第8話 柳に塩
どうやら、透緒子に関係のある話のようだと察する。
「妙江様。雪柳、というと……四大家の?」
「東――
「紐を作るよりしなを作るのに熱心な娘さんでなぁ。あれをひと月耐えた旦那様が偉かった……って透緒子様!?」
透緒子はするりとふたりの脇を抜け、声の出どころである部屋の手前で身をかがめた。組紐はひとまず懐にしまう。
朔灯の声と、年季の入った男の声が聞こえてくる。
「志貴の組師はこれまで
「しゃしゃり出るとは何だ! 鵺富の代わりなら、次位の我が家門より招くのが当然というものだ」
「筆頭だの、次位だの。そういう考えがもう旧い。開国前ならいざ知らず、
「伝統を軽んずるか、若造が」
「そちらこそ、頭を
ガタンと大きな音がする。ついで、目の前の障子が荒々しく開いた。透緒子の客間と違い、この障子は色
と、廊下の板敷きにしゃがみこんだ透緒子を、齢七十はゆうに超えようかという
老爺は手にした杖をだんっと廊下に突く。
「……志貴の
見下ろしてくるその眼差しは、瀬田の義母が透緒子の痣を見るときと同じものだ。
雪柳家にとって、この痣は朔灯の言う「この程度」ではないようだ。
朔灯が廊下に顔を出し、透緒子を見て軽く目を見開く。それから、透緒子の後ろにいる妙江と茅弥に何か視線を送った。
「まさに、こちらが組師の瀬田どのです」
「は、は……寝言は夜半を過ぎるまで取っておけ」
「こんな日が高いうちに寝転けるほど、ぐうたらではないのですが」
杖の先が透緒子の左手をつついてくる。
「
高く上がる杖を、当たれば痛そうだなと見上げる。外に出たら、自分はこんな硬いもので打たれる存在なのか。
まぶたを閉じて頭の中で、絹糸をぱちんと切る。組玉に糸を掛けて巻きつけながら、これで身体の痛みまで紛れるものだろうかと、ふと不安になったときだった。
「組師の手を傷つけようとは」
怒気をはらんだ声に、おそるおそるまぶたを開く。
杖を持った老爺の手首を、朔灯がぎちりとつかんでいた。
「こんな醜い女に、四大家の敷居を跨がせるか。志貴を潰すつもりか!」
「彼女ひとりで潰える家なら、さっさと潰えてしまえばよろしい」
「ぐ、く……」
力比べは明らかに朔灯が上で、老爺の身体がふらつく。そこで朔灯がぱっと手を離し、倒れかけた老爺の身体を連れの男ふたりが支えた。
男のひとりが食ってかかろうとすると、朔灯の背後に霧が舞い、善が姿を顕す。
「我が主に手出してみろ。封じなんざ引きちぎって頭から喰らうぞ」
男がギッと歯噛みしたところで、「おまたせしましたぁ」と呑気な声が寄ってきた。
盆に湯呑をひとつ載せた茅弥が、老爺の側にすっと正座する。
「昨夜も大きな捕り物がありまして、志貴の皆様、疲れておいでなんです。雪柳の御老公様、とっときのお茶で今日はご寛恕くださいませ」
「……ふ、む」
年若い茅弥になだめられて、悪い気がしないらしい。老爺はすすめられるままに盆の上の湯呑に手を伸ばし、口をつけた。
そして、吹いた。
「ごっ……ふごっ……なん、だこれは!」
「あれぇ? 帝都の洒落た紳士はお茶に砂糖を入れるもんだって聞いたんで、御老公様ならお気に召すかと思ったんですけど」
「こ、これのどこが砂糖か! 海を飲まされたかと思うたぞ!」
「ありゃ……いかん。塩と間違えましたかね」
すかさず妙江が手拭を出すが、老爺は「触るな」とはたき落とした。妙江はそれを気に留める風もなく、落ちた手拭を懐にしまう。
「雪柳様、お召し替えなさいますか? あいにくと、洋装しかご用意がないのですが」
「いらん! 誰があやかしの世話になどなるか! 帰る!」
「左様でございますか。では、せめてお帰りのお手伝いをさせてくださいませ」
カカッと笑った善が、廊下の戸を開く。
庭からぬっと入って来たのは、ガシャの巨大な指骨だ。ガシャは老爺の後ろ襟を引っ掛けて、よいしょと庭に放り出す。次いで連れの男ふたりもぞんざいに投げたところで、茜里が炊事場から走ってきた。
「塩がなんとかって聞こえたから、持ってきたよー!」
「良い子です、茜里。お客様はあやかしをお嫌いでいらっしゃるの。厄払いに撒いて差し上げなさい」
「はいな! いきますよぉ!」
茜里が壺の蓋を開けて、塩を老爺めがけてぶち撒けた。塩にまみれた一行を再びガシャがつまんで、敷地の外へ運んでいく。
ひたいに手をかざし見守っていた善が、やがて手を叩いて笑い出した。
「愉快愉快!」
「これ、あなた様ったらはしたない」
「よく言う。妙江もずいぶん役者気取ってたくせに」
「……たまには、ええ。そのような日もあります」
「茜里は? 茜里もえらかった?」
「お茶できっかけを作ったのは、この茅弥ですよ!」
騒がしさをそのままにして、朔灯が透緒子の左手を取った。
「傷はないな?」
杖でつつかれたのだったと思い出し、こくこくとうなずく。そして、透緒子は本題を思い出した。
「そんなことより」
「……そんなこと、ときたか」
「はい、こちらを」
透緒子は懐から組紐を取り出す。どこか不満げな顔をしていた朔灯だったが、組紐を目にするなり表情を変えてすっと立ち上がった。廊下の奥に消えていったかと思えば、すぐさま封じ布を手に戻ってきた。
朔灯は封じ布にするすると組紐を通し、新しい面隠しを完成させる。
「わぁ! 妙江姐さんのあたらしい紐だぁ!」
気づいた茜里が朔灯の周りをひょんひょんと跳ねた。
妙江が朔灯に近づいて、軽くひざを折る。朔灯は妙江の面隠しを外さずに、新しい面隠しを上から被せて頭の後ろで結んだ。それから、妙江のひたいに指を当てる。
「
新たな組紐に光が走った。
ばちんとはぜるような音がして、元の面隠しがぱさりと落ちた。間に合せでつけていた藍白の組紐は、何かで断たれたように切れている。
妙江は自分の全身をあちこち確かめるように見回してから、はしっと透緒子の手を取った。
「なんと心地よいこと! こんなに身の軽い封じは初めてです」
「そ、それは、はい。良かっ……」
握られた手が上に下に揺れるたび、透緒子のしわがれ声が跳ねる。
「妙江姐さま、きれいねぇ」
「これまでの紐の中でいっとうきれいなんじゃありませんか?」
茜里と茅弥が褒めそやすと、妙江よりも善が得意げに笑う。
「妙江、ちっと回ってみ」
照れたようにふふ、と笑った妙江が、その場でくるりと一周する。
月白が妙江の黒髪によく映えて、女郎花の薄い黄も決してうるさくない。明るい二色を納戸色が締めて、上品だ。
透緒子はほっと息をついた。
縄のようならせん模様の
「やはり、土筆組のほうが妙江様にお似合いですね」
途端に周りが静かになった。
妙江も善も茜里も、茅弥までもが。透緒子の顔を凝視する。何かまずいことを言ったかと朔灯を見ると、彼もまた、水鉄砲でも食らったかのような顔をしていた。
やがて。
「……似合う、か」
朔灯がふわりと笑う。皆もどことなく嬉しそうにうなずいた。
透緒子だけが流れについていけず戸惑っていると、妙江が丁寧に頭を下げた。
「本当にありがとう存じます、透緒子様」
初めて、客の口から直に礼を受け取る。
自分の頬にぶわっと熱があがるのを感じて、透緒子は慌てて顔を伏せた。
すると、透緒子の視界の端におかしなものが入ってくる。
庭から縁側へ、
縁側によいやっと庭ぼうきを押し上げた標霊は、一様に頬を膨らまし、その頬をほんのり赤に染めた。
「おにわ、しお、めっ」
「めーっ!」
小さな標霊のどこから出ているのかという大音声で叱りつけられて、あやかしも人もない。
鬼夫婦に茜里に茅弥が、大慌てで後始末に奔走し始める。
「ふ……ふふっ」
騒がしく、ほっとして、どこか滑稽で。透緒子はそんな光景につい声を転ばせた。
「ようやく笑ったな」
朔灯に言われて、「あ」と顔を覆った。けれど、かぶせた両手の下で、やっぱり「ふふ」とこぼしてしまう。
この屋敷は困ったことに、透緒子をあの手この手で笑わせようとする。
透緒子がどれだけ声を転ばせても、朔灯はいっさい咎めてこなかった。
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