5 朱

「ねぇ、烏月」

「なんでしょう?」

 とうとうあの厨の鬼の烏月が折れた。

 何度も家事をさせろー、と厨の入り口で座り込み続けやっと許可が下りた。豆をさやから取り出す地味な作業だが、それだけで嬉しい。

 ぷちぷちと豆を出しながら、璃朱は何気なさを装って烏月に問うた。

「貴王姫の真名を呼べるのは、契りを交わした者だけって聞いたんだけど……」

「確かにそんな話も聞きますが、どうしましたか?」

(あの話って出まかせじゃないんだ)

 灯黎の拒絶、三冴の告白から何日か経過したが、城の内部はいたって普通に見えた。もしかしたら水面下ではひりついた空気が蔓延しているかもしれないが、ご飯を一緒に食べ、普通に会話をしているところも見ている。それに璃朱自身もあのことはないように振る舞った。

 灯黎との関係は良好……とは言えないが、彼とも会話は普通にしている。

 三冴も告白してきたが返答を催促してくる気配はない。それに甘えて璃朱は答えを先延ばしにしていた。

「えっと……みんな璃朱って呼んでくれないなーって」

「恐れ多い! 私は姫様で十分です!」

(みんなもそんな気持ちなのかな……)

 少なくとも三冴は許可を出さない限り、真名で呼ぶことはないだろう――それは恋人として彼を受け入れるということなのだが。他の者達もこのことを知っていて、わざと『璃朱』と読んでいないのなら……。

 璃朱の頬が瞬間的に熱くなる。それは自身が赤くなっていると自覚できるほどだった。

(こいつが恋人ですって言ってるものじゃない!)

 何で今まで気づかなかったのだろうと頭を抱えたくなる。

「大丈夫ですか、姫様?」

「う、うん」

 動揺しすぎて前を指先で潰してしまった。

(三冴は嬉々として真名で呼び始めるよね)

 場合によっては『俺はこれから璃朱ちゃんって呼びまーす』と宣言しだすとも限らない。

(というより絶対するよね)

 笑顔で仲間達に流布する三冴の姿が鮮明に浮かぶ。

 その幻想を頭を振って消し、豆で山盛りになったざるを手に取った。

「全部終わったよ」

「ありがとうございます」

「それにしてもいつもみんな分、一人で作っちゃうなんてすごいよね」

「そんなことはございません。皆にも手伝ってもらうことはございます」

「ふーん、みんなに、ね」

 露骨に声を低くして、ジト目で烏月を見つめる。彼の顔にやらかしたの文字が浮かぶ。

「姫様」

「みんなにかー、そうなんだねー、わたしは含まれないかー」

 演技にしては実に拙いが、それでも烏月に言い聞かせるように璃朱は言葉を重ねる。

 笑顔ながら烏月の頬が痙攣する。やがて観念して、烏月の口から細い息が漏れた。

「姫様、今度から一緒にやりましょうか」

(よし)

 陰で拳を天に突き上げる。これで自分の存在意義はひとつ確保できた。

(三冴に作ってもらわなくてもいいもん)

 豆の入ったざるを烏月に渡す。

(でも、いつかは返信しなきゃだよね……)

 簡単には断れない。

 でも安易に恋人になってしまってもいけない気がする。

(三冴とだったら楽しいかもしれないけど)

「……味噌が案外ないですな」

 思考に割り込んできた呟きに振り返ると、足下の戸棚を覗きこんだ烏月がいた。

「それに魚も買いにいかないと」

「そういえば食材ってどうしているの?」

 背後から飛びついてきた璃朱に烏月はたじろぐ。

「さっき買いに、って聞こえたけど」

「姫様?」

「食材も調達も手伝いの一部だよね?」

「…………姫様は台所周りだけで」

「食材調達も手伝いのひとつですよねー?」

「………………はい」




(外に出られるなんて、楽しみ)

 窓の外を覗いても、森と空ばかりで、その向こうがどうなっているのかは知らなかった。貴王姫が安易に外に出ることは咎められることかもしれないが、外の空気を吸いたかったこともあり、璃朱の気分は有頂天だった。

「あれ?」

 浮ついた気持ちで廊下を歩いていると、戸の開いた部屋からひっきりなしに物音がした。顔を覗けば、狛が物をひっくり返している。

「狛、どうしたの?」

「……短刀が、一本足りない……」

 微かに呟かれた言葉は、反射に近かったのだろう。顔を璃朱に向けることはなく、また小物を避けてはその裏を覗く。

「姫様―、準備ができましたぞ」

 玄関の方から烏月が璃朱を呼ぶ。

「ちょっと待ってて! 今行きます!」

 そう烏月に応えながらも足は室内へと向かう。小さい頭越しに、彼の手元を覗きこみながら璃朱は声を掛けた。

「さっきから探しているの?」

「うん……一刻ぐらい」

「いったん探すのをやめてみたら?」

 失くしたのが短刀なのは気になるが、そんなに探しても見つからないとなると、そのままずっと見つからないのではないかと思う。それならいっそ、時間を置いてもいいのかもしれない。案外どうでもいい時にひょっこり出てくるものだ。

「そうだ」

 回り込んで璃朱は狛の手をとる。

「これから烏月と買い出しなんだけど、狛も一緒に行こう?」

「お姫様、お外出るの?」

「うん。狛も一緒だったら楽しいだろうな。それに護衛が増えて安心だし」

 後半の言葉に狛はこくりと頷き、端にまとめて置かれていた短刀を袖に仕舞った。

(さっき五本ぐらい仕舞ったよね? それで足りないって……)

「姫様、こちらでしたか」

 なかなか来ない璃朱に何かあったのではないかと思った烏月が戸から顔を出す。

「狛も一緒に行くって!」

 安堵に柔和した烏月の顔を見つめながら、璃朱は狛の手を握り直す。顔は見ていなかったが、手のひら越しから彼がこくこくと頷くのを感じ取って璃朱の顔が自然と緩んだ。




「わー、すごーい!」

「それはようございました。が、あまりきょろきょろし過ぎないでくださいませ。姫様と露顕しましたら……」

 烏月に耳元で囁かれ、力強く頷く。

 貴王姫とばれたら危険なことは重々承知している。両脇に心強い味方を携えているが、それでも争いになることだけは回避したい。

 狛も警戒心からではなく物珍しさにきょろきょろとしていたが、その手はしっかりと握られていた。

「烏月さんいらっしゃい」

 先頭を歩いていた烏月が迷いなく一軒の露店の前で立ち止まる。人懐っこい笑みを浮かべた初老の店主は、烏月を見、そして背後にいる璃朱と狛を見つめると目を丸くした。

「おや? あんたってお父さんだったんかい!?」

 馴染みの魚屋の旦那の言葉に吹き出したのは狛だった。感情をあまり露出しない彼だからこそ、璃朱の頬も思わす誘発されて緩んでしまう。

 肩を震わせている二人の前で狼狽えている烏月は、可哀想ながらも面白いものであった。

「……お父さん」

 狛の呟きに烏月はこれ以上ないほど情けない表情を浮かべる。

「いや、あの、違う……」

 この子は貴王姫なんです、など告げられず、烏月は弁明をどうするべきかと考えあぐねている間に、璃朱の中でひとつの名案が浮かんだ。狼狽する烏月の腕に自身の腕を絡め、人当たりのいい笑みを店主に向ける。

「そうなんですー、でもお父さん過保護で全然料理させてくれなかったんですよ」

 声が震えてしまったが、それでも魚屋の勘違いに便乗する。貴王姫とばれないことにも一役買うだろう。

 それに今の状態ならこれからもお手伝いが沢山できる約束もできる。

(ちょっとずるいけどね)

 でも今日やっと一緒にできて、買い物にも連れてきてもらえてわたし嬉しくて」

「食べっぷりが凄いとは聞いていたが、まさか娘までいるなんて。可愛いのは分かるが、過保護はよくない」

「ですよねー」

「あ、ひ……いや、あの……」

「お父さん、ぼく鯛が食べたい」

「うっ……」

「坊や、目利きがいいね。この鯛は上物だよ。食べたらほっぺが落ちるかもしれないね」

「うっ……ぐっ……」

 鯛なんて高いものを買う予定はなかっただろう。烏月のお財布の中身がごりごりと削られているのは、璃朱の目からも分かった。

(あー……狛誘ったの悪かったかな。でも狛も普段は要望あまり出さないしいいかな。わたしが手伝えばいいし)

「鯛、買いましょうか」

「お父さん大好き」

 狛の棒読みじみた台詞に烏月は薄く笑う。財布を取り出しながらぽつりと言葉をこぼした。

「七瀬や灯黎が有難みも感じず、がつがつ食う未来しか見えないのですがね……」

「大所帯なんだね」

「ここにいない奴らが食いましてね」

「いつも大乱闘だよ」

「狛も遠慮しないよね」

「弱肉強食。鯛はぼくの前に置いてね」

 お姫様とは言えず、その代わりのように璃朱に目線をおくる。その目は輝いていて、璃朱はうんと頷いた。




「あの亭主さん優しいね」

「まさか鯛一匹での値段ぐらいでこんなにくれるとは思いませんでしたな。そのうちに鯛飯を握り飯にしてお返ししましょうか」

 烏月の抱える樽の中には、様々な種類の魚が鯛を取り囲むように入っていた。

「いつもこんなに買うの?」

「そうでもございませんよ。今日は手がありました故……少し甘えてしまいましな」

 魚の他にも少量の肉と城の庭では採れない野菜。それらを分担して持っている。あとは味噌を買えば終わりだった。

(あ……)

 目の端に赤がちらついて、璃朱はそちらを向く。

 半透明の金魚が棒に刺さり泳いでいた。

(綺麗)

 最近の赤といえば怖い印象だったが、これは初めて見た灯黎の瞳のように綺麗だった。

「おや、飴細工が気になりますか?」

「綺麗だなって……」

「もう少し近づいてご覧になってもよいでしょう」

 烏月に促され、食い入るように飴細工を見つめる。近くで見ると鱗まで描かれていて精巧なのがよく分かる。飴であることを忘れそうで、今すぐにでも泳いでいきそうだった。

「本当に綺麗ですね」

 きらきらとした瞳で見つめていると、金魚の向こうで作り手と目が合った。

 彼女は持っている形成途中の飴細工を璃朱の前まで持ってくると、まるでまるで魔術を使うかのように鶴を作り上げる。その繊細な指さばきに、璃朱は自然と拍手を贈っていた。

「すごいです! すごい! すごい!!」

「食べるの勿体ないね」

 狛も璃朱の隣で口をぽかんと開けながら、今できたばかりの鶴と目線を合わせる。

「ありがたい言葉だが、食べてくれるとさらに嬉しいな」

 肩で黒髪を切りそろえた女性は、低めな声でそう言いながら、作り上げた鶴を璃朱に差し出す。

 思わず手に取りそうになったが、慌ててその手を引っ込める。見上げれば烏月と目が合った。

「どうかしましたかな?」

「……その、お金……」

「勿論対価は払いますよ。この技術と貴女様の笑顔が見られたら安いものです」

 烏月は璃朱が気づかないうちに財布を取り出していた。

「何も気にせず、受け取ってくださいませ」

 促され顔を飴細工師に向けると、鶴がこてんと首を傾ける。その仕草に誘われるように指先が鶴をとった。

 しかし視線は金魚にも注がれていた。

(わたしって強欲だな……)

 言えば金魚も買ってくれるのかもしれない。さっきの鯛も璃朱が強請れば即決だっただろう。

 何故か赤に惹かれる。

 灯黎の瞳も七瀬の髪も三冴の簪もそれぞれの赤を持っている。その全てを彷彿とさせ、金魚から目が外せない。

 烏月の指がその金魚に触れる。それと隣の花も一緒に掴んで、飴細工師に硬貨を握らせた。

「素晴らしい芸をありがとうございました」

「いいや。最近では反応も薄くてね、ちょっとばかし嬉しかった」

 照れ隠しと感謝を込めて飴細工師の指先が動く。その指先から生まれた大輪の白い花は、日の光を受けて瑞々しく輝いていた。




「姫様、どの形がよろしいでしょうか?」

 誰もいなくなった山道でじっと手に持っていた鶴を見つめていると、烏月にそう声を掛けられる。彼は他二つの飴細工を璃朱に提示するように差し出していた。

「三つも……よかったの?」

「姫様のことですから、三人で一本ずつとか言い始めると思いまして、先手をとらせていただきました」

(分かってたんだ……)

 飴細工が三本でよかった、と内心では思っていた。自分一人で食べるのは嫌だし、二本になったところで烏月は狛に食べさせるだろう。甘いものが嫌いであればそれでもいい。しかし烏月は甘味すら食後に作って食べさせる男だ。どちらかといえば好きな方だろう。

「これは三人の秘密にしてはいかがでしょう」

 烏月が悪戯を思いついたとばかりに片目を閉じて微笑む。何も気にしなくていいと言っているように思えて、璃朱は頷いていた。

「うん。じゃあ、わたしその金魚がいい」

 金魚に口づけするように食べると甘い幸せな味が広がった。




「ただいまー」

「どこだよ! 予備の包帯!?」

「手伝わないから分からないんでしょ」

「お前だって分かってねぇだろうが!」

 璃朱の声は、怒声と慌ただしい足音にかき消された。

 穏やかな空気が一瞬でぴりついたものへと変わる。何か異常なことが起きているのは明確だった。

「何をしておりますかな!?」

 烏月が声を張り上げると、奥から七瀬が駆けてくる。彼がこんなに慌てているのを璃朱は見たことがない。

「灯黎が負傷して帰ってきやがった!」

「なんですと」

「俺らじゃ応急処置もままならねぇ、烏月きてくれ」

「分かりました。姫様は狛と一緒にいてください」

「灯黎は大丈夫なの!?」

 烏月の背を追って駆け出そうとした璃朱を、服を掴んで狛が制する。彼は真っ直ぐに璃朱だけを見ていた。

「とりあえず落ち着くまで部屋にいよ……。負傷って言ってたから、多分大丈夫」

 狛の大きな瞳に璃朱の青白い顔が映る。こんな状況で出しゃばっても意味がないことをその自身の顔で悟る。

 烏月が消えた廊下の先は血が舞っているようだ。

「そっちは死の道だよ……」

 今はただ、灯黎が軽傷であることを祈るしかなかった。

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