7 幼子の告白
三人から逃げ出したところで城の外に行くことは躊躇われた。それでも自室もいつも仲良く食卓を囲む大広間も行きたくはない。
駆けた脚はやがてゆっくりとなり、止まった。
風が短い草を揺らしている。裏庭はほどよく日陰になっており、今の璃朱に丁度良かった。
ぼんやりとしたままその場にしゃがみ込む。今頃三人はどうなっているのだろうと一瞬頭に過ったが、璃朱はすぐさまそれを頭から追い払った。
思考を停止したまま、時間だけが過ぎていく。
草を踏む音が聞こえた。
彼らには姫様命令を下している。だから来るはずはなく、効力がないものだとしてもあの状態で来るとも考え難いものだった。
(軽い足音)
「ここ、いい?」
頭を上げれば、想定した人物が立っていた。狛は璃朱の隣を指差す。
璃朱がこくりと頷くと、狛はちまりとその場に収まった。感情の薄い瞳が璃朱を覗きこむ。
「ぼくはみんなに言われたから来たわけじゃないよ」
「…………うん」
狛の手が璃朱の頬に触れる。
「お姫様、泣いている……ように見えたから」
触れているのを人差し指だけにする。もう片方の手も人差し指だけぴんと立て、両手を同じ形にすると璃朱の口角を上げた。
「笑って」
「……できないよ」
「そう……だよね……」
狛は指先を璃朱の頬から離すと、手を袖に隠した。
「もう少しだけ待って、そしたら笑うから」
「無理、しないで」
狛の大きな瞳が伏せ目がちに閉じられる。
「笑いたくなかったら笑わなくていい……でも、いつか見せてね」
まるで何かを思い出すかのように、声を絞り出して狛は言う。
「…………立場が逆だね」
それは誰かに語り掛けるかのような独り言だった。
璃朱の腕が自然と狛の頭を抱きしめる。狛はその腕の中に静かに収まった。
その頭が、淡々と言葉を紡ぐ。
「お姫様……お姉ちゃんみたい」
「お姉ちゃん……?」
「お姫様、時々『お姉ちゃん』に見える」
狛の言葉が途切れ、世界が静寂に包まれる。たった数秒がまるで璃朱には長く感じ、同時に動けなくもなった。
狛は呼吸音もなく、また温度もなく、いつもの調子で言った。
「……前の貴王姫様に見える」
息が詰まるとは多分こういうこと。璃朱の驚きは狛に伝わっているだろうが、彼は語ることを止めなかった。
言うべき時だったのかもしれない。
「多分、ぼくだけじゃない。三冴もそう……烏月も多分何かを感じてる。灯黎と七瀬はよく分からないけど」
また一瞬だけ言葉が途切れる。腕の中で狛の浅い吐息を感じた。軽いはずなのに、重くて深いその吐息は璃朱の心臓を優しく締め付けた。
「みんな、それぞれに貴王姫様……喪ってるから」
「無理して言わなくていいよ」
狛は腕の中で首を横に振る。そっと人差し指で自身の口角を上げた。
「これ、お姉ちゃんもやってくれたんだ」
淡々としている狛の声色が静かに震え始める。
「その時、まるでお姉ちゃんが帰ってきたみたいで……その前から懐かしいなって思ってたけど、あの時はお姫様に被ってお姉ちゃんが見えた」
狛の手が璃朱の服を掴む。その力強さに狛の激情を璃朱は肌で感じた。
彼がいやいやと頭を振る。小さな体に受けた事実の喪失。頭を強く抱くことも撫でることすらできない。
「……ぼく、もう喪いたくない。姫取合戦なんてやりたくない!」
懇願は初めて見る心からの悲鳴でもあった。
「わたしもだよ。わたしも……みんなに会ったばかりみたいなものだけど、喪いたくないよ」
(わたしのは空想に近いけど、みんなは目の前で喪った)
喪失は自分と比べ物にならないのは狛を見れば明確だった。それでももう同じことを繰り返したくない気持ちは痛いほど分かる。
「多分、灯黎以外は姫取合戦なんて嫌だと思う」
「灯黎を説得できれば……・」
「どうだろう、灯黎は合戦を引っ搔きまわしていたから」
「どういうこと?」
発露した激情によって逆に落ち着いたのか、狛がゆっくりと璃朱から頭を離す。同じ目線になって、紅い眼の彼を思い浮かべながら語る。
「ぼくはこんなだし、お姉ちゃんも弟として傍に置きたかったみたいだから、あまり合戦には出たことがないんだけど……灯黎っていろんなところで自陣を混乱させたり、言うことを聞かないで暴走したりとか、繰り返していたらしい。だからどこの陣からも爪弾きにされてここに来た……みたい」
今回の自傷事件はまだまだ序の口なのかもしれない。
姫取合戦を迫る灯黎の言葉が脳裏をよぎる。何をしたいのだろう、彼は。
「詳しくは知らないけど」
「灯黎だけは喪ってないんだね」
「多分…………他のみんなは陣が違うから詳しくは知らないけど……でも烏月から自分と三冴は姫取合戦で敗北した者だ、ってひっそりと聞いた」
静かな大広間で蹲る。ぽっかりと空いてしまった穴は埋められそうにもない。
『だから狛も泣いていいですぞ』
流れ着いた場所にいた男はそう優しく言って狛の頭を撫でて受け止めた。
どうしようもなくちっぽけな自分。泣くことしかできなかった。
烏月も泣きたかったであろう。その眉を顰めて、亡くした者に慟哭すればどれほど楽であろう。
それでも彼は泣かなかった。泣くことは小さい者のみに許されたことのように狛の頭を撫でるだけだった。
「だから、ぼくは誰も喪いたくない。喪わせないって誓った」
あんな惨めでちっぽけな自分はあの時だけで充分だ。
凛とした瞳が璃朱を離れ、彼女の向こうに広がる世界に向けられる。璃朱は頷く。
「ありがとう、話してくれて」
世界が彩度を取り戻したように清々しい。
「狛にお願いがあるの」
「なに?」
「わたしの頬を引っ叩いてくれる?」
「え!?」
「さっきみんなに水をかけちゃったから……おあいこにしたくて」
「お姫様は悪くないと思う」
「確かにそうかもしれない。でも気合を入れて前に進みたいの」
貴方が目を向けた世界に自分も目を逸らさないように。待っているのは悲劇かもしれない。でもそれに屈しないために今を生きているんだ。
だから、一人ひとりの傷にも目を向けなければいけない。
「灯黎と話をしないと」
逃げ出すのは今回かぎりだ。
見据えた先に狛の大きな瞳がある。彼はゆっくりと手を挙げて、自身を落ち着かせるように息を吐き出す。
璃朱は目を瞑らなかった。どんな痛みでも今は耐えられる。
あの悲劇を回避できるのなら。
狛の手から繰り出されたのは、微かな叩く音のみだった。
「優しいね」
「お姫様を本気では叩けないよ。お姉ちゃんも見えるのに」
「わたしのこと、お姉ちゃんって呼んでもいいんだよ」
狛は瞳を見開いて、一呼吸置いたあと、首を横に振った。
「できないか……」
「お姉ちゃんはお姉ちゃんで、お姫様はお姫様だから」
「そうだね。元気ありがとう。行ってくるよ」
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