第14話 おそれ、戸惑い、後戻り

 わんぴぃすについて、透緒子が思うことはひとつ。

 頼りない。

 あっぱっぱと広がるすそがいけない。

 北風が吹きつける今にあわせ、外套を羽織る。厚い生地で多少あっぱっぱを押さえ込むが、それでもやっぱり頼りない。


 けれど、つば広の帽子はいい。目深まぶかにかぶると朔灯の背中しか見えない。おかげで他所よそからの視線はちっとも気にならなかった。


 診察室に入った透緒子を見て、良弦は感心したように声をはずませた。


「これはいい。朔灯の見立てか?」

「いえ。こういったものはさっぱりで、皆に任せました」

「なんだ……しかしよく似合う。それに呪瘡もほとんど消えたようで何よりじゃないか」


 薬を飲み続けた透緒子の痣は、ひたいと横腹に少し残る程度にまでおさまった。


「お薬が本当によく効いて。ありがとうございました」

「いやいや。なんと、澄んだ良い声だね」


 声の変化は落ち着いてきたものの、透緒子にはいまだ自分のものと思えない。


 良弦は「さて」と指を組み、透緒子の頬の呪印を診る。


「問題はここからだ。呪印を解くには、透緒子さんの記憶が鍵になる。かけた種ではなく、かけた主を探さねばならない。そこでだ、まず瀬田のお父上に」

「先生。もう、いいんです」

「あぁ、記憶を掘り起こすのは、おそろしいことでもあるからね。だが」

「違うんです。満足なんです」


 鏡を見て、毎日痣が消えて行くさまを確かめている間、胸が晴れていく気がした。

 老婆のようだった声が、姉の沙夏のように耳あたりの良いものになった。こうなって初めて、自分が沙夏の声をうらやんでいたのだとわかった。


 ここまででいいと、自分の声がささやく。

 羨む気持ちは毒だ。これ以上身の内に染みた毒に気づけば、透緒子は駄目になる。


「諦めることはない。四大家の情報網がある。どの家も、桜和おうわ各地に分家を持っているからね。朔灯の力があれば、呪印の主を討つことだって決して難しくない」

「私が外にいるのはもう、あとふた月もありません。そのあとは瀬田の奥部屋で過ごすだけになりますし、この印があったところで暮らしに障りはありません」

「そんなことはない!」


 良弦は前のめりに透緒子の手を取った。


「呪印はあやかしの気の溜まりだ。身体に流れ込めば人の気を乱し、時間をかけて健やかさを奪う。命をも削りかねないんだよ」

「いのち……」


 ――長く生きたいとも思わない。

 以前の透緒子なら。痣のある醜い自分なら、難なく言えた。


 それが今、胸を強く締め付けて口にできない。

 自分は変わってしまった。ここで止まらなければ、あの奥部屋に戻れなくなる。


「透緒子さん。なぜあやかしが、封じ紐をつけ面を隠して四大家に遣われるか、わかるかね」

「家族に、なりたいから?」


 志貴の皆を思い浮かべて答えると、良弦は笑って否定した。


「朔灯の屋敷にいるあやかしは幸せだ。他家は違う。使い捨てられ、虐げられ、それでも彼らは面を付ける――日のもとで生きたいからだ」


 あやかしは夜の住人。彼らは陽光に耐えられない。それをくつがえすのが退妖師の面隠つらがくしだ。退妖師は主従の契りを結ばせる代わりに、夜の呪縛から彼らを解き放つ。


「透緒子さん。きみはどうだ。朝日に、夕日に。きみは何を思った」


 問われ、ひととき朝日を思い出す。尨狐ぼうこの背から、朔灯に支えられて眺めた光を。夜に咲く地上の星を。それは今も眼裏まなうらに鮮やかで、あの色彩を紐に組みたいと思うほど強く透緒子を撃った。


 透緒子はそれでも、静かに笑む。


「私には、過ぎた贅沢です」


 良弦は眉間をつまみ、ふっと息を落とした。同時に透緒子から手を離し、机に向かう。


「もうしばらく薬は続けなさい。手を付けた傷病だ。医師として、そこまではまっとうさせてくれるかね」

「ありがとう存じます」


 良弦の寂しげな横顔に、透緒子は気づかぬふりをして目を伏せた。




 診察を終え、薬をもらう。そして医院を出る。

 朔灯は何も言わない。なぜか透緒子も気まずくて、お互い無言のまま歩き出す。一度しか歩いていない道ながら、それがあの糸屋に向かう道だということはすぐに思い出せた。


「あの、朔灯様」


 今日は、このまま帰ろう。そう言おうとした。


「あなたはまぶたを閉ざしすぎる」


 切り出すのは、朔灯が先だった。彼は前を向いたまま、透緒子のほうを見ることなく続ける。


「日がさしたところで、まぶたを開かなければ永遠に夜は明けない」


 決して張り上げた声ではない。それでも透緒子の身がすくむ。責めが混ざった強い言葉に気圧された。


「あ……」


 自分が青ざめているとわかる。日の温かさより、風の冷たさのほうが勝る。うつむいて頼りない洋装のすそを両手で押さえると、透緒子の頭につば広帽がぽすりとかぶせられた。


「今のは忘れてくれ」


 帽子の上でぽんぽんと、大きな手が跳ねる。

 その手が離れた瞬間、嫌だと胸の内が叫んだ。

 今、とても大切なものを届けようとしてくれた。透緒子を覆すほどの、途方もなく大きなものを。


 もし、まぶたを開いたら、そこにはきっと――。


「私――」

「透緒子?」


 道行く人のざわめきの中、それはやたらと明瞭に透緒子の耳を突き抜けた。


 前方に見えてきた糸屋の前で、見慣れぬ洋装に身を包む沙夏が手を振っている。

 透緒子のものとは形が違うワンピース。それに豪奢な外套を重ねて、流行りの釣鐘帽子クロッシェをかぶる義姉。

 沙夏の姿を目にしたら、今朔灯へぶつけたかったものは冷水をぶちまけられたように熱をなくした。


「どうして……姉様がここに?」

「透緒子が戻ってきたときに、少しでも質の良い糸があれば喜ぶんじゃないかって。帝都なら大きなお店があるでしょうから。会えて嬉しいわ」


 女学校で修身も作法も優を修めた沙夏は、洋装のさばきかたひとつとっても透緒子とは違う。

 指先まで整えた礼で、朔灯の前に立った。


「志貴のご当主様。先日の無礼をお詫び申し上げます」

「……過ぎたことだ」

「それから、父が大変不躾ぶしつけなことを申しましたそうで。どうかお忘れください」

「構わない。それより、道を譲ってくれるか。買い付けがある」


 雑にあしらわれても、沙夏は不快な顔ひとつみせない。すれ違いざま、透緒子に「その服、とても似合うわ」と微笑み、会釈をして手を振る。


 泥を塗りたくられた気分で、透緒子は糸屋の手前まで来て足を止めた。


「どうした?」

「朔灯様。今日は、紐を組む時間を優先したいのです。せっかく連れてきてくださったのに申し訳ありません」

「……わかった」


 朔灯はすぐに、適当な辻馬車を拾ってくれた。外套を脱いでたたみ、馬車に慣れない透緒子のために、敷物代わりにしてくれる。


 無作法な透緒子は礼も言えず、頭の中でずっと組玉に糸を巻き付けていた。

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