第10話 あざに隠されたもの

 康史郎が刀を納める。朔灯が鋭い目で、動かなくなった黒い塊をにらんだ。


声無おとなし、か。呪いどころか、本体を巣食わせていようとはな」

「呪香が濃かったのはこのせいだろう。これほどのものが腹にいたんだ。空腹を感じたこともないのじゃないかね?」


 良弦の問いかけに答えることができない。

 自分の内にあったあやかしのおぞましい姿を目の前に、透緒子はえずきを感じて口を押えた。そこで、左手の痣の中に、うすぼんやりと光る奇妙な模様があることに気づく。


「ひっ!」


 ひと声上げて、今度は喉から出た自分の声に仰天する。聞きなれた老女の枯れ声ではない。掠れてはいるが、若い女のものと言っても通せるような声がする。

 両手で喉を押さえる。混乱して椅子を蹴倒しあとずさる。壁にどんと背を突き、そのまま、ずるずるとへたりこんだ。


「な、に? どう……」

「透緒子どの」

「っ!」

 

 差し伸べられた朔灯の手から逃れるために身をよじる。ささやかな抵抗はあっさりと突破され、喉を締め付けていた両手をぐいと解かれた。


「おどろかせてしまったな」


 まるでこどもにするように、朔灯が透緒子の両脇から腕を回して抱き上げる。よしよしと背中をさすられて、今度は急激に気恥ずかしくなった。

 椅子に戻されて、良弦から手鏡を受け取る。鏡を見れば、左手に浮き出た印とは違うものが頬にも腕にもある。この様子なら、身体にもいくつか印があるのだろう。


 うすぼんやりと光を帯びていた印は、やがて痣の中に吸い込まれるように消えていった。


「これは呪印じゅいんといってね。あやかしに傷つけられたあとに残るものだ」


 良弦の説明を聞きながら、康史郎からもう一杯水をもらう。ゆっくりとのどに流して、なんとか心を静める。

 良弦の足元には、まださきほどの黒いあやかしの遺骸が転がったままだ。ちらりとそちらを盗み見ると、良弦は透緒子の聞きたいことを先回りするように続けた。

 

「声無は声と気を喰らう。呪印が放つ気を喰らい、透緒子さんの内で育ったのだろうな。育ちきった音無の気と呪印の気が混ざり合って新たなじゅになり、それが痣のように皮膚に浮き出たか。声と痣は時間をかければ完治するだろうが――この呪印はどうしたものかな」


 空になった湯呑にかわり、水で満ちた湯呑がすかさず渡される。給仕してくれる康史郎は、透緒子を見て人好きのする笑みを浮かべた。へこりと会釈して、また一杯水を飲む。今は、声を出すのがおそろしい。


「先生、呪印の判別はんべつはすべてつけられますか」


 朔灯が問うと、良弦は難しい顔をした。


「同種は同じ印を残すからな。個体がわかるわけじゃあない。透緒子さん、あやかしに襲われた記憶はあるかね?」


 透緒子は首を振って返す。あるとすれば八歳以前だが、母すら思い出せない透緒子が覚えているはずもない。


「となれば土地すらしぼれまい。桜和ノ國全土から的を探すなんてのは無理な話だ。それに……」

「それに?」

「いや、呪印を残らず判別をするとして。こんな若い娘さんの身体を、わたしが検分するわけにもいかんだろう?」


 朔灯は首をかしげて透緒子を見る。透緒子もはてと首をかしげ、朔灯を見上げた。

 くっくと笑いを含んだ康史郎が、良弦の言葉を訳す。


「朔灯、彼女の痣がどこまであると思ってるのさ」


 途端、朔灯の頬にさっと朱が刷かれた。素早く透緒子から目をそらした彼は、片手で鼻から口までを覆い隠し「あー」と困惑気味の声をもらす。その反応に耐えかねたように、康史郎が声をたてて笑い出した。


「いやぁ、面白い! 天興帝の世は愉しい時代になりそうだ」

「……やかましい」


 そこまで来てようやく、良弦の言わんとすることを透緒子は理解した。なるほどと着物の帯締めに手をかける。ぎょっとした顔の康史郎が声をあげた。


「透緒子ちゃん!?」

「診察なさるのでしたら、脱ぎますが」

「わぁぁぁ! ちょ、ためらいないね、きみ!」

「瀬田の義父もよくこの痣を見たがりましたし、そんなにお気遣いいただくことでもないので」


 帯締めを解く指に力を込めようとすると、朔灯の手にがっちりとつかまれた。


「必要ない。戻ってから妙江に写させれば済むことだ」

「ここで見せれば一度で済みます」

「いいや、思ったより時間をくった。そろそろ切り上げないと、糸屋に回る時間がなくなる」

「それは……いけませんね」

「だろう。深刻だ」


 透緒子の心はもう、まだ見ぬ絹糸の艶めきに満たされた。帯締めから手を離して椅子から立ち上がり、良弦に向かってお辞儀する。透緒子の切り替えをぽかんと見ていた良弦と康史郎が、同時に肩を震わせる。朔灯が「……易々やすやすだな」とつぶやいた。


「薬を出しておくから欠かさず飲みなさい。印のことは痣が完全に消えてから考えよう」

「じゃあね。ふたりとも。帝都デェト楽しんで」


 聞き慣れない康史郎の言葉を耳に、透緒子は朔灯の助けを求める。しかし、朔灯もまた、何だそれはという顔をしていた。


 そのまま康史郎に診察室を追い出され、別の部屋で薬をもらって医院を出る。透緒子の受け取った薬袋を、朔灯がひょいと奪って抱えた。


「朔灯様。でぇとって、なんです?」

「おそらく、舶来語なのだろうが……今度先生に聞いておく」


 そこに、声がひとつ響いた。


「逢引のことですよ」


 今出てきたばかりの医院の入口からだ。朔灯の表情がさっと硬くなり、透緒子を守るようにさり気なく背中に隠して振り向く。


「母上、お越しでしたか」


 日傘を手にした女の着物は、まるで喪に服しているような黒。

 端正だが冷たくも見える朔灯とはあまり似ていない。年齢を重ねても、どこか可憐な少女らしさがある目鼻立ちだ。

 女は懐から流行りのレース縁のハンカチーフを取り出すと、気分でも悪いのか口元を押さえた。


「足しげく通わねば、気が滅入って何も手につかないのよ」

「それはお大事になさいませ」

気鬱きうつたねがこんな昼日中に呪い子と逢引していては、せっかく先生に診ていただいた甲斐もないけれど」


 軽く頭を下げたまま、朔灯が目を閉じた。

 冷たい。

 朔灯の母だという女の口調は、瀬田の義母によく似ている。


「雪柳老からおかしな話を聞きました。兄を殺してまでして得た当主の務め、つつがなくこなせるよう、よくお考えなさい」

「……ご忠告、傷み入ります」

「口先ばかり殊勝なこと」


 女は日傘で顔を隠し、朔灯の前を通り過ぎる。去り際に透緒子に目を合わせ、虫でも見るような顔をしたのが印象的だった。


 たっぷりと頭を下げ続けた朔灯は、女の姿が見えなくなってから、けろりとした声で言う。


「さて、行こうか」


 透緒子を自分の右側にまたぴたりとつかせて、ここまでの往路より速歩で進み出す。


 しばらくの間黙って付き従っていた透緒子だが、悩んだ末に口を開いた。


「お母様、なのですよね?」

「不快な物言いで済まなかった。あれは透緒子どのへの不満というより、俺への八つ当たりだ。流してくれ。それより」

「はい」

「透緒子どのの本来の声はなかなかいい。全快が楽しみだ」


 はぐらかされた。それもあからさまに。

 踏み入ることを許さないと、朔灯の態度が告げる。


 人の痣のことには問答無用と踏み入っておいて、それはあんまりではないか。

 透緒子はせっかく見えてきた糸屋に素直に心踊らせることができず、絡まった糸束のような心境で店に入ろうとした。


 ところがここまで来て、透緒子の入店を朔灯の腕が阻む。


「え?」

「時間切れだ」


 店の前すぐの瓦斯灯がぽっと明るくなる。糸屋の従業員が出てきて、透緒子たちに一礼すると「支度中」の札をかけて扉を閉めた。

 やがて、店の明かりもぽちんと落ちる。華やかだった色硝子の扉は、暗くなると急に重く寂しく見えた。


「朔灯様」

「残念だったな」

「糸屋は、医院に入らせるための餌ですね?」

「まさか。あと一歩早ければちらとでも入れただろう?」


 くぅ、と下唇を噛む。昼餉を早めにいただいておけば間に合った。目の前で閉まったのがまた憎らしい。


「透緒子どのの心が動くのは、組紐のことばかりだな」


 ぽつりとつぶやき、朔灯がまた歩き出す。


「おいで。迎えを呼ぼう」


 ぶうとこどものように膨れたまま、透緒子は小走りで雇い主を追いかけた。

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