれた。
「本当に……ずっとこのままでいたい。何故おれは戦地に行かないといけない……」
「灯黎……」
「おれのこと、おかしな奴だと思っただろ?」
自嘲じみた笑い声が虚しく璃朱の耳に届く。
「自ら合戦をしろと言った奴がやりたくないなど」
疲弊した心が言葉となり吐露する。
「……引っ掻きまわすのはもう疲れる」
「なんでそんなことするの? 灯黎だって放棄して本を読んでいればいいのに」
「声が聞こえる」
想定外の返答によぎったのは予知夢のこと。同じような能力だろうか。
「『姫取合戦を滞らせるな、やれ』。そんな声が脳髄に響く。おれは狂っているんだ」
そんな声で、言葉で、笑わないで。
「……それって二重人格的なもの?」
「さあな……」
声に覇気がない。埋められた顔は璃朱から見えなかったが、それでも空虚であろう。
璃朱は灯黎の袖をぎゅっと掴んだ。
わたしはここにいる。
だから貴方も消えないで。
「無視をしようとすると責め立てる声はどんどん脳内を侵食していく」
己の秘密を璃朱に開示する。淡々と。
「何か起こしたあとしばらくは消えないから最早引っ掻き回すことは鎮痛剤代わりだな」
いろんなところを転々として、他者から爪弾き物にされていた。その事実が今更璃朱に突き刺さる。そうならざるを得なかったのだ。
「痛かった……何やっているんだろうって刺した直後に思った」
灯黎の指先が腹部を撫でる。死の道に行こうとしていたのではない。引っ張られたのだ。
「もうあの声は聞きたくない……それでもまたしばらくしたら支配が始まっておれは暴れだすだろな」
「その時はわたしが止めるよ。水をひっかけても、頬を引っ叩いても」
貴方を死の道へ誘う何者かからわたしは救ってみせる。
無力なのかもしれない。それでも、予知夢を見て璃朱は決めた。彼らを一人として失わない。灯黎と出会ったのもきっとそのためなのだ。そう今は考えていたい。
灯黎の傷口を労わるように、頭をまたひと撫でする。
「…………ぜひ、そうしてくれ……」
その頭部がゆっくりと動いて、灯黎の表情がやっと見えた。彼の瞳はすぐに璃朱から離れ、本の影に注がれる。
「……他の奴らも死なない程度にそうしてくれて構わないぞ」
その視線を辿ると本棚に隠れるように、または寄り添うように各々の恰好で仲間達が勢ぞろいしていた。
「い、いつから!?」
気恥ずかしさに思わず灯黎から身体を離そうとしたが、相手が自傷といえども病人だったため、無下に扱うのも気が引け中途半端な形で固まる。そんな璃朱を思ってか、呻き声を洩らしながら灯黎から身体を離した。
「声のくだりあたりですかな」
烏月が穏やかな声で璃朱に返答する。隣で本棚に寄りかかっている三冴は今すぐにでもまた殴り掛かりそうな気配を纏っていたが、璃朱の手前どうにか耐えていた。
「ぼくが全員引っ張ってきた。こういう時は全員でいたほうがいいかなって。本の中でもよくあるし」
狛は駄目になってしまった本を一冊拾う。それは合戦とは関係ない物語だった。
「見事なまでにやっちゃってるな、これは買い直しだな。ついでだから春画混ぜてやるよ」
狛の小さな頭に肘をおいて、七瀬はふざけながらその背表紙に触れる。その指先が優しいことに璃朱はちゃんと気が付くことができた。
璃朱の隣で軽い笑い声が漏れる。
「とうとう自分で持っていることを公言したな」
「誰も持っているとまでは言っていないだろ」
「持っていないともお前の口からは聞いたことがない」
「魚の入った水ぶっかけるぞごらぁ」
「それはこいつの専売特許だろう」
「ちょっとわたしのこと指差さないで! ……あの時はごめんなさいって」
軽快な七瀬と灯黎の小競り合いにいつもの雰囲気が戻ってくる。頭に肘をおかれたままの狛は眉間に皺を寄せ、今すぐにでも七瀬に報酬をくれてやろうと画策している。烏月はそんな彼らの姿を見て、年長者としての優しい傍観の瞳をしていた。
そんな中、一人だけ、薄い膜に覆われた人物がいた。いつもの雰囲気で呆れて肩をすくめる彼。その化粧に縁どられた瞳が細められる。
「あーあー、姫ちゃんまた泣きそう」
くすりと笑みをこぼしながら彼は踵を返す。
「姫ちゃんに危害加えそうだったら紛れてぼこぼこにしてやろうと思ったのに残念」
三冴はそれだけ言って一人部屋から出ていく。
「あ、ちょっと……灯黎ごめんね、ちょっと出てくるね」
「……あいつには一発ぐらいなら殴ってもいいぞ、と言っていたって伝えてくれ」
「…………分かった」
誰も雰囲気を察して璃朱のあとは追わなかった。灯黎には璃朱が必要だったように彼もまた必要であるのは璃朱なのかもしれない。
そう自身に言い聞かせて、その背に声を掛ける。
「三冴!」
「……姫ちゃん、姫様命令使って。灯黎を赦してって言って……じゃないとまだあいつの発言許せそうにない」
三冴が拳を握る。背を向けられたまま表情は見えず、怒っているとも泣いているとも感じ取れた。
一呼吸おいて振り返った三冴の顔はやはりいつもの笑みを浮かべていたが、その瞳にはありありと陰りがあった。
「この外見をもって、こんなこと言うの本当に女々しいと思うけど……今はどうしても姫ちゃんにすがりたくなるんだ」
「……使いたくない」
「そっかぁ、残念」
三冴は目を伏せる。その顔は灯黎との距離を置くという意思表示にもとれた。
璃朱は思わずその服を掴む。
「どうしたのかな、姫ちゃん」
「ごめんね」
「どうして? 姫ちゃんが謝ることじゃないでしょ」
「戦うこともできないし、守ることもできないから」
「そんなことないよ。姫ちゃんが最初に戦うって言っていたらこんない関係は築けていないと思うよ」
三冴は璃朱の手をとって、自分の心臓に当てる。彼の心音はこんな状況ながらとても穏やかだった。
「姫ちゃんは俺達の心音を守ってくれているでしょ」
「なんで……そんなこと分かるの……」
誰にも籠城の意味を教えてはいないのに。あの予知夢は璃朱の胸中にしかないはずなのに。
言葉にしてから慌てて口を押える。
三冴は疑問符が浮かぶ驚いた表情をしたが、ゆっくりと柔和した表情に変化する。
「姫ちゃんのことならお見通し……と言っても、分からないこともあるけどね。でもそれは俺達も一緒でしょ? 誰も何も分からない。誰も語ろうとはしない。灯黎だってそう……だよね?」
「うん……」
「あいつのことは許さないと思うけど……あ、姫様命令を使えば一発だけどね。やっぱり使わないよね」
「うん。何度聞いても私の答えは変わらないよ。誰かの感情を支配したような命令は下したくない。これは三冴と灯黎の問題だから」
「ほんと優しい。俺も姫ちゃんみたいに強かったら、灯黎のこと、許せたよね」
「灯黎が一発なら殴っていいって」
「一発かぁ。それで俺の気持ちが晴れるかな。まぁ渾身の一撃を浴びせればいいか。あの綺麗な顔だいぶ腫れるね」
「……お手柔らかに、なんて聞かないよね?」
「姫ちゃん命令ならいいよ」
「…………」
「まぁ……姫ちゃんを泣かせるほどはしないよ。多分ね」
髪を指で梳かれる。その綺麗な指先が再び璃朱の頭に触れようとして、彼女はやんわりと押しのけた。
優しくされるのはまだいい。でも優しくされ過ぎるのはここではよくない。
(わたしは誰かに甘えたいわけじゃない)
姫扱いされたいわけじゃない。お人形になる予定もない。
先ほど触れた三冴の心音を思い出す。わたしは、この音を止めないためにきっと現れた。そして傷を知った。大切にしたい絆を知った。
三冴は笑って、その手を自分の元へと戻す。
責めもしない、予知夢のことも聞かない、三冴はどこまでも優しい人だった。
(わたしはずるいな……)
ぎゅっと唇をかみしめる。
(ちゃんと言える時がきたら、きっと伝えるから)
みんなを守りきった日にはまた五人で笑い合いたい。
「灯黎の件は俺がちゃんと決着をつけるわ」
三冴は璃朱から数歩距離を置き、そうこぼす。璃朱の髪を梳いた指先を唇にあて小首を傾げる。
「それから姫ちゃんとの件もどうにかしたいな。俺、まだあの時の返事聞いてないよね?」
「……今、返事ほしい……?」
「ほしいって言いたいところでもあるけど……ちょっと時間空けてもらってもいいかな?」
「分かった。わたしもあとで三冴に質問していい?」
「いいよ。ちゃんと整理して待ってる」
ばいばいと手を振って、三冴は背を向ける。
その女性ものの衣が消えるまで、璃朱は目線を逸らさなかった。
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