第13話 初めてのわんぴぃす

 立冬、小雪しょうせつを過ぎ十二月が近づけば、夜はいよいよ長く、帝都の夜は騒がしくなっていく。冬はあやかしの季節だ。


 巨大な狼の遺骸いがいの上に座り、朔灯の吐いた息は真白に染まる。


「疲れたな」


 大型のあやかしが跋扈ばっこしやすくなるこの時期は、毎夜気の抜けない討伐が続く。例年なら、夜が明けてから昼下がりまで寝床の住民になるのだが、今年の朔灯は違った。

 夜明けに戻り、朝餉をいただく。昼餉の前まで眠り、起きだしてからは透緒子に算術と歴史を説く。夕餉をいただき、組玉の跳ねるような音に耳をかたむける。そしてまた、夜の帝都へ向かう。


「朔灯が愚痴をこぼすなんてめずらしい」


 康史郎が隣に座り、水筒すいづつを差し向けてくる。水筒の中身はとうに冷え切っていて、口を潤すにとどめて突き返した。

 姿を見せた善が水筒を奪い取り、酒でもあおるように喉を鳴らす。


「主殿にはいま、熱心な徒弟がいるから忙しいんだ」

「透緒子ちゃんかぁ」


 善の言うとおり、透緒子は熱心だ。まともに学を付けられなかった反動か、日照りに乾いた石のように教えを吸い上げる。組紐のややこしい動きをするするとこなすだけあって、何事も覚えがよく器用だ。茜里と大喧嘩をした後、仲直りにと妙江の手ほどきを受けて作った大福も見事なものだった。炊事をまかせても、きっと彼女は立派にこなす。


 当人は気づいていないだろうが、何か物作りをするとき透緒子はわずかに笑みを浮かべる。組紐しか響かなかった心が、ようやく重い腰を上げたらしい。


「良弦先生が、そろそろ具合を見せて欲しいとぼやいていたよ」

「組台から引き剥がすのに苦戦している。薬がそろそろ切れるから、そこが狙い目だ」


 いろいろと与えても、透緒子は組師の務めを休もうとしない。帝都に連れ出すなら、糸で釣るか、どうしても行かねばならない事情が必要だ。


 いまでは彼女の呪瘡が消えて、はっきりと呪印が見えるようになった。腕に三つ、左手、首、頬にひとつ。妙江に確かめさせたところ、身体にはさらに前三つ、後ろふたつの印が浮いている。


 呪印は、あやかしが己を誇示するために獲物に刻むあかしだ。退妖師ならまず負うことがない。呪印が体に残ること、すなわち、そのあやかしを取り逃がしたことになる。

 退妖師にとってはわかりやすく恥だが、透緒子の身体に呪印があることはなんら恥にならない。彼女は退妖の術を持たない組師だ。


 問題は呪印の数だ。

 多すぎる。

 十一種ものあやかしに傷を負わされて、無事生き伸びている。それも、彼女の言葉どおりなら、すべて八歳までに負った傷ということになる。


 瀬田の周辺に探りを入れているものの、彼女の出自ははっきりしない。いまだ、朔灯は透緒子の奇眼と組師としての腕の他、何も知らない。


 一度彼女の義父と話すべきこととはわかっている。だが、あの顔を思い浮かべるだけで、どうにも胃がぐねぐねと動く。


「ねぇ、朔灯。無理にそんな難しい女を招き入れることもないよ」

「しかし、今のところ彼女よりいい組師がいない。また妙江のときのようなことがあっては、年の瀬におちおち屋敷を空けられん」

「だったら、抱えでなくていいじゃないか。家に帰して、朔灯が遣いを連れて出向けばいい。通いだってできる近さだろう?」


 康史郎の言葉に、もっともだと朔灯も思う。算術を教える必要も、医師にかからせる必要もない。

 余計な世話を焼いているのは義父ではない。朔灯だ。


梧桐あおぎりの若さん、そっとしといてくれねえか。主殿は今、いいところなんだ」


 善が康史郎にカカッと笑いかけると、呼吸三つおいて、康史郎がハッと大仰おおぎょうに口に手を当てた。


「やだ! 嘘! そういうこと!?」

「あああ駄目だぞ若さん! こういうときはな、周りはそおっとしておいてやらねえと、空回ってこじれちまうんだ。そんなことになっちゃ、妙江に叱られちまう」


 何の話をしているのか。

 近所の珈琲茶館カフェーの女給のようにこそこそ語り合う鬼と幼馴染のことはそっとして、朔灯は立ち上がった。


 なぜかふいに、膳に向かい静かに箸を進める透緒子の姿がよぎる。

 夜は長く、朝餉にはまだまだ遠い。



 ◇◇◇



 十二月の始まり。

 再び良弦の元へ出向くことになった透緒子は、妙江の用意してくれた装いに気を失いそうになった。


「これ、だれが着るんです?」

「もちろん透緒子様ですよ」


 妙江が全身から心のはずみを漂わせ、姿見を前に立つ透緒子の身体にその胡桃くるみ色の服を沿わせた。


「わんぴぃす、なるものです。茅弥が言うには明慈めいじ終わりの流行りの型だとか。古すぎも新しすぎもせず、ほどよい品です。さ、お召し替えを」


 妙江に帯を解かれて、見慣れない洋装に袖をとおす。たもとのない袖。詰まった襟。腰の締まりはゆるく、すそはぱっぱと頼りなく広がってしまう。


「足元が、あ、あっぱっぱなのですが……」

「可憐でお似合いですよ。こちらも試しましょう」


 そうして、妙江は紅やら髪飾りやらを見せるものだから、透緒子は頭の中で紐を組んで現実から逃げ出した。


 あとはされるがまま。髪を解かれ、あげられたり下ろされたり。頬に刷毛が触れたり、唇にぬめっと何か塗りつけられたりして、ようやく妙江が両手を叩いた。

 ひょこりと様子を見に来た茅弥が歓声を上げる。


「まぁ。まぁまぁ! 透緒子様! とてもお似合いじゃありませんか」


 姿見に目をやって、透緒子はひたすら瞬きを繰り返した。


「……だれ?」

「透緒子様です」

「透緒子様ですよぉ」


 頬と唇はほんのりと薄紅に。いつも左でゆるく結わえるだけの髪が、後ろでひとまとめの三つ編みになり、さらにぐるりと輪っかになっている。


 左顔が、はっきり見える。つい顔を隠そうとすると、茅弥がつばの広がった帽子をかぶせてきた。


「流行りは釣鐘帽子クロッシェですが、今日は日差しもありますし、こちらがええです」


 そこでやっと、この装いの意味を理解した。これは透緒子の顔を、まだひたいに残る痣と浮き出た呪印を隠すための策なのだ。


「妙江さん、茅弥さん、あの……」

「さ、旦那さまがお待ちです」

「参りましょう参りましょう。主様はきっと狐につままれたような顔をなさいます」


 小躍りしそうなふたりに背中を押され、屋敷の玄関に向かう。

 退妖師の軍服を着込んだ朔灯が、すでに立っていた。


「お待たせをいたしました」


 透緒子はひょこりと頭を下げ、そして顔を上げる。

 妙江の予想がぴたりとはまる。あまり動じない朔灯が、めずらしいことに、口を半開きにして氷のように動かなくなった。


「あの……?」

「いや、うん。そうか……」

「何が、そう?」

「……行くか」


 どこか難しい顔の朔灯に連れられ、透緒子は初めて、革靴なる硬い履物に足を入れた。

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