第18話 夜明けを告げる手のひら
◇◇◇
朔灯がくれた護法印が許す、わずかな時間。
そのわずかで、善の躰を。全身から立ち昇る苛烈な鬼気を見極める。
ふたつの色が絡まり、荒々しく燃え上がっていく。
妙江のときのような優しい撰糸ではとても抑えようのない、善の躰すら焼いてしまいそうな気。
倒れた沙夏の襟を茜里がつかみ、ガシャに向かって放り投げる。義姉の無事を確かめる間もなく、透緒子は地面に散らばった組紐をいくつかつかんだ。懐にしのばせておいた組紐も取り出し、全てを一度合わせて見据える。
火の気には、青の水気を。
土の気には、緑の木気を。
「透緒子さまっ!」
茜里の声に耳をたたかれて顔を上げると、大口を開けた善がすぐそこにいる。
――ああ、そうだ。本当なら、鬼とはこんなにもおそろしいものなのだ。
透緒子が喰いつかれるより早く、踏み込んできた康史郎の刀が善めがけて振るわれる。
善が軽やかに飛び退る。その左腕に茜里がしがみついた。
「兄様! だめよ!」
「せ、んりぃぃいいい!」
耳をつんざくような声は、透緒子の知る善のものとは似ても似つかない。その声ひとつで何もかも手離して逃げたくなる。
――けれど。けれど。
この鬼が居なければ。透緒子の望むあの心地悪さは、手の届かぬ幻になってしまう。
善の右手が、押さえつけていた面隠しを手放す。とうに紐の切れていたそれは、呆気なく地面に落ちた。
透緒子めがけて振りおろされた右の拳を、飛び込んできた朔灯の鞘が止める。
「透緒子どの!
「いいえ!」
彼の強い声を跳ね返し、透緒子は面隠しを拾った。
断たれた組紐に、ねじり合わせた帯締めを結びつける。元の組紐をずるりと引き抜けば、封じ布に、間に合せの帯締めが通った。
「刻射! 足を!」
康史郎の声を受けた大鴉は人型に姿を変え、善の右足をすくうように蹴りつける。同時に、善の腹に朔灯が鞘を叩き込む。
ぐらりと傾いで下がった首に、都緒子は思い切りしがみついた。
刹那。大きく開いた善の口が、透緒子の右肩に喰らいつく。
「あっ、ぐ、ぅぅ!」
焼け付くような熱さが右肩に走る。初めて知る鮮血の匂いに、めまいがしそうになる。それでも透緒子は手を伸ばした。握りしめた面隠しを、善のひたいに押し付ける。
「誰かっ……」
これを結びつけてくれ。どうか、善に届けてくれと。
透緒子の叫びを、大きな手が拾い上げた。
朔灯の両手が帯締めをつかみ、善の頭にぎっと結びつける。
「縁を結べ! 汝が誠の名、
帯締めを閃光が走り抜けた。
長く伸びていた角が急速に縮む。赤く血走っていた瞳が透きとおっていく。
「ごめん、なさい……ひどい撰糸を……」
こんなときでなければ絶対に選ばない、善の躰に毒となる組紐をあえて使った。
表情が苦痛を語る。躰から吹き上がっていた荒々しい気が、二色の帯締めに強引に抑えつけられて鎮まっていく。
荒い息が少しずつ穏やかさを取り戻すと、善の口は透緒子の肩から離れた。
封じ布が、ぱさりと善の顔を覆う。
透緒子のふらついた身体が、朔灯の両腕に抱きとめられた。右肩に心臓が移ったかのような脈動を感じる。
「なんという無茶をする」
怒りをはらんだような朔灯の声に「だって」と返す。
「託すと、言われたから」
朔灯の眉間にきつくしわが寄る。
じり、と砂利を踏む音をたてて、善が地にひざをついた。
「悪かった、お嬢さん」
いつもより穏やかな善の声に、透緒子はほっと胸を落ち着かせた。
「私、間に合いましたか?」
「……ああ、もちろんだ」
善は透緒子の右肩に触れる寸前で手を止め、そして、堪えるように拳を握った。
「呪印にはならねえから、安心してくれ」
何のことか、すぐにはわからなかった。
あやかしが獲物につけた傷は呪印になる。それは、刻んだ主であるあやかしが討たれるまで、消えることはない。良弦が言っていたことだ。
だったら、この傷には善の印が残るはずだろうに。
朔灯が透緒子をその場に座らせ、ゆっくりと立ち上がった。
どうしてか、彼が刀を抜く。
「朔灯様?」
呼びかけると、無言の朔灯の代わりに康史郎が応じた。
「ごめんね。家門の外の人を傷つけた遣いは、処分する決まりなんだ」
朔灯の静かな顔を見上げる。ついで康史郎を見ると、困ったようなうなずきを返される。
いつの間にか茜里が側にいて、何度も面隠しの下の両目を袖で拭っている。
そうか、と理解した瞬間、身体深くに鉛を埋め込まれた気がした。
よりによって自分が。善の行く先を決めた。
余計なことをしたのだ。
透緒子が手を出さなければ。あるいは、組紐を朔灯に託せば。
何もかもが上手く行っていたかもしれないのに。
初めて何かを欲した。あの心地悪さを望んだ。その自分の強欲が。
――みんな、だめにしてしまった。
全身が急速に冷えていく。
すると、透緒子の頭を善の手がぐしゃぐしゃと撫で回した。
「ありがとなぁ。お嬢さんのおかげで、オレは遣いとして最期を迎えられる」
清々しげに破顔して、善はその場にあぐらをかいた。いつも屋敷でくつろいでいる姿そのままに、ほおづえをつき、主を見上げる。
朔灯は透緒子の目の前で、善に刀の先を向ける。
薄鈍の刀身を月光が滑り落ちた。
「あっけないもんだなぁ、主殿」
「許せよ、善」
「気にすんなぃ。妙江を頼むな」
善を見下ろす朔灯の顔は、どこまでも静かで。静かすぎて、あまりにも痛くて。
「透緒子どの。離せ」
気がつけば、透緒子の手は朔灯の軍服の袖口をきゅっとつかまえていた。
「あなたが気に病むことはひとつもない」
諭すような声がする。けれど透緒子はゆるゆると首を振った。
頭に浮かべた組玉が、掛けた糸をほつれさせたまま、ころりと転げて砕ける。
もう逃げたくないのだと。
胸の内にいる自分が、すがるように抱えてきた糸をみんな投げ捨てた。
「家門の、外の……人」
「そう。透緒子どのを傷つけさせた。俺の
朔灯の言うとおり、透緒子は外の人間だ。たった三月雇われただけの組師だ。
「……志貴に住まう者はみな、か、ぞく……って」
「家族だからこそ。俺の手で始末をつける」
「そうじゃ、なくて!」
刀を持つ朔灯の右手を、ぎゅっと両手で捕まえる。彼の手は氷のように冷え切っていた。
「この三月の間だけは……」
透緒子にとって、次につなぐたったひと言は。
胸から喉を熱くして、つんと鼻を突き、まぶたをこじ開けて何かを溢れ出させるほど重く。
「私も志貴の、家族……ですか?」
朔灯の顔が滲んで見える。
自分はもしかしたら、もうずっと、夜の海の奥底に沈んでいたのかもしれない。
底には冷たいおにぎりがあって。
上には温かい椀があって。
底には呪い子と蔑む声があって。
上には透緒子の名を柔らかく呼ぶ声があって。
底にはつぎはぎだらけの着物があって。
上には藤花の着物とわんぴぃすがあって。
底はあんなにも穏やかだったのに。
望みも、落胆もなく。
糸と組玉と組台で満ちて。目覚めて、組んで、また眠る。それだけでいられたのに。
上はこんなにも心地が悪いのに。
寄ってたかって、透緒子を笑わせようとして。
惨めを認めさせる。自分にも欲しいものがあると、気づかせてしまうのに。
「だったら、今のは、か……家族の、喧嘩で。私が手を出したから、善様はうっかり噛んだだけで! それだけで!」
透緒子の荒唐無稽に、朔灯が口を挟もうとする。どんな説得にも止まってやるものかと、こどもの駄々みたいに頭をぶんぶんと振った。
「康史郎様も見ていたはずです。朔灯様が仲裁してくれたのに、私が飛びかかったのを」
「……んー、まぁ。そう言えなくも、ない。ないけど。呪印がつくようなものを、喧嘩とするのは……」
「それの何がいけませんか。私の呪印が十二に増えます。ちょうど、ひととせ。干支ひとそろえ。めでたいではありませんか!」
声を張り上げた拍子に、強く咳き込む。茜里の手が透緒子の背中を撫でた。
喉が渇いてたまらない。それでもまだ、言葉を探す。
「だから、今夜のことは――」
顔を上げて、透緒子は言葉を切った。
言葉を尽くし訴えたつもりなのに、なぜか朔灯も康史郎も、善までも、首をかしげている。
「めでたい、か?」
「ものは受け取りようとは言うけれどねぇ」
「印付けるオレが言うのも何だが、無理筋ってもんじゃねぇかい?」
きっと的はずれなことを言った。カッと顔が熱くなる。
それでもなんとかしたくて「でも」とか「だって」を繰り返すうちに、ははっと康史郎が笑い出した。
「いいよ。僕は今宵、志貴の家族喧嘩を見たわけだ」
「康史郎……」
「ひとつ貸しだよ。志貴のご当主」
朔灯は詰めていた息を吐いて、「面倒な借りだ」と苦笑まじりに返す。
善があぐらを崩し、あぁと夜空を仰ぎ見た。
「この善童鬼、今生、お嬢さんに足向けて寝ることはしねえ」
その善の袖で、茜里がぐしぐしと顔をこする。
「ばかぁ……ばかばか兄さまのばかあぁ」
「おう。好きなだけ
ぺちぺちと叩かれながら、善はカカッと笑った。
表通りからは、交代を告げる声が聞こえてくる。
「今さらだねぇ。これは雪柳に物申させていただこうか」
「……任せる」
「うん。健気な組師様に免じて、今宵は任されてあげよう。志貴ご一同は先に帰りな」
透緒子はどこか壁の向こうのことのように、目の前の光景を眺めていた。
ぼんやりしていると、透緒子の身体に軍服の外套が掛けられた。
かと思えば、すぐに視界がふっと高くなる。
初めて志貴の庭に足を踏み入れた日、妙江がしてくれたのと同じに。朔灯が透緒子を横抱きに抱え上げていた。
「お! 偉いぞ主殿、それが正しい型だ」
「善、うるさい」
いつもの主従のやりとりが聞こえる。
茜里が駆け出す。面隠しが軽く捲れると、喜びにきゅっと上がった口角が見える。善がのんびり立ち上がって大きく伸びをした。すぐそこの屋根に、志貴の遣いたちが顔をのぞかせる。それから皆どこか軽やかに、屋根づたいに跳ねて帝都の西を目指す。
気を失ったままの沙夏を大笠をかぶった遣いが背負い、瀬田のほうへ駆けていった。
「あ……の?」
「送り届ける。問題ない」
朔灯はガシャの手のひらに乗り、透緒子を抱えたまま器用にあぐらをかいた。
ガシャが立ち上がり、かしり、かしりと歩き出す。一歩一歩に軽く揺られながら朔灯の顔を見上げる。
「どうした?」
穏やかに問われた途端、実感が胸に迫ってくる。
――だめに、ならなかったんだ。
ガシャの手から見下ろすと、仮紐の面隠しをつけた善がいる。透緒子の視線に気づいた善が、右腕を上げ大きく手を振った。
「……ぅ」
耳の下がつきんと染みた。
「ふ、ぅ……っ」
まぶたを閉ざし、きゅうと強く下唇を噛む。
泣いては駄目だと言われた。呪い子の涙は災いを呼ぶから。
笑っては駄目だと言われた。呪い子の笑みはあやかしを呼ぶから。
この心は、動いては――。
呪印が浮かぶ左頬に、朔灯の手が触れた。
その手の熱をもらい、固く凍りつかせてきたまぶたを溶く。
「ありがとう――透緒子」
まだ深い藍の空の下。
海の奥底にも届くような朔灯の微笑みが、透緒子に注がれた。
「……ぁ」
喉が震える。頬がひきつれる。
そんな透緒子の頭を、朔灯の手が胸元に引き寄せる。
とん、と。
彼の胸に耳があたる。彼の鼓動が聞こえる。
組玉のかん、こんという音とは違う。誰かの生きる音が、自分のすぐそばにある。
「ぁ……ぅ、あぁああ」
十二月の空に、遠く、遠く。
透緒子は声を響かせた。
まるで、今この世に生まれ落ちた赤子の産声のように。
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