第11話 夜に溶く願い

 日はかたむき出すとあっという間で、青は橙に、橙は藍にと空のいろどりを譲っていく。

 瓦斯灯のあたたかな光を横目に通りを進んでいくうちに、そこかしこの店にも明かりが灯って、帝都は夜の顔を見せはじめる。

 糸屋も夜まで開けていてくれればと、少し恨めしい気持ちでその明かりを通り過ぎた。


 まだまだ人通りの多い中心部を抜けると、明かりも人の声も減っていく。どこからか漂ってくる夕餉の香りが鼻をかすめた。


「そろそろいいだろう」


 朔灯が言うと、ぱっと善が姿をみせる。


 善は空に向かって、ぴぅと指を吹き鳴らす。

 すぐに、尨狐ぼうこが空を駆け降りてきた。


「帰りも馬車を使うのかと思いました」

「日が落ちてから手配すると、行者の帰り道は完全に暮れてしまうだろう?」


 大きな家なら使用人として行者も雇い住まわせるというが、志貴にはいない。行きの馬車は朔灯があらかじめ呼んでおいたものだ。


「夜の足はガシャか尨狐がいるからな。こいつらなら、夜道にあやかしが出ようがどうにでもできる」


 二度目の乗狐はまだ慣れなくて、透緒子は四苦八苦しながらなんとか尨狐の背中に乗り込んだ。注連縄を握るところまでをひとりでこなせたら、朔灯が後ろに素早く飛び乗る。最後に善が頭のてっぺんに乗ると、尨狐は迷惑そうにククゥと鳴いた。


 注連縄とは別で、面隠しをつけるための長い組紐が頭に巻かれている。その封じ紐はずいぶん色が落ちて、近々新しくしなければならないのが明らかだ。


「……せてる」

「ガシャと尨狐の分は、さすがに日がかかるだろうからな。三月といわず、先々でのんびり取り組んでくれていい」

「いいえ。必ず間に合わせます」

「はは、強情だ」


 何がおかしいのか、朔灯は笑って手綱をひく。

 初めて乗った日より急速に空へ上がられて、透緒子は朔灯の身体にどんと体重を預けてしまった。


「まだまだ身が軽いな。もう少し食を摂れるようになるといいが」

「そんな、無茶な」

「もちろん、これものんびりでいい――ほら、透緒子どの。下を見てみろ」


 上空から帝都を見下ろす。


「わ、あぁ!」


 思わず歓声を上げる。

 星の海。瓦斯灯も家々の明かりも煌めいて、地上にあるその星たちは、空を明るく照らしていた。

 初めて空へ上がった日は、朝日がつくる絶景だった。今度は夜、人の生み出す絶景だ。


「悪くない景色だろう」

「はい、とても」

「だが、我が家の夜空も捨てがたいぞ。夜の庭にも出てみるといい。あなたは部屋にこもって組紐ばかりだと、妙江が困っていた」


 ぱしぱしと瞬きした。後ろに身体をひねって朔灯の顔を見ようとすると、向こうから顔を近づけてきた。


「どうした?」

「組師の務めに集中して叱られることもあるのだなぁと……」


 朔灯は透緒子の言葉を聞くなり大笑いだ。尨狐の耳の間に寝そべっていた善がするすると首を滑り、透緒子の目の前であぐらをかいた。


「あの屋敷は妙江の自慢の家なんだ。庭も風呂も飯もみーんな、お嬢さんにも味わってほしいのさ」

「ただの組師をそこまでもてなさずとも」

「オレらにとって組師ってのは、人間様が言うとこの神様仏様ってやつだからな。面隠しがなきゃ、あやかしは日のもとで生きられねぇ」


 そして、善は、あぐらの両ひざをぐっと手で押さえ、深々と頭を下げた。


「礼を言う。妙江に似合いの紐をありがとうよ」


 透緒子の顔がぼんと噴火した。いつもと違う真剣な声音の善から、深い感謝が伝わってくる。


「そんな、特別なことは……なにも」

「似合うなんてな、オレらにそんなことしてくれる組師はいねぇ。遣いはしょせん道具だ」


 え、と朔灯の顔を見る。彼は困ったように肩をすくめた。


「そういう退妖師もいるというだけだ」

「とか言うだろ? これが主殿ぐらいなんだよなぁ。まぁ、オレも妙江も、主殿がまだおしめも取れてねぇころからずぅーっと」

「善、うるさい」


 ぴしゃりと言われても、善はカカッと笑って流す。朔灯は不貞腐れた顔をしてそっぽをむいた。善と妙江の前だと、ときおり彼はこどものような顔をする。


 屋敷にいるものを使用人とは思わない。そう言った彼にとって、遣いたちはなんなのだろう。

 そんなことを考えたら、ふと、朔灯の母親の冷たい声が頭をよぎる。その声を受ける彼の、感情を消したような顔も。


「お、そろそろ降りるぞ」


 善が尨狐の頭に戻ると同時に、落ちていく独特な心地悪さがやってくる。心臓を冷やすような痛むような感覚に、透緒子は目を閉じ、ぎゅっと注連縄をつかんだ。


 その手に、朔灯のあたたかい手が重なる。彼は後ろから透緒子の身体を支えるように腕を回して、静かに語りかけてきた。


「良い組師が欲しかった。俺の遣いを抑え込むのではなく、寄り添ってくれる組師が。ずっと、探してきた」


 強くも、押し付けるようでもなく。どこか独り言のように。


「似合うと、あなたは言った」


 それは、願い事のように。


「あなたがいい。俺の家族を託すなら、あなたがいいんだ」


 ひどく、胸がしびれた。何かわからない熱いものが、内から溢れ出そうな気すらした。深く息をつき、溢れる前のそれを散らす。胸に湧いたこの熱を理解したら、透緒子は元の暮らしに戻れない。

 そんな、予感がした。




 庭先では妙江と茅弥が待っていた。尨狐の背から朔灯の手を借りて降りると、茅弥が飛び跳ねんばかりに寄ってきた。


「お待ちしとりました! 透緒子様、お部屋の支度がようやっと整いましたよ」

「え、でも……今の客間でもじゅうぶんに」

「あれま、しゃがれが治っとる! ええお薬があったんですねぇ」

「あ、あの。茅弥さん、話を」

「ええ、ええ、今夜は茅弥も泊まりますんでね。たっぷりお話できます。まずはお部屋に入ってからですねぇ。お気に召すかどうか、皆気が気でないんですよ」

「湯殿のお支度もできております。それから夕餉も。さ、参りましょう、透緒子様」


 妙江と茅弥に手を引かれ、透緒子はずるずると屋敷へ引きずられていった。



 ◇◇◇



 あとに残った朔灯の背中に、善はよいやとのしかかった。


「ずいぶん熱の入った口説きじゃねえか」

「失敗だな。おそらく困らせただけだ」


 めずらしく反省の主の背中から離れて隣に並ぶ。見慣れた主の横顔が、どこか焦がれているように見えた。


「なぁなぁ主どのぉ。やっぱりお嬢さんのこと、相当気になってるんじゃねえのかい?」

「もちろんだ。透緒子どのの奇眼はどうやら、初めに見込んだ以上のものだからな」


 透緒子の入っていった屋敷の玄関を見つめ、ふっと朔灯は微笑んだ。それからさっさと善を置いて歩いていく。


「……そっちじゃぁねんだけどな」


 善は知っている。齢二十六の主は、大変な苦労と女難の果てに、疎い人間に仕上がったということを。つがいである妙江とともに、そんな主の良い相手を探してやりたい従者心を長年くすぶらせている。


「む」

「むー」


 足元で標霊が、黄色い花を束にして揺らしている。


「……だよなぁ?」

「む!」


 思えば初めから。屋敷に住まわせる必要はなかった。瀬田の家程度なら、通いでもじゅうぶんに務めは果たせる。

 主がこんなに他人に肩入れするのを初めて見る。この際、組師としての尊敬でも何でもいい。主に幸あれ。志貴の繁栄に望みあれと、善は人間の真似をしてぱんぱんと手を叩き、標霊を拝んだ。


 朔灯が自分たちのことを家族と思っているように。

 志貴の遣いもまた、彼を主である前に家族と思っているのだ。

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