第5話 互いの緊張
案内された客間の
瀬田の奥部屋よりずっと広く、畳はささくれのないきれいなもの。硝子窓のきわに、板敷きの
その椅子に座り、寝間着のすそからひざまで出して、妙江に足を洗われる。桶の湯はほどよい人肌で、冷えた足に染み込んでいく。
「屋敷の者が皆あやかしで、驚かれましたでしょう。人の使用人は今ひとりしかいないのです」
「は、はぁ……」
「洋室のほうがお好みでしたか」
「い、いえ。平気です」
「
「こ、たつ……」
「お嫌いですか?」
ぶんぶんと首を横にふる。
嫌いも好きもない。そもそも、炬燵が何かわからない。
物を知らないから、気遣いに満足な返事ができない。自分が情けなく、客人として大切に扱われるこの雰囲気が胸をひりひりさせて心地悪くなる。
「あの……紐を組みたいのですが」
しわがれた声が耳障りだろうとは思うが、務めをねだる。心地悪さから早く解放されたい。
それに、妙江の紐が昨夜のまま、間に合わせの仮紐なのが、どうしても気になる。
「妙江様の紐から始めればよろしいですか」
「お待ちください。これからでございますか?」
「組師として呼ばれたのですから、務めをはたします」
組玉に触れたい。透緒子がこんな心地悪さから離れるためには、一刻も早く絹糸が必要だ。
しかし妙江は、ゆるゆると首を左右に、否定の仕草を返してきた。
「申し訳ありません。今日のところは、先に
「せんり?」
「当家の炊事番です。今朝は張り切っておりましたから、どうかお付き合いください。まだ幼いあやかしですが、なかなかの腕前なのですよ」
歓待が強すぎる。黄金に輝くおにぎりでも届くのじゃないか。
透緒子は明るい広縁から逃げて、文机に向かう。
「それじゃ、朝餉が届くまでの間だけでも。紐を組ませてください」
「いえ、今からお召し替えを。そして、居間で主様とご一緒に朝餉となりますよ?」
「一緒に!? わ、私がですか」
「もちろんです」
事態についていけない透緒子を、妙江がずいずいと桐箪笥へ押して行く。
「今はわたくしどもの着物しかございませんが、近々透緒子様に似合うものをお見立てしますね」
面隠しの横から、にこりとする妙江の目が見え隠れした。
楽しげに引かれた箪笥の下から二段目。そこに詰められた上等な藤花の着物を目の当たりにして、ついに透緒子は「ひぃっ!」と叫んだ。
◇◇◇
朝から着込んだ重い軍服を脱ぐ。開国後、
朔灯は洋装を好まない。だが瀬田の家への脅しになればいいと、今朝はあえて軍服で出向いた。重厚な黒の装いには、そんな効能がある。
着流しに装いを替えてようやく、昨夜から続いた長い務めを終えた。
善が羽織りを投げて寄越す。片手で受け取り袖を通すと、カカッと笑われた。
「緊張してやんの」
「そんなことはない」
「いつまでも襟を直して、そんなこともこんなこともあるかい」
誤魔化せそうにないと苦笑する。朔灯が幼い頃から、当たり前のようにそばにいた善だ。朔灯の右腕。退妖師がもっとも信を置く、自身の遣いあやかし。『
あやかしを遣う者は
「初めの朝餉程度でつまづきたくなくてな」
「小難しい女を選ぶからだ。手負いの狐でもまだ可愛げがあらぁ」
「仕方がない。彼女を気に入ったのは妙江だ。壱の遣いの奥方がそう言うなら、分の悪い賭けぐらいする」
朔灯もすぐに察した。彼女は小難しい。記憶をなくしているのが肝だ。
傍目には虐げられていようとも、彼女の内に、今と比べるものがなければ気づかない。呪い子である負い目が、その無自覚をさらに強固なものにする。
惨めだと当人が自覚していれば、楽に説き伏せられるものを。
「あるいは……気づきたくないだけかもしれんが」
物思いに落ちた自分に、朔灯は苦い笑みをうかべた。
すると善は気まずそうに畳に寝そべり、面隠しを捲りあげて鼻面をかく。
「まぁ、なんだ。オレの嫁がすまん」
「気にするな。これで、年の瀬までに前の組師が作った紐五本は新調できる」
「年の瀬……
年の終わりに向かって、あやかしが力を持つ。十二月三十一日の夜は、一年の中でもっともあやかしが
明慈から天興の世にあらたまり、同時に、退妖師は
木火土金水。
五つの家がそれぞれを司る巨大な結界で、帝都を守ってきた。その調律が乱れ、今、あやかしが勢いづいている。
西洋伝来の四元素式、風火水土による護法は、帝都の霊脈とそりが合わない。どこかの分家を新たな金司として据えるかという話はたびたび上がるが、適当な家が見つからないままだ。
今年の百鬼夜行は荒れる。朔灯はそう見る。
妙江の組紐は、前任の組師が九月の終わりに替えたばかりだった。それが突然に切れるというのだから笑えない。あれが男鬼の善だったらと思うとぞっとする。
そんな憂いを抱えたまま、年の瀬を迎えたくはなかった。
「たった五本。志貴の名で命じりゃ、賭けずとも済む話だろう?」
「四大家の名を振りかざすのは簡単だが、気になってな」
「お、お? なんだ、情が湧いたか?」
「あんな平凡な紐屋に、
あやかしの気を細かに見通せる奇眼は、旧くからの退妖師の家系に多く生まれる。
奇眼を持たなければ、組師はただの組師だ。気を見極め、ふさわしい紐を組めなければ意味がない。
面隠しに籠めた封じの呪は、そのあやかしに合うように組まれた組紐とつないで初めて躰深くに届く。だから、強い奇眼は重宝される。
あの瀬田という家は、どこの傍系でもない。この西屋敷からそう遠くない組紐屋だが、朔灯はこれまで気にも止めなかった。店主の様子では、透緒子の奇眼に気づいてすらいない可能性もある。
「少し、調べさせるか」
姿見を前にもう一度襟をととのえる。
朔灯がふと傍らを見ると、善があぐらをかき、面隠しの下で口をひん曲げていた。
「つまんね」
「何を言う。俺が賭けるなど、そうそうないだろう?」
「オレぁ退妖師のあれやこれやより、主殿の惚れた腫れたを期待した!」
「ははっ! それは悪いことをした。今度は適当な嫁を連れてくるさ」
「嫌だね、大将が本気で見初めた娘じゃないんじゃ、志貴のあやかし総出で追い出してやる」
「……嫁の
朔灯は今年で二十六。縁談はいくつもあった。当主を継いでからは、他家にすすめられた候補をこの屋敷に招いたこともある。
ことごとく、遣いらが追い出してしまった。
「今までのは駄目だ。頭に詰まってんのが、志貴の金、筆頭夫人の座、主殿の顔、あと主殿の顔、そんでもって主殿の顔。ろくな女がいやしねぇ」
「自分の女房と同格を、俺の嫁に求めるな」
「カカッ! そりゃあそうだ。妙江よりイイ女はいねぇ」
てらいなく言う善に、朔灯は苦笑した。善と妙江を夫婦の手本にすると、自分は一生嫁を選べなくなる。
さて、と腕組みして善の横を通り過ぎる。使用人以外の誰かと朝餉をともにするのは、久しぶりのことだ。
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