第3話 美味しすぎる賭け
日頃から静かな奥部屋が、いちだんと静かになった。
その中で朔灯だけがそわそわとして、透緒子の手を握る。
「抱えの組師に
掘り出し物を見つけたいたずらっ子のような、無邪気な顔が透緒子に問いかける。
透緒子が何か答えるより早く、義母が声を上げた。
「ご覧のとおりの呪い子でございます。志貴の御一門がお許しになりませんでしょう」
朔灯は透緒子の左手を握って掲げ、「これか?」と青黒い痣を義母に見せつける。そして、ふっとせせら笑った。
「志貴は潔癖な家ではないから、この程度の
「この、程度……?」
「この程度だ。そもそも、なぜ医師を頼らない? こんなたいそうな屋敷をお持ちなら、帝都の医師にこの
「嫁入り前の娘の肌をさらせと!? この痣は、腹にまで及びますのに!」
義母が声を荒らげる。すると朔灯は透緒子の手を離して立ち上がった。廊下に座したままの沙夏に近づき、おもむろに彼女の着物のたもとをつまみあげる。
「娘と呼ぶわりに、ずいぶんと扱いに差をつけたものだ」
沙夏が腕を振り、たもとを引き戻す。沙夏の真新しい寝間着は、今どきの華やかな花柄。対して透緒子が着ているのは、たもとを何度も当布で繕った白無地だ。
朔灯の指摘に、沙夏も義父母も気まずそうに顔を背ける。
なぜ、この男は瀬田の家族を責めているのだろう。着物の差ぐらいで悪しざまに言う朔灯に、透緒子は胸が焦げるような不快を抱いた。
養い子、それも呪い子を、実の子と平等に扱えるはずがない。そんなことをすれば、いくら心根の優しい沙夏でも透緒子を虐げただろう。瀬田の家を守り、透緒子の身を守るために必要な差だ。
透緒子は両手をそろえ、あらためて畳に伏した。
「私はこの家に大恩があります。組師として、これまでどおり家業を盛りたてたいのです。どうぞお引き取りください」
がらがらと枯れた声で述べて、顔を上げる。朔灯は呆気に取られたような顔をして、それからくっくっとのどに押し込めるように笑った。
「大恩?」
「記憶のない呪い子を、十年もの間ここに置いてくださったのです」
「……なるほど。これは、教えがいいのか、諦めがいいのか」
朔灯は透緒子の正面に戻って腰を落とし、挑むような目を向けてきた。
「面白い。ならば
朔灯は指三本を立てて、透緒子に、それから義父に見せる。
「今日から
受ける理由がない。透緒子は肩を落として首を横に振る。
そこで、突然に。
目の前に絹糸の束を置かれた。
目が、糸束に吸い寄せられる。
地味に沈んでしまいがちな
これまで扱ったことのない、上のなかの上。頭の中で、これをどう組んでゆこうかと組玉がかんこん鳴る。
気づいた時には、透緒子は絹糸をつかんでいた。
「くっ、はは。透緒子どのを口説くにはこちらが早いか!」
我に返り、慌てて手を離す。
朔灯は「待て待て」と透緒子の左手を取り、糸束を握らせる。そして、手離すなと言わんばかりに、彼の大きな手で透緒子の手を包んだ。
「三月の間、同格の糸をいくらでも使える。必要に応じて買い足せ。金は俺が出す。務めの量も定めない。好きに組み、好きに休めば良い」
「でも……私はここでずっと」
「この最上糸は四大家でしか手に入らない」
うっ、と言葉に詰まる。
透緒子には何より強い誘惑。紐を組むより幸せなことを知らない。
「あなたが勝てば、期限の終わりに志貴伝統の組みを教える」
「それでも!」
「さらにこの糸を瀬田にも融通すると言えば? 多大な恩返しになると思うが」
あぁ、詰みだ。そう思った。
三月のあいだ他所で紐を組むだけで、この糸と新たな組みが手に入る。
どこをとっても旨味しかない。義母でさえ目の色が変わった。
「……道具は、持ち込めますか」
おずおずと尋ねる。この部屋の隅には、紐を組むための道具がまとめて置いてある。
箱には糸巻き――組玉が、小さいもの二十四個、大きいもの八個。それに
「かまわない。馴染みの道具でなければ落ち着かないだろう。他には?」
透緒子はぐるりと奥部屋を見回し、首を振った。
「なにも」
「……そうか。それは身軽だな」
朔灯は部屋の隅に行くと、組玉の入った箱の上に組台を乗せた。箱を左手で抱えると、今度は右手の指を曲げ伸ばしして、透緒子に来い来いと命じる。
言われるままに立ち上がり近づくと、直後、透緒子の身体がひょいと抱え上げられた。
「え!?」
畳から浮いた足をばたつかせている間に、
「何を食わされたらこんな軽い身になるんだ」
「……おにぎり」
「まぁ……旨いな。握っただけで旨い。あれは魔性だが、もっと旨いものもあると知れ」
朔灯はそのまま大股で中廊下へ進み、ぽかんと口を開けた義母、沙夏、義父の前を順に通り過ぎる。最後にくるりと回って義父に
「朝から騒がせたな。三月の間、お預かりする」
「志貴様、まさか……本気でございますか?」
「無論」
そして、瀬田家一同に背を向けて歩き出した。肩に担がれた透緒子は呆然として、遠くなっていく瀬田の家族をぼんやり眺めた。
「と、透緒子……」
沙夏の顔に、ほんのりと
「今あなたが家族と思っているものの顔を、よく覚えておけ」
「三月で家族の顔を忘れはしません」
「そうではなく、な。まぁ、三月の間にあなたが自分で気づくといい」
歯切れの悪い物言いに、透緒子はわからないままうなずいた。そうしているうちに朔灯は店から土間に下りて、履物を引っ掛ける。なんと、軍服に
外では男鬼が木塀に寄りかかり腕組みして待っていた。朔灯がその鬼に、組台の乗った木箱を渡す。
「
「他にどうしろと?」
素足が土に触れる。ざらりとした感触に驚いて右足を浮かせた。もう長いこと、この足は畳と板敷きにしか触れていない。
「あー! お嬢さんの履物が無いじゃないか。そういうところ、嫁が来ない
「
たかだか自分の履物ひとつで喧嘩が始まっては困る。透緒子は今出たばかりの土間に戻りかけて、はたと足を止めた。
透緒子が使う履物は、この家にない。
急に自分が頼りないものになった気がした。くらりとする感覚に急いで蓋をして、頭の中で組玉に糸をかける。そして、いちばん手慣れた八津組の玉の手順を浮かべる。心を落ち着けるにはこれが早い。
鬼が指を笛にして甲高い音を鳴らした。
しばらくして、面隠しをつけた狐が空から降りてくる。
音もなく地に足をつけ、狐は瀬田家の前に伏せた。透緒子の奥部屋を満たせるほど大きい。その背中に軽々と跳び乗った朔灯は、透緒子に手を差し伸べた。
「おいで」
胸をつらぬかれた。
初めてだ。
初めて、透緒子という存在が誰かに乞われ、招かれている。
一瞬ためらってから、彼の手をとる。
透緒子が座るのは、朔灯の身体の前。馬にふたり乗りするような格好で狐に乗る。
狐の首に巻かれた
狐はむくりと起き上がり、三歩ほど駆けた後、ふわりと地面を離れる。
「ひ……」
「怖いか?」
「少し、だけ」
「それは良い。透緒子どのには刺激が必要だ。顔を上げてみろ」
言われるまま前を向いて、瞬きも呼吸もしばらく忘れた。
山の影は黒緑。その稜線から煌々とした日が顔を出し、世を照らす。雲は赤墨に白に茶鼠に黄金と、いろどり豊かに。日は白く、空は
空だ。そう思った。
ふと振り向くと、十年を過ごした瀬田の家。
上から眺めれば、透緒子の奥部屋は屋敷に無理やり貼り付けたようで不格好だ。
母を亡くし記憶もあやふやな八歳の透緒子を引き取ってすぐに、義父母はあの奥部屋を作った。
透緒子の痣を皆がおそれた。顔から首、腕に腹まで、身体の左側を覆う痣は、あやかしから受けた呪いだと言われた。
それでも、透緒子を世話してくれた。朝餉も夕餉も、寝床も着物も与えられた。たくさんの恩を受けた。いくら感謝しても尽きない。そのはずだ。
紐を組んだ。
瀬田の家が引き取ってくれたのは、透緒子が組師だから。
それだけが、透緒子の価値。
向こう三軒両隣ですら、透緒子を知らない。呪い子がいると知られては、瀬田の組紐が売れない。屋敷のいちばん奥の小さな部屋で、生みの母から教わった組紐をひたすらに組んだ。
絹糸を巻き付けた組玉をかっ、こっと鳴らして。玉を入れ替え、糸と糸を絡めて紐を組んでいく。年を経るうちに、与えられる糸の質が良くなって、色味が豊かになっていった。透緒子の紐は、瀬田の家業に役立っていると思えた。
それで良かった。他に何を望むこともない。
――良かった、はずだ。
透緒子の頭に朔灯の手がぽんと乗って、くいっと進む先を向かされる。
「あなたが今見るべきものは、こっちだ」
あ、と。
透緒子は声にならない声を空に溶いた。
瀬田の家で与えられた奥部屋からは、空が見えない。十年たって透緒子はようやく、あの部屋に明かり窓のひとつも無いことに気付いた。
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