第17話 いちばんの嘘つき
どこかできっと、勘づいていた。
何事も立派にこなす沙夏は、哀れな義妹を可愛がることも虐げることもしない、いちばん義姉らしい義姉を演じてきたのだと。
目を背けたのは自分だ。与えられる悪意から、この腹底に息づく羨望から。逃げ出せば傷つくこともない。頭の中で紐を組んでいればいくらでも逃げられた。あの奥部屋で生きるだけの透緒子には、気づく必要のないことだった。
「私は必死に修身も算術も覚えたわ。透緒子は紐を組んでいただけじゃない。どうして透緒子がそんないい着物を着て、あんな帽子をいただけるの?」
「お話は戻ってから聞きます。今は志貴様が危急なのです!」
「大丈夫、私が行くから。心配しないで」
「けれど青紐が――」
「蔵にしまうはずがないでしょう? あなた、そんなことも知らなかったの」
ふふ、と柔らかな声がした。
最後にがしゃりと金物がこすれ合い、沙夏の足音が去っていく。
拳をいくら叩きつけても、もう返事がない。どん、どんと身体をぶつけるが、光ひとつ差し込まない。
いくらかそんな無意味を繰り返していたら、今度は義母の声がした。
「いい加減になさい。家族なら、姉に手柄を立てさせてやるものです」
たったひと言を扉の向こうに置いて、義母が去っていく。
義母はいつもそうだった。呪い子とはこうあるべし。養い子とはこうあるべし。
比べるものがない透緒子は、教えをそのまま飲み込んだ。そのほうが楽だったから。
すっと息を吸い込むと、蔵を満たす冷たさが肺に流れ込んできりきりと痛んだ。
痛む胸を押さえて、ふ、ふ、と短く笑う。
本当に家族なら、ここを踏んづけるようなことは言わない。教えてくれたのは、茜里だ。
その茜里が今、瀬田の屋敷近くで透緒子を待ってくれている。
蔵の中を見回すと、透緒子の背ふたつ分ほどの高さに小さな明かり窓があるのに気づく。
手近な木箱をぐっと持ち上げた。びんと腕を張って、歯を食いしばって壁際に寄せる。箱をふたつ積み上げて、その上によじ登った。
木箱ふたつで足りる高さではない。けれど、叫べばきっと届く。透緒子は志貴で、沙夏に負けぬような、よく通る声をもらった。
「茜里っ!」
ずっと心地が悪かった。
歓待を受けることが。朝餉をともにすることが。温かい白飯が。いたわられるこの手が。
――
気づいたから。
家族の顔として覚えるべきものが、ここにひとつもないことに。それを、嘘つきの透緒子はやっと認めたから。
どうか褒美に。
あの心地悪さをもう一度だけ、味わわせて欲しい。
「――たん」
小さな声がささやく。
振り向くと、蔵の片すみがぽうと光っていた。
「およめたん」
標霊が土から湧き出して、ぽわぽわと黄色に光る。柔らかい光は木箱をよじ登り、透緒子の足元に群れて、蔵の中をほのかに明るくする。
「およめたん、かえりましょ」
「みんなで、おうち、かえりましょ」
標霊が透緒子の足を押すような仕草をみせる。素直に従い木箱をおりて、じりじりと蔵の
どんっとひとつ、扉が叩かれる。
「透緒子さま! ここね!?」
「茜里!」
「今あけるから、一番奥にぴたりとして!」
え、と戸惑いながら、蔵奥の隅に張り付く。
ひと呼吸の間をおいて、茜里の号令のような声。そして、大地が揺れたのかという衝撃が蔵を襲う。透緒子は悲鳴をあげ、両腕に標霊を抱え込んで隅に縮こまった。
蔵の屋根の一部が崩れる。瓦がいくつか蔵の中に落ちて、空いた穴から夜空が見えた。かと思えば、面隠しをつけた大きな骨がぬっと顔を出す。
「……ガシャ?」
「透緒子さまぁ! こっちよぅ!」
ガシャの顔が引っ込んで、今度は大きな
「標霊たちがガシャを連れてきたの。きっと良くないことが起きたんだと思って」
「ありがとう、茜里!」
茜里にならってガシャの手のひらに乗り、指にしがみつく。乾いた枝をこすり合わせるような音を立て、ガシャは立ち上がった。
高い。骨の間から地面が見えて、尨狐に乗った時とは比べ物にならないおそろしさがある。
けれど、隣には茜里がいる。
茜里が透緒子の手をにぎるから。震えながらも、透緒子は前を向いた。
「およめたん」
「おねがい」
「おねがいねー」
標霊たちが蔵の中から透緒子を見上げて、小さな頭をぺこりと下げる。
「必ず、善様を連れて戻ります!」
透緒子が応えると、標霊はわぁと風そよぐ花畑のように揺れた。
◇◇◇
路地裏に、ごっ、ごっと鈍い音が響く。
月光が差す中、あらわになった金の左目が飢えに血走っていくさまがよくわかる。角と爪は鋭く伸び、しゅうぅと吐く息は白い煙のように口端から漏れ出る。
自分たちが従えているのはあやかしなのだと、朔灯は今、嫌というほど思い知らされている。
男鬼の本能は、妙江のときのそれとは比べ物にならない。ちぎれかけた組紐がかろうじて善の正気を繋ぎ止めようとしているが、それも時間の問題だった。
それでも、朔灯は刀を抜けない。鞘に納めたまま、善の左手をまた一打受けて流した。
「善!」
「聞こえてる……聞こえちゃいるんだ! 主殿ぉお!」
叫んだ善が、意のままにならない己の左腕に噛みついた。血飛沫が舞い、赤い筋がふたつ、血管の浮き立った腕に描かれる。
利き手である右手は、ずり落ちる面隠しをなんとか顔面に留めようと押さえたまま。さらけ出した左半分の顔が、ときおり苦痛に耐えるように歪む。
ふっふっと細かな呼吸を繰り返し、苦しげに朔灯から目をそらそうとする。だが、善の中の鬼性が、視線を目の前の獲物に向かわせる。
路地裏にやってくる新たな足音。その持ち主を確かめもせず、朔灯は叫んだ。
「康史郎! 誰でもいい、組師を寄越せ!」
「馬鹿を言うな! 連れてくる前に朔灯の首が飛んでしまう」
康史郎が朔灯の後ろにぴたりとついた。
善の背後には、康史郎の遣い、刻射が降り立つ。
「朔灯……これは無理だ」
康史郎の声が、壱の遣いを諦めろと言っている。まだ理性があるうちに討てと。
時が悪い。まもなく二時の鐘が打たれる。
あやかしがもっとも力を強めるとき。時が鬼門を指す丑三つだ。
「いぃ。主殿……かまうな」
「柄にもなく殊勝なことを言うじゃないか」
左の目をきゅっと弓なりにして、善が笑う。それから左手を刀のようにして、自分の首にとんとんと当てた。
「主とさだめた男を食って終いになるより、ずっといいさ」
「……そうか」
朔灯はしばし善の左顔を見つめ、鯉口を切る。柄に手をかけ、そこで、はじかれたように背後へと振り向いた。
「志貴様! 良かった、お声がしたものですから!」
さすがに朔灯も康史郎も仰天して、動きを止めてしまう。
なぜこの場に、瀬田の娘――沙夏が乱入してくるのかと。
沙夏は色とりどりの組紐を手に、息を切らして走ってくる。
「透緒子から危急と聞き……」
いかにも邪念は無いのだという顔をしていた沙夏は、朔灯まであと少しのところで足を止めた。
急速に色をなくしていく顔。彼女はその視線を、朔灯ではなく善に合わせてしまった。
なんの備えもない
沙夏は抱えていた組紐をその場に散らし、まるで糸が切れたかのようにその場にくずおれた。
「朔灯! 止めろ!」
康史郎が叫び、朔灯は歯を食いしばって刀を抜く。一閃は前方。今、善が立っているはずの場所へ。
だが、刀は空を切る。
朔灯の頭上。
善は迷い込んだ獲物めがけて跳んでいた。
康史郎が刀を抜きながら刻射を呼ぶ。
空中で善をつかもうとした刻射の手は、その着物を引きちぎるにとどまる。
朔灯は身をよじり、刀を投じようと構えた。
己が遣いに、人を殺めさせることだけは――。
だが。投じることはできなかった。
狙いをさだめた朔灯の目に飛び込んできたのは、善の背でも、沙夏の身体でもなく。
ガシャの手から飛び降り駆けてくる、透緒子の姿だった。
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