第15話 危急を告げる
◇◇◇
夕餉もそこそこに部屋にこもり、務めの支度を始める。
急いだ甲斐があって、先にと頼まれていた屋敷係五人の紐を無事にかけ替えた。今日からようやく、朔灯の壱の遣い、善の紐に取りかかる。
撰糸は昨日のうちに済ませていたから、今日は組玉に糸を掛けるところから。丸い組台の中央に
八つの組玉と錘の加減を確かめる。ふたつまで絞った模様候補のうち、どちらで組むか。うんと考えだしたところで、廊下から声をかけられる。
「透緒子どの」
「は、はい」
めずらしく、朔灯だ。初めの数日はさておき、夕餉のあとに彼が透緒子に声をかけることはなかった。組紐の邪魔をしないようにという彼からの気遣いだ。
返事さえすれば、朔灯はいつも勝手に障子を開ける。それが今夜はどうも、透緒子の応じを待っている。
垂らした組玉をすべて組台の上に乗せて、糸を休ませる。透緒子が扉を開けると、どうしてか朔灯はほっとしたような顔をした。
軍服に
「どうなさいましたか」
「いや……その」
「はい」
「その、な」
「なんでしょう」
朔灯は言葉をにごし、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。とても彼らしくない仕草に透緒子は緊張してしまう。
昼間、機嫌を損ねたから。三月とたたず、朔灯のほうから
互いに無言でいると、やれやれと善が出てきて朔灯の背中を叩く。
「オレの紐をな、くれぐれもよろしくって、そういう話なんだ」
「それは、もちろんです。志貴一番の遣い様の組紐ですから」
「よしよし! さすが主殿が見込んだ組師だ!」
善の明るい声が、今はありがたい。
透緒子の気持ちに少し余裕が戻ってきて、自分なりに見送りの礼をする。沙夏の所作とは比べようもないけれど、心はいくらでも尽くせる。
「お気をつけて、いってらっしゃいませ」
ぐっと力こぶを見せるような善。そのとなりでまだ難しい顔をしていた朔灯だったが、やがてすぅはぁと深呼吸をした。
「行ってくる」
ざっと外套をひるがえし、朔灯は透緒子に背を向ける。
ふたりが廊下の角を曲がるまで姿を見送り、透緒子は組台の前に戻った。組玉をひとつにぎり、それをしばらく手の中で遊ばせてから、
遠く、夜告げの大鐘楼から、人の時間の終わりを告げる鐘の音が響いている。
ここからの帝都は、あやかしの時間だ。
夜に溶けそうな退妖師の黒い軍服。朔灯を先頭に、庭に出てくる志貴の遣いたち。
尨狐の
「どうぞご無事で」
初めて、祈りのような言葉を口にした。呪い子の自分の言葉が裏腹になったら。そうおそれて、いままで口にしたことがなかった。
ずらりと並んだ
彼は透緒子の部屋を見上げて笑った。透緒子には、そう見えた。
慣れない見送りなどしたせいか。透緒子の胸の内はどこか落ち着かず、夜が更けてもひたすらに善の新しい紐を組み続ける。
近頃は皆があまりに叱るものだから、十一時には切り上げていた。壁の時計を見れば、とうに日をまたいでいる。
透緒子が寝るまでそばで待つのだと言っていた茜里は、いつの間にか組玉の音に寝かしつけられて、すぴすぴと鼻を鳴らしている。
いつぞやの大喧嘩以来、こんな光景が増えた。茜里いわく、玉の跳ね音は眠気を誘うものらしい。
畳に丸くなって寝る姿は猫らしく、ときどき耳がぴくりと跳ねるから面白い。
それを横目に、また紐を組んでいく。
いくらか集中していたところに、廊下の板敷きがきしっと鳴った。
「透緒子様。妙江でございます」
廊下からそっと声をかけられ、「どうぞ」と応じる。目は組台に注ぎ、手は組玉を細かに入れ替えて紐を組む手を休めない。どうしても、休んではいけない気がするのだ。
「根を詰めすぎではございませんか?」
湯呑を乗せた盆を座卓に置いて、妙江は透緒子のそばに座した。
「もう少しだけ。十二月の帝都は忙しないと聞いたから、
「……わかりました。ですが、どうか二時の鐘までにはお休みくださいね」
「はい。心得ております」
それから妙江は、気持ちよさそうな寝息の茜里を見て「またこの子は」と呆れたように言う。
面隠しの隙間から、苦笑する口元が見えた。
例えば瀬田の義母がこんなふうであれば、と。
透緒子らしからぬ邪念を抱き、それを絹糸に絡めて捨てようとしたときだった。
がたりと、妙江が座卓に寄り掛かるようにひざを突いた。
「妙江さん!?」
今しがたまで何事もなく語らっていた妙江の首筋を、つぅと汗が伝い落ちていく。
「……善」
息を荒らげるさまは、初めて妙江に出会った、封じの解けかけた夜のようで。慌てて面隠しを確かめるが、妙江の組紐にも封じ布にもおかしなところはない。
異変に飛び起きた茜里が、くずおれそうな妙江の身体に触れる。
「あつい……」
茜里は声を震わせ、妙江の躰にしがみついた。
「善兄さんの封じに何かあったんだ。姐さんの封じがゆるんだとき、兄さんもこうだったもの」
妙江は茜里の躰をやさしく離し、苦しげながら正座した。そして、深々と頭を下げる。
「お願いで、ございます。どうか……組紐を、善に」
美しくそろった妙江の指先が震えている。
よほどの危急だとわかる。けれど、透緒子の腕半分ほどまでしか組まれていない組紐では、とうてい役目を果たせない。
「お願いです、透緒子様。人を襲えば、遣いとてあやかしと同じ……討たれる側に」
ひゅっと、透緒子の喉が鳴った。先刻見送ったばかりの、善の快活な声がこだまする。
組玉をひとつにぎり、それでは駄目だと頭を振る。この紐を組み上げるのに、今夜ひと晩ではどうしたって足りない。
間に合せでかまわない。何か、今すぐに用意できるものがあれば。
そこで、はたと気付く。
危急にどうすべきかを、朔灯がもう見せてくれた。瀬田の家には出来合いの組紐が山のようにある。
急いで立ち上がると、組玉がかららと音をたてた。
「茜里、妙江さんをお願い」
「透緒子さま!? どこにいくの!」
言いおいて走り出す。こんなときこそあっぱっぱな洋装であればと、さばきづらい着物のすそをわずらわしく思う。
十年、この足は走ったこともなかった。そう遠くないとはいえ、瀬田まで走りきれるか。そもそも自分にきちんと道がわかるのか。不安になる。
草履を引っ掛けて庭に出ると、標霊たちがわっと寄ってきて空を指した。
「きつねー」
「え?」
「ぼこーぼこー。うえー」
ごお、と強い風とともに、尨狐が庭に降り立つ。透緒子の前に伏せた尨狐は、乗れというように首を動かした。
ふわふわとした躰に飛びついてよじ登る。乗るのは三度目だ。もう、ひとりで上がれるようになった。
二度目よりずっと早く首元にたどり着き、注連縄をつかむ。背中に風が吹き付けた途端、心細くなる。
尨狐に乗るときは、背中に朔灯の熱があった。いつの間にか、そばに誰かがいることが当たり前になっていた。
ひとりでいることがこわい。以前の透緒子なら、気にも止めなかったのに。
「……尨狐。お願い、瀬田まで――」
「透緒子さま! 待って!」
強い声がした。
と思ったら、下からぬっと猫耳が這い上がってきた。
「茜里!?」
「一緒にいく!」
茜里は尨狐の躰をひょいひょいと上がって、手綱をつかむ透緒子の両腕の間にするりとはまった。小さな背中が胸にとんと当たっただけで、抱いていた心細さが消えていく。
茜里の手が、手綱をにぎる透緒子の手に重なる。
「妙江姐さんみたいに強くないけど。茜里が守るよ」
あたたかい。
この優しい子を、瀬田の目に刺されたくない。
義父が、義母が。おびえた目を茜里に向けるのが想像できる。そんな視線に志貴の遣いを、茜里をさらすのは嫌だ。
「……屋敷の前で、待っていてくれるなら」
「もちろん! 行こう、透緒子さま!」
力強い茜里の声に、透緒子は思い切り手綱を引いた。
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