6 狂者の宴

 昼下がりの廊下は温もりがあったが、静寂が場を満たし璃朱には寒々しく見えた。その一角の引き戸の前で、璃朱は考えあぐねいていた。

 この奥にいる人物が今、どのような状態なのか知りたいとともに、また拒絶させるのではないかと思うと何もできずにいた。

 溜め息に似た深呼吸をひとつ。

「灯黎、入るよ」

 返答は、ない。

 引き戸に手を掛ける。もう一度呼吸をしてから璃朱はその戸を開いた。

 あの日のように本が目に飛び込んでくる。

 その奥で、灯黎は固く目を閉じ布団に横たわっていた。胸が上下に動いているところをみると、安静に寝ているようだ。

 隠れて見えない脇腹は、烏月の治療によって化膿せずに済んだが、しばらくは安静が絶対だった。

「早く、良くなってね……」

 璃朱の指先が灯黎の頬に触れる。彼は猫のようにその指先にすり寄ってきた。

「なんで……他の城の偵察なんて……」

 璃朱の呟きは紙の束に吸い込まれるだけで、返答はない。すり寄ってきた頬も自然と離れ、璃朱の指先に微かな温度を残すだけだった。

「わたしはここでみんなと居られるだけでいいのに」




「灯黎の傷、どう思う?」

 大広間で寝ていた七瀬の許で三冴は開口一番そう言った。

「なんだよ。なんで俺に聞くんだよ」

 他には誰もいない。三冴は七瀬が単独なのを狙ってきたようだ。

「この話、聞かせるのなら七瀬かなって」

 三冴はまるで告白するか否か考えている少女のように手を後ろで組み、七瀬に背を向ける。そのいじらしい姿を璃朱がすれば可愛らしいものだろうが、筋肉質の男にされても苛立ちしか沸き上がらなかった。

「もったいぶらずに言えよ」

 眉間に皺を寄せたまま七瀬は上体を起こす。

 三冴は振り返り、くすりと笑った。

「まぁ本音を言えば、俺は誰かに手当てをさせて、傷の具合とかを観察したかったんだけどね」

「悪趣味だな」

「そういう意味じゃない」

 三冴が身体ごと七瀬に向き直る。顔はやはり微妙な笑みを浮かべたまま小首を傾げた。

「あの時は烏月が来てくれて助かったよ。部屋に春画隠している赤毛は頼りなかったし」

「喧嘩吹っ掛けたいだけなら、今すぐ消えるぞ」

「冗談、冗談」

 ふっと、三冴の顔から笑みが消える。能面のような無機質さで口元だけが動く。

「ここからは真面目な話。灯黎あいつの怪我、本音どう思う?」

 何の返答を待っているのだ。

 七瀬は頭を回転させたが、結局思ったことをそのまま口にした。

「どうって……大事なくてよかった、か?」

「七瀬は優しいね」

 またあの微妙な笑み。しかしそれは一瞬で、無表情にすり替わる。

「なんだよ。何があるって言うんだよ」

 七瀬は胡乱げな瞳で三冴の言葉を待った。

 彼の返答は言葉ではなかった。ずっと組んでいた手を拳に変え、連ねて何かを持つ仕草をする。そして、そのまま自身の腹部に振り下ろした。

「なっ……!」

「どういう意味か分かる?」

 拳を当てている位置は――灯黎の負傷個所と寸分違わない。

「……あいつが自分で怪我をした!?」

「俺はそういう見解をしているよ。実際、狛の短剣が一本行方不明だしね。自分の柳葉刀じゃばれると思ったのかな? 同じ型の短刀も見せてもらったけど、多分当たりだと思う」

 三冴は両手の人差し指で見せてもらった短刀を形作る。稀にしか見る機会はなかったが、七瀬の脳裏にもその短刀はしっかりと実像を結んだ。

 三冴は露骨に溜め息を吐いて、両手をすとんと落とす。

「大体にして偵察で怪我を負ったって言うのがおかしい。どんだけ隠れるの下手なの? それに腹部のあの位置なんて、飛んできたとしても避けられるでしょ」

「……お前、私情入ってないか?」

「さぁ」

「めんどくせ……」

(確かに飛んできたって言ったが……)

 何故、自ら怪我をする必要がある?

(ただ痛ぇだけじゃねぇか)

「姫取合戦をしない貴王姫は存在する意味がない」

 七瀬の思考が急激に現実へ戻され、冷めた言葉を発した男の口元に注がれた。声色と同じくそこにも冷え冷えとした感情がのっぺりと張り付いている。

「ってあいつは言ったんだよ。それも姫ちゃん本人に向かって」

「……っ!」

 姫取合戦をしないという選択に最初に賛同したのは七瀬だ。それがいいと思ったのだ。

 脳裏に浮かんだ情景を爪を立てるように掻き消す。

 璃朱は切実に訴えていた。誰も死んでほしくはないのだ、と。

 その願いを灯黎は真正面から否定した。

「俺の見解その二。灯黎は姫ちゃんの報復心を煽りたいんじゃないかな」

 姫取合戦をさせるために。

 意味が分からなかった。七瀬は浅く息を吐き出して、大広間の奥を見つめる。

「その本人は自傷野郎の看病……っと」

「ほっんと、むかつくよね」




「あ、無理に身体起こさなくていいよ」

 導線を確保するために床に積まれていた本を避けていると、背後で人の動く気配がした。慌てて駆け寄り璃朱はその身体を手で押しとどめようとしたが、灯黎はそれ以上の力でそれを跳ね除けた。頭をゆっくりと振り、布団の上でぼんやりと座り込む。

「身体大丈夫……な訳ないよね……あ、何か飲み物持ってこようか」

 立ち上がり背を向けた璃朱の腕を灯黎は掴んだ。

「ん? なにかあった?」

 彼の顔を覗きこもうとして振り返った、瞬間視界が揺らいだ。

「え、ちょっ、ちょっと!?」

 外傷といえど病人とは思えぬ力で引っ張られ、璃朱は灯黎に覆いかぶさるように体勢を崩した。

 間近に紅玉の瞳があった。

 その瞳は笑ってはいない。

「お前は」

 灯黎の低い声音。それを遮るようにさらに低い声が割り込んできた。

「はーい、やめてくださいー」

 その声の主が引き戸の前にいることに、璃朱は声を聞くまで気が付かなかった。瞳を黒白させ、その声の主を見やる。

 三冴の顔は怒りに満ちていたが、歪んではいなかった。その冷めきった表情に場の空気が一気に張り詰める。

「病人だからって姫ちゃんを襲っていい口実にはなりませんよー」

 襲われてなんて、そう弁明しようとしたが喉が張り付いてうまく言葉にならない。灯黎は沈黙し、ひりついた目で三冴を見ていた。

「さっさとその手、離そうか」

「言いたいことがあったから引き留めただけだ。誤解するな」

「言いたいことって……姫取合戦やれとかでしょ」

 三冴の足が積み上がった本達を無視して、室内へと侵入する。崩れた本は三冴の足元に散らばったが、彼はただただ射殺さんばかりの視線で灯黎を睨みつけた。

「姫ちゃん、そいつ危ないから離れたほうがいいよ。自分に刃物立てる奴だから」

「えっ!?」

「どこからそんな出まかせを」

「勘。でもほぼ当たりだと思うけど。あとはあんたから狛の短刀が出てくれば大当たり」

「そんな物は出てこない」

「じゃあ棄てたのかな?」

 二人を見下ろした三冴は怒気に満ちており、手を伸ばせば届くと同時に傷つける代物になっていた。それでも灯黎は引かず、まるで挑発するかのような胡乱げな瞳を向けている。

「とにかく苛々するからさっさと姫ちゃんから離れてくれないかな」

「何に怒っているんだか」

「あんたの存在全般?」

「女の幻影で自分の存在をぼやかしているお前に言われたくはない」

 途端。

 張り詰めた空気が一気に爆発したかの如く、璃朱の身体は突き飛ばされ床に転がった。

 目の前には灯黎の胸倉を掴んだ三冴がいる。冷めきっていた顔は今までに見たことがないほど怒りに歪んでいた。

「それ以上何も喋るな」

 低すぎる声色は聞いたものを恐怖で強張らせるものだった。

璃朱こいつに聞かれたくない話か?」

 それなのに灯黎の口角は上がっていた。まるでその姿が滑稽だと言わんばかりに嘲笑を張り付けて、紅玉で三冴を射貫く。

「恐ろしくなったか、腑抜けた連中だ。姫取合戦は絶対にしなればいけない」

「狂ってる」

「どっちがだ」

「やめてってば!」

「お前ら何やってんだよ!」

 璃朱の悲鳴に七瀬が飛び込んでくる。今にでも殴り掛かりそうな三冴を引き剥がそうとするその姿に、灯黎の頬はさらに歪んだ笑みを形作った。

「お前が一番臆病だな」

「なんだよ」

「触れられないくせに」

「なっ……!」

「お前らの素性は大体知りえているつもりだ」

「だったらなんだって言うんだよ!」

 三冴を止める手を緩めることはなかったが、それでも彼の後ろで七瀬は怒声を上げる。

 怒りが場を支配している。その中でも灯黎の顔は、笑ったままだった。壊れた人形だった。

「こいつは戦闘狂みたいなものだがら、多分殴らなきゃ収まらない」

「収まらないのはお前だろ。そんなに亡霊のことは触れてはいけない話か。自分自身では大々的に話しているような装いなのに」

「何を……七瀬離せ! 貴王姫を」

「貴王姫の話すんじゃねぇよ!」

「お前らが憑りつかれているように、おれも憑りつかれているんだ。どいつもこいつもおかしいのは一緒」

「いい加減にして!!!!」

 水がぶちまかれる音とともに三人の怒声が一瞬して止まる。互いが雫を至る所から零して立ち竦んだ。

 灯黎が犬のように頭を軽く振る。その顔には嘲笑はなかった。

 三人の目が桶を小脇に抱えた璃朱を捉えた。

「みんな黙って」

 上がった息は重たい水をもってきただけではないことを、璃朱は頭の片隅で理解しているつもりだった。

 拭わず水滴を滴らせ黙っている彼らに背を向ける。

「姫様命令発動します。全員ついて来ないで」

 仲良くはいお終い、なんてできないことは解っていた。誰も彼も触れてはいけないところに爪を立てた。

(わたしは何も知らない)

 貴方達の真意も、真実も。

 踏み込むことはできず、璃朱はその場から逃げ出した。

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