第6話 魚より柚子より紐
◇◇◇
この世には、冷えていない朝餉があるのだ。
椀からたちのぼる湯気を、透緒子は箸も持たず目で追い続けた。
向かいの朔灯が
「何か、気に障ったか?」
「……めずらしくて」
湯気だけではない。ふわりとした香りが湯気とともに上がってくる。朝餉は温かいと、鼻まで満たすのか。
目の前の膳には、こんもりと盛られた白飯、味噌汁、何か爽やかな香りのする大根らしきもの、何かわからない菜もの、そして。
「魚が、朝餉に」
「そう、だが」
「魚が……」
「待て待て待て。日頃は何を食べている?」
「ですから、おにぎり……」
透緒子は両手で三角を作った。
瀬田の家を出るときにも尋ねられたが、朝餉といえば、おにぎり。夕餉にはおにぎりと汁物だ。
「それは瀬田での話だろう。その前は?」
「引き取られる以前のことは、ほとんど覚えていないので」
「……そうだったな」
朔灯と妙江が、同時に天井を向いてふぅーと息を吐く。
「妙江、魚をほぐしてやれ」
「承知しました」
透緒子のそばで控えていた妙江が、膳から魚の皿を下げて居間を出る。朔灯が箸を置き、透緒子の膳の真ん前にやってきた。
彼の太い指が、小鉢を順に指さしていく。
「これが柚子漬の大根だ。法蓮草の胡麻和え。今日の汁は張りきったな、秋終わりの野菜もろもろだ」
そこでパァンと障子が開いた。
「人参と白菜、豆腐に
頭に猫の耳が生えたおさげ髪のあやかしが、足音なく透緒子のそばに寄ってきた。躰が小さく、
「組師さ……じゃなかった。透緒子さま! 茜里のごはん、おいしいのよ。透緒子さまのおからだ、すぐにふくふくにしてあげる。こんなに細っこいんだもの。いっぱい食べて」
「これ! いけません」
気づいた妙江が戻ってきて、猫あやかしの後襟をつかんだ。
「いやぁー妙江
「せめて朝餉が終わってからになさい」
「ぶぅぅ」
小さなあやかし炊事番が、ずるずると妙江に引きずられていく。ぴんと立っていた耳がしょげて、後ろにへちょりと倒れる。
透緒子は急いで箸をとると、柚子漬の大根をひとつ口に放り込んだ。
「……おいしい」
口いっぱいを爽やかな柚子の香りが満たす。甘酸っぱさとこりこりの歯ごたえがいい。
思わず声に出すと、茜里が妙江を振り切り、ぴょんと跳ねるように戻ってくる。
「どれがおいしい!?」
「この、大根のが」
「ほかは!? ほかも食べて!」
透緒子の膝に手を乗せて、茜里が尋ねてくる。気圧されて、次は法蓮草、そして味噌汁に口をつけた。優しい味と、喉から胸へじんわりと広がる温かさが身体に満ちる。
「あったかい」
「おいしい!?」
「はい。とても……おいしい」
透緒子は口をすぼめ、ぎゅうとまぶたを閉じた。
「透緒子さま? 酸っぱいの?」
「どうなさいましたか?」
妙江の声と、皿を置くかたんという音を聞く。深呼吸をして再び目を開けると、丁寧にほぐされた魚が膳の上に戻ってきていた。
「つい、笑ってしまいそうで。危ないところでした」
「ええ? 変なの。どうして笑っちゃいけな――」
言葉途中の茜里の口を、朔灯の手が蓋して止めた。
妙江にひょいと抱えられて、茜里は「わーん」と声をあげながら障子の向こうに消える。
居間は朔灯と透緒子だけになり、急に静かになった。
「騒がしくてすまないな」
「……いえ」
「魚の火入れは、特に茜里のこだわりだ。あとで感想を伝えてやってくれ」
うなずいて、魚を口に運ぶ。今度はほどよい塩味とやわらかさにおそわれ、笑顔にならないよう眉を寄せて耐える。
温かい朝餉は、強い。あの手この手で透緒子に笑みをもたらそうとする。
透緒子の箸が進むのをしばらく眺めていた朔灯だが、やがて自分の膳の前に戻り、食事を再開した。
明るい部屋で誰かと向かい合わせて。それもまた居心地が悪い。この屋敷は、透緒子にとってぞわぞわと気持ちの悪いことばかりが詰まっている。
温かい食事は、最後のひとくちまで温かいままだった。
朝餉を終えると、ようやく透緒子の務めが始まる。真っ先に取り掛かるのは、妙江のための封じ紐だ。
客間の四方に、面隠しと同じ模様の描かれた和紙が貼られる。この備えと、昼間であること、朔灯が付き添うこと。以上三つを備えてようやく、透緒子の希望が叶えられることとなった。
透緒子の希望はひとつだ。面隠しを外してから、組紐に使う糸を決める工程――
退妖師のことはわからない透緒子だが、自分の目がいいことはわかっている。瀬田の家でも、板戸の裏から客を見て、ふさわしい紐を選んできた。瀬田の紐はどこか気が晴れると、客によくほめられた。もちろん、直接褒め言葉をもらうのは透緒子でなく沙夏だが。
「普通は、面隠しと仮紐で封じをつけた状態で撰糸するものと思っていたが。どうしてもなんだな?」
「はい。間違いない糸を選ぶには、どうしても」
朔灯が妙江の後ろに立ち、組紐をゆるめる。面隠しを外し、彼は妙江の肩を二度叩いた。
主の許しを確かめた妙江が、両まぶたを開く。
途端、都緒子の目に映る妙江の気がどぅと膨れた。
金の
その妙江の躰を包む赤。これは
丹色の炎は大きく
鮮やかな世界を見つめているうちに、くらりと頭が重くなる。畳が揺れているような、夢うつつに呼ばれるような。しだいに、透緒子は自分の身体が溶けていく気がした。それがとても心地よく、うっそりと目を細める。
そこで、ぱんっと乾いた音が耳を抜けた。
どんと身体が重くなり、汗が吹き出す。そばの文机に突っ伏して、ぜっぜっと肩で息を繰り返した。
妙江の面隠しを締め直した朔灯が、透緒子に駆けって背をさすってくる。彼の手が熱く感じられるほど、一気に全身が冷えた。
「少し
「……すごい、とても……きれい」
「は?」
透緒子は、自分を支え起こそうとしてくれた朔灯の両腕をつかみ、ぐいぐいと引っ張った。
「やはり白を四つ。青はもっともっと緑に寄せてやらねばなりません。妙江様の
「透緒子どの」
「そうだ、糸。糸はどれほど備えがありますか。できれば有り物で間に合わせるより、きちんと色をそろえたいのです。それに、せっかくなら妙江様が気に入る紋様で組んで」
「落ち着け、透緒子どの!」
ぐっと肩を押されて、舞いあがった胸の熱が少しやわらいだ。いつの間にか、目の前の美丈夫に言い寄るかのような、前のめりの姿勢になっていた。しかも、透緒子の両手は、朔灯の着物の前をぐっとつかんでしまっている。
朔灯が呆れた顔でこちらを見ている。透緒子は朔灯の着物から手を離し、すっと距離をとって正座した。
「あ……その、ええと。つまり。糸を、ください」
束の間の沈黙。
そして、朔灯の片眉がにゅっと上がった。
「ふ、く、はははははは!」
快活な笑い声が客間に響く。朔灯の後ろでは、妙江が袖で顔を隠し、肩を震わせている。
夢中になって無作法なふるまいになったことはわかる。それがなぜ、笑われるにいたったのかがわからない。
透緒子は途方にくれてしばらく待ち、朔灯の笑いの波が落ち着いたところで、おずおずと声をかけた。
「あ、あの……糸を」
「わかったわかった! 今ある糸をまず確かめてもらう。それで足りなければ、買い付けに連れていってやる。どうだ?」
合間にまだ含み笑いを挟みながら、朔灯はなぜか透緒子の頭をぽんぽんと雑に撫でてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます