あめふる大陸 第2章

第三章 頬伝わる言葉



 琅関、賊国、しきじんげんこく紅来こうらいしんかい……俗に『七雄しちゆう』と呼ばれる七つの国。

 琅関帝はそれを統一支配しようとたくらんで、手始めに琅関の山脈にある、それまで未開だった湛水の街を手中に収めようとした。

 側近の娘だった私は奴を止めようと、必死で説得を試みた。なぜだかわからないけれど、まずいことが起きてしまうと直感したんだ。あれこれと言葉をかえて、でも、私の思いが皇帝に届くことは無かった。

 本当にそれがきっかけかどうかは、わからない。だが、奴が湛水を侵攻した時期を境に、神龍が人間界に姿を現すことは無くなってしまった。世界は干ばつに苦しみ、街の様子も人々の心も、確実におかしくなっていく恐怖は忘れもしない。

 奴もまた、おかしくなっていたひとりだった。後で聞いた話では、皇帝家に忠節を誓っていた龍使い――つまりは私の父に責任を問うといきなり言い出したらしい。

 ……どういうことか、もうわかるだろう?

 ある日、父は仕事に行ったきり帰ってこなかった。


 私は失望した。もう、どうすることもできないのだと。

 それから私は、父が大切に持っていた龍使いの瓶が皇帝の手元にあることを知った。ものすごい怒りが腹の底から沸きあがるのを感じて、奴から瓶を奪い返すことを決めたのさ。

 盗みが成功するとははなから思っていなくて、私も父親と同じように処刑されるのだろうと覚悟して行ったのに、気づいたときには宮殿から脱出したあとだった。

 街を抜けて最初に私が見たのは、干からびた人間の死体の山だった。それを見た途端に死ぬのが怖くなって、私はこの瓶だけを頼りに各地を逃げ回った。生への諦めが、いつの間にか生への執着に変わっていたんだ。

 最初は、岩とか草花なんかを水に還元して喉を潤していた。しかし、すぐにそれでは足りなくなった。

 生身の人間を使えば、一度に大量の水を得ることができる。そう知ったときから、私は龍使いの娘のユンファではなくなった。そこにいたのは、必死で生にすがる人々から無情に命を奪う、ただの化け物――。

「その気になれば、生き残った人々を渇きから救うこともできたはずなのに……」

 言葉の端を少しだけうわずらせて、ユンファは俯いた。まだ何か言おうとしていた。

 私は焦って、続きを遮ろうとする。これ以上、彼女を喋らせてはいけない。そう、第六感が告げていた。

 気づいてはいけないことに気づいてしまうような。

 眠っていた化け物が目覚めて、暗闇の中をゆっくりと這いずり寄ってくるような、そんな感じ。

「たぶん、――」

 正体不明の恐ろしさをかわすのに必死だったから、そう叫んだ口の両端が引きっていることに気づかなかった。

「たぶん、誰も、間違ってはいなかったんだよ」

 焚き火の音が、一瞬だけ遠くに聞こえた。

 陽炎の向こうにいる少女と目が合う。驚いた顔をしていた。

 瞬間、我知らず駆け出していた。いや、逃げ出したと言った方が正確かもしれない。

 自分の口から出た言葉のはずなのに、意味がわからなかった。

 辺りはすでに真っ暗になっていた。


  *


 明かりの完全に届かない場所まで来てしまってから、どうして逃げ出してしまったんだろう――とぼんやり考えていた。透明な風がさらっていったみたいに、あのおぞましい感覚は駆けている間に消え去って、幻だったのかと思うほどだ。

 ひとりになったのは、久しぶりだった。

 気持ちを切り替えるために深呼吸して、再び歩み出す。

 こうしてひとりぼっちになると、故郷の湛水にいた頃を思い出す。夜風が肌寒く沁みるこんな夜は、鈴虫やふくろうがわびしげに鳴いているものだった。私はそんな些細な音色が好きで、どこからともなく聴こえてくる音の主たちと会話ができたらいいな、なんて思いながら、毎晩のように小さな声で歌を唄っていた。唄っていると、街や自然がひとつになって、心地よい律動が生まれていくようで。

 それが今では、朽ちかけたあばら屋の戸を風がときおり揺らす音以外、何も聞こえてこない。

 消えそうに佇む月を見上げ、ゆっくりと口ずさんでみる。

 フォン、ジュオ、ニィナ、サン。イーツァン、ミ、ムーティル、ピオ……。

 水守り族の言葉だ。響きは人間のそれと似ているけれど、単語も文法も全然違う。幼い頃から聴かされてきた水守りの歌は、最も自然と調和する音で、大地や植物や空、そして水を唄う。懐かしい旋律に、不思議と心が凪いでいく。でも同時に、後悔も湧いた。こうして全てを失うことになるのなら、色々なものをもっと大切にしておくべきだった、と。


 小道からさらに細い路地に入って、ふと立ち止まる。森へ続く林道を右にそれた辺りに、大きな箱のような何かがあるのを辛うじて認める。小屋かな、と私は呟いた。道はすぐそこで途切れており、波打つような起伏のある地面だけがそこに残っている。

 いつか見た景色にもこんなものがあったな、と途端に懐かしくなり、吸い寄せられるように動く。そして、すぐそばまでたどり着いた。力を込めて引き戸を開け、中に入ると、埃っぽさとわずかに残った木材の匂いが鼻をくすぐった。

 部屋には保存食と狩りに使うような弓矢、さらに簡素ながら寝台もあった。ユンファのもとに帰るのはなんだか気が引けて、ここに居てもいいかと思い直す。身体を少し伸ばして横になると、なんだかこのまま眠ってしまいたくなった。

 そうしてしばらく眠気に身を預けていると、思考の遠くから、夢の続きが手招きしているように感じられた。今度は思い出すことを怖がらなくてもいい気がしたから、そっと手を取る。

 指先がじわりと温かくなる。

 その温もりは、あの人のものだった。


  *


 湛水が戦いに巻き込まれたあとのこと。

 大きな人に担がれてたどり着いたのは、見たことも無い立派な街だった。

「やだよ。帰りたいよ」

 腕の中で、身じろぎをしながら訴える。口を塞がれた。息の通り道が無くなって苦しく、私はまた涙目になっていた。

 気を失っている間に、硬い服を着ていた人たちはボロボロの恰好に着替えていたらしい。数人で、石壁のそばを誰にも見つからないように早足で歩いていく。

 そうして、街の隅にある小さな家に入った。木材の床が軋む音を立てて、部屋に入れば隙間風が吹いてくる。

「怖がらせてすまなかった」

 椅子の上に私を降ろしながら、大きな人は穏やかに笑う。

「ねえ、ここはどこ。帰りたい……よ」

 私はもう一度言った。また口を塞がれるかなと思ったが、彼は眉尻を下げて、私を抱きすくめるだけだった。

 すまない、と低い声が繰り返す。

「残念だけどきみは、もうあの街には居られないんだ」

 不気味に燃える黒い炎が、頭の中に広がった。その中で街は跡形も無く壊れている。

「みんな、は」

 私は涙をポロポロと零していた。

「……きっと救われるよ。大丈夫。だから、それまではここで暮らすんだ。いいかい」

 言いながら、親指で涙を拭ってくれた。そうして彼は子守歌のように続ける。

「寝床も、食べ物も、きみが望めば何でも用意しよう。言葉だって好きなだけ教える。それに、何があっても守るから。だから、約束してくれるか」

 私は彼の両目を見上げた。彼は再び顔を耳もとに寄せて、囁く。

「決して人には見つからないように。特に、皇帝は何を考えているかわからないお人だ。それだけ、どうか」

 言葉の意味はよくわからなかったが、止まらない涙のせいで何も言えなかった。うん、と頷く。

 その日からしばらくのあいだ、私は言われた通りにその家で暮らした。私を連れてきた大きな人は、皇帝のもとで龍使いという仕事をしているらしく、留守にしていることが多かった。本当の家は別にあって、ここは倉庫として使っていたところだと言っていたのをなんとなく覚えている。

 龍使いがいない間は、使用人という人たちに世話をしてもらっていた。人間語もたくさん覚えた。故郷に帰れないのは寂しく、眠れない夜を過ごすことも何度もあったけれど、それでも新しい生活は楽しかった。

 龍使いは時々帰ってきて、その度におみやげをくれた。思わず目を丸くしてしまうようなものばかりで、なかなか外に出られない私にとっては全てが新鮮に思えた。

 それから、数十日も経たない頃だっただろうか。

龍使いが突然、姿を見せなくなったのである。

それからほどなくして、私も皇帝の部隊に捕まった。「誰にも見つからないように」という、龍使いとの約束を破ってしまったのだ。


それから、皇帝――琅関帝と、私は初めて会った。

広間で謁見することになったとき、なぜだかとても怖くて何度も逃げ出したくなったのを思い出す。しかし、実際に現れた皇帝は深々と頭を下げたまま、いつまでも顔を上げようとしなかった。やっと私の方を見たかと思えば、その瞳は力なく濁り、頬は死体のように青白くやつれている。

茫然と見上げる幼子を静かにまなざすと、語った。

 おまえたちの一族に、私はとんでもない仕打ちを働いてしまった。そのせめてもの償いに、とっておきの場所をあげましょう、と。

 

 朱や金色で、装飾された天蓋。色とりどりの花。横になった私のそばに座るその人は、こうして近くで見ると思ったより老けているな、という印象だった。

「この寝室は、もとは私が妹のために造らせた部屋だ」

 妹、と聞き返すと、彼はそうだと優しく頷いた。

「妹は昔から、いつも病気で寝込んでいた。それにも関わらず芯の強い子で、大陸を統一して平和な世を築いてほしいと、事あるごとにそう訴えてきた。私は国中の医者を集めて彼女を診させたが、それでも妹が生気を取り戻すことは無かった。それで造ったのがこの寝室だ。この部屋の空気には常に新鮮な水がめぐっていて、ここに居ればこれ以上病気が悪化することは無い……、そう思っていたのに」

 琅関帝は、そばに飾られていた深紅しんくの花を手に取ると、おもむろに握りつぶした。瞬時にバラバラになった花弁は骨の浮いた指から、まるで血が滴り落ちるように零れていく。

「今や、世界から神龍は消えた。今になってやっとわかったが、それは、私が湛水を無理やり支配しようとした結果だ。世界を司る湛水を攻略すれば、『七雄』は、世界は私の下でひとつにまとまるに違いない、そう信じていたんだ、愚かな私は。それで彼女との約束を叶えられるのだと」

 ひと呼吸おいて、彼はどこか吹っ切れたように淡々と語った。

「そのとき、この計画を止めようと説得してきた者がいた。それは龍使いの娘で、意志の強い、まっすぐな目をした少女……しかし、その時の私は聞く耳を一切持たなかった」

 何て言って跳ねのけたと思う、と訊いてきたので、私は考えた。

「『誰も間違ったことはしていない』と。彼女の失望した顔が今でも忘れられなくて、ひどいことを言ってしまったのだと随分経ってから気づいた。情けない話だ」

 彼は哀しいため息をついて、貼り付けた笑みで自嘲する。

「そして、私はさらなる過ちを犯した。神龍が消えたのを、側近だった龍使いのせいだと勝手に疑って、殺めてしまったのだ。龍使いから瓶を奪って、自分が代わりに神龍を呼び戻すことができればよいのだと。

 そのくらい何としてでも、……何としてでも私は、この過ちを無かったことにしたかった。能力が無いにも関わらず、だ。それがどれほど愚かしい考えなのか、当時の私にはわからなかった。今考えれば、正気を失っていたのだと思う。結果、瓶は何者かに盗まれてしまったし、飢え渇いて死んでいく民たちを救うことさえできなかった。全て私が悪いのだ」

 俯いて静かに懺悔ざんげする皇帝の横顔は、いたたまれなくなるほどに惨めだった。私は寝そべった姿勢のままで目を閉じ、そして、ふたりがここで巡り会った運命のいたずらに思いを馳せる。

 私はこの人に、故郷の街を焼かれてめちゃくちゃにされたはず。それなのに、恨みの感情は不思議なくらいに浮かんでこない。――違う。恨み方も、憐れみ方も、わからないだけだ。だから、私は彼を恨むことも憐れむこともせず、ただそばにいるだけだった。それしかできなかった。

 ――ねえ、わたしはどこへいくの?

 気づけば、そう口に出していた。

 僅かに開かせたまぶたの隙間から、そっと様子を窺うように再び見上げる。彼は少し表情を緩めて、答えた。

「どこへでも。好きなところに行ったらいい」

 確かにそう、言った。

 皇帝の手が顔に近づく。空気を漂うとろりとした湿気が、その声を妙な響きで鼓膜へと伝える。

 最後の水守りであるきみに、残りの全てを託そう。

 幸せな夢を見たまま死ぬか。地獄と化した世界でもう一度生きるか。どちらを選んでもいい。選択の権は、おまえにある。どうか、私がこれ以上の罪を重ねることを許してほしい……。

「――おやすみ」

 かさついた手が、なぞるように額を撫でた。甘ったるい眠気に誘われて、また意識が遠のく。ぼやけた光の中で最後に見えた彼の顔は、もはや一国の皇帝のそれとは思えなかった。自分で自分を罰する前の、全てを受け入れたかのような表情。覇気の無い瘦せこけた頬はただ、疲れたように、笑っていた。


  *


 全身の肌が何かを感じたように粟立ち、その上から荒い吐息が被さる。驚いて目を開くと、そこにユンファの顔があった。身体にかかる重みにあわてて視線を動かすと、ユンファが寝ている私の上に馬乗りになっていた。

「ユンファ」

 反射的に身体をよじった瞬間、私たちはもろとも床へ転がり落ちてしまう。がらん、という音がして、短剣が落下するのが視界の端で見えた。

「ユンファ、どうしたの。しっかり!」

 彼女は息が荒く、その目は底知れない狂気に憑かれていた。這いつくばったまま、鬼のような形相でこちらを睨みつける――と、その場にうずくまった。長い髪と両手で顔を覆い、うう、と苦しそうに呻いている。

 私は彼女の背中をさすりながら、その名を何度も呼び続けた。呻き声はだんだんと弱々しい嗚咽に変わり、やがて激しい慟哭どうこくとなった。

「ごめん、違うの」

 泣きながら、ユンファはそう繰り返した。激しく声を上げて感情をあらわにする様はまるで別人のようで、私は当惑してしまう。落ち着いて! となだめつつ背中をさすり続けるくらいしか、私にはできることが思いつかなかった。

 喧嘩の後の子どものようにしゃくりあげながら、やがて彼女は話してくれた。

「ねえ、私、ジウを殺そうとした」

 ごくり、と唾を呑み、傍らに視線を投げる。そこには役目を果たすことなく、無力に転がった一本の剣。

「――どうして」

「……信じられなく、なった。ジウのこと、味方に……思えなく、なった。だから、うっ、疑って、……っ、それで……」

 薄い唇から再び嗚咽が漏れ、彼女は顔を覆ったまま絶叫した。

「同じなんだ。私も、あの皇帝も! 何の罪も無い人を、疑って! 殺して! あああああ……!」

 ユンファの手が瓶を引っ掴む。しまった、と直感したときにはすでに遅かった。瓶は絶叫の勢いのままに床へ叩きつけられ、無残にも粉々に散ってしまったのだ。

 はっ――と息を呑む音が、辺りを静寂へと引き戻す。彼女は泣き腫らした顔のまま、茫然と立ち尽くしていた。壮麗な龍の立ち姿はガラスの破片となってあちこちに散らばり、薄汚れた木材の床はびしょ濡れになっている。その異様な光景を見て、自分が何をしてしまったのか遅れて気づいたようだ。

「今、私――何を」

 掠れた声が呟き、ユンファはとうとう崩れ落ちてしまった。我に返り、あわてて駆け寄る。伸ばした手で何とか抱き止めた。

 胸元で、また荒い息づかいが聞こえた。震えていたから、それが止まるようにと腕の力を強める。今、私にできることは、何だ。思考は脳内を駆けずり回るが、正解は見えない。聞こえない。私は彼女の肩越しに、息を吸う。闇の中で言葉を探す。

「……皇帝は、自殺したんだ」

 咄嗟に出たのは、あまりに的外れなセリフだった。

「あの人は、自分のしたことを悔やんで、悔やんで……食事もとらずに痩せ細って、最後には私ひとりを生かして、静かに死んでいった」

 おぼろげな微笑が、脳裏を過ぎる。月明かりを閉じ込める水も、散らばったガラスの欠片も、今は残忍なまでに、綺麗だ。

「すごく、優しかったんだよ。だから」

 不意に、ふっと笑った。もちろんわざとではなく、無意識だ。

「大丈夫」

 こんな細い腕では、あまりに頼りないかもしれない。それでも、

「大丈夫」

 こんなことしか、言葉をかけることしかできない自分が情けない。ユンファはまだ震えていた。

「大丈夫」

 こんな無力な自分には、言葉しか、言葉しか無い。だからこそ、


「大丈夫。――きっと救われる」


終章 遥かなる幻想郷



 北西から南東へ、大陸を縦断するように伸びる山脈は、夜明けの訪れを少しだけ勿体ぶっているようだった。ようやく顔を出したまばゆい朝陽は、板壁を乱雑にくり抜いただけの窓から差して、埃っぽい部屋の中をほのかに白く照らしている。

「おはよう」

 私は努めて明るく笑ってみせた。まるで何事も無かったかのように、昨晩の出来事など忘れ去ってしまったかのように。

 あの事件の後、ユンファが自分の寝床に戻っていくことは無かった。うずくまったまま動かないので、私は寝台で眠るよう何度か勧めたけれど、彼女は拒否した。ひとりだけ横になるのはなんとなく気が引けて、私も板壁に寄りかかって眠り、長い夜の終わりを待っていたのである。

 ユンファは寝ているのか起きているのか、相変わらず黙ったままで膝に顔をうずめている。相当、ショックを受けているようだ。私の精一杯の慰めが少しでも彼女の傷を癒せたのか、どちらにしても彼女を元気づけるには全く無力だったのだ。

 思い返せば昨晩、私が彼女にあんなことを言ってしまったのが彼女を傷つけてしまったのかもしれないと悔やまれる。私には、詳しいわけを訊くことすらできないが。

 誰に聞かせるでもなく、私は息をつく。

 私たちの挑戦は失敗した。たとえすぐそこの山に湛水の街があったとしても、飲み水無しであの断崖絶壁を登るのは無理だろう。そして、仮に登り切れたとして、街に着いたら何かが変わるという保証もないし、私たちがやがて干からびて死んでいくという運命は揺るがない。まして、そこの山に行けば湛水にたどり着けるというのだって、ただの勘でしかない。『大丈夫』の根拠などあるはずが無いのだ。

 世界の復活など幻想にすぎないことも、自分が死ぬのにそう時間がかからないことも、旅の始めの段階ですでにわかっていた。それでも、一縷いちるの望みをかけてここまで歩いてきたのだ。もう一度故郷に会いたい、と。むしろ、こんなに遠くまで来れたことが奇跡だと思う。

 行こう。心からそう思った。たとえ無駄足に終わったって、その先で行き倒れになったって、ユンファの気を紛らわすことくらいはできる。何より、彼女がこれ以上思い詰める姿を見るのは嫌だった。

 まだ言葉にできていない気持ちが山ほどあるから、ひとつずつでも渡していけたらいい。そうしたら、最後の頼みを彼女は聞いてくれるだろうか。

「――ユンファが本当の思いを伝えてくれたことが、嬉しかったんだ。何よりも」

 私はいつになく真面目に言ってみる。部屋の隅が僅かに反応を見せた、気がした。

「だからさ」

「……行かない」

 くぐもった声が小さく呟くのを聞く。布の隙間から微かに覗く瞳は、床に散乱したままのガラスの破片を映し出していた。

「もう世界は救えない。それに」

 彼女は、すっと目を伏せた。か細い光が消え、黒い睫毛が影色の中に沈む。

「……私には、もうおまえと旅を共にする資格が無い」

「そんなことないよ。行こう」

 ユンファは頭を振って、そんなことなくない、と言った。

「殺されかけたんだぞ。私のことが信じられなくなって当然だ。おまえにとって、私がいない方が本当は都合が良いんじゃないのか」

 彼女は畳みかける。再び顔を上げたその目からは、苦悩や激情が今にも溢れ出しそうだった。それを受け止めてあげるだけの覚悟を、私は今ここで示さなければならない。それができるかどうか。

「人間の感覚はよくわからないけれど――、」

 ひとつ息をして、彼女の方へしっかりと向き直る。

「私はユンファを信じている。これは私からユンファへの頼みなんだ。だからさ」

 私は、いちばん大切な最後の頼みを彼女へと告げた。力強く、できるだけまっすぐに。重い陰の中でうずくまった少女はしばらく動かなかったが、ついには砂色に埋めた顔をこくんと縦に振った。

 私はもう一度微笑む。旅の終わりはすぐだ。


  *


 何重にも張り巡らされた獣除けの柵を越えて、集落の外に出る。平原をしばらく進むと、低く立ち並ぶ岩の結界が見えた。ユンファによれば、おそらくこの岩は禁足地を示すものだということだ。

 積もった砂から頭だけを出した岩は、山脈の裾の輪郭をなぞる形で等間隔にどこまでも並んでいた。ユンファは手近なひとつから砂を払いのけつつ、独りごとのように話す。

「昨日話したように私の父は龍使いで、側近として琅関帝に仕えていた。その関係で私も幼いときから奴と顔見知りでな。遠く南の紅来の着物をもらったり、宴席に呼ばれたりと何かと贔屓ひいきに……要は、大切にされてたんだ」

 えっ、と声が漏れる。ユンファがそういうふうに皇帝のことを話すのは初めてだったからだ。彼の話をするときに決まって見せていた苦虫を噛み潰すような表情も、少しだけ柔らかくなっている。

 その表情のまま、ユンファはため息をつく。朝陽に照らされた横顔が少しだけ、その陰に光を溶かす。

「昨日おまえが私に言ったことが、皇帝に昔言われたことと重なる部分があって――」

 すぐに、謝らなくていい、と遮られた。どうやら心は読まれているようだ。口をつぐんだ私を見て、それからユンファは黒い睫毛を伏せて言う。

「だから、あの時みたいにまた裏切られてしまうんじゃないかと怖くなって、そうしたらもうどうしようも無かった。気づいたときには抑えきれずにあんなことを――。本当に、悪いことをした。たとえおまえが私を殺したって、もう何も文句は言わない」

 彼女は語ったが、冗談を言う口ぶりではなかった。

「な――……」

 何言ってるの。私は怒っても恨んでもいないし、味方でいるに決まっている。と、叫びたいことがいくつも浮かんでは消えて、結局何も言わなかった。きっと今なら、言葉にするまでも無いだろう。

 岩に覆い被さっていた砂が一通り落ちると、彫られた文字のようなものが浮かび上がった。ユンファは手を払いながら屈んでそれを凝視する。

「この先の土、何人たりとも踏み入るべからず。掟破りし者には、神の鉄槌あるべし。……か」

 ユンファはすらすらと読み上げたが、私には全くわからなかった。

「どういう意味なの?」

「……さっさと行け、ということだ」

 ニヤリと笑った。それなら禁足地でも何でもないじゃないか、と突っ込みかけて、私も笑う。並んで結界の中の土を踏むと、心地よい爽籟そうらいが白い砂と一緒に吹き上げていった。


 人が滅多に踏み入れない山は獣道さえまばらで、頂上に行けば行くほど急峻きゅうしゅんな崖になっている。どの経路で登るのがいいだろうかと話し合いながら、私たちは徐々に山道へと進み出した。

 緩やかに続く坂道は次第に勾配を増して、やがて足が痛み出すのに時間はかからなかった。ふたりのあいだに交わされる言葉の数は次第に減っていき、肌寒さが一段と増す中腹を越える頃には、私もユンファも無言でひたすら歩を進めていた。太陽の方角と、後ろを歩くユンファの様子を時折確かめながら、枯れ木だらけになった道なき道に分け入っていく。

 喉が渇いた、なんて口に出そうものなら、急に限界が来て死んでしまいそうな気さえしていた。せめて頂上にたどり着くまでは耐えていなければならない。そのためには、ひたすら時間と体力とに賭けるしかなかった。

 両足と、乾燥した手のひらとで身体を支え、一段上の空間まで這い上がろうとする。露呈する木の根に指をかけようとした瞬間、風が舞い上げた砂を思い切り吸い込んでしまった。渇いた喉の奥に砂が張り付く経験したことの無い苦しさに、むせ返りながら嗚咽してしまう。

「ジウ」

 声がした。涙目のままで振り返ると、後ろの方でユンファが跪いていた。よく通る声だから近くに感じただけで、思っていたよりも距離があることに今さら気づく。

「この先は、ひとりだけで行けるか……」

 そう言った次の瞬間、唸りとも叫びともつかない声を上げて、彼女が苦しむ。

「どうした」

 崩れかけの急勾配から滑落しそうになるのを何とか耐えていた私は、あわてて身を翻す。長い髪をかき乱したユンファは、顔を紅潮させ、滝のような汗を流している。

「最後の水を、おまえ、に……早く!」

 違う、汗じゃない。水だ。恐ろしくなって彼女の右手を見ると、その中から鮮血が滴り落ちていた。ガラスの破片を握りしめていたのだ。

「ユンファ 何やって――っ」

 私はユンファの手に指を突っ込んでガラスを掴む。そして、一息に奪い取った。噴き出した赤い血が勢いよく宙に舞う。彼女は空になった右手を押さえ、掠れた声で訴えた。

「人間の身体は極めて多くの水から成っている。私は、自分が生き延びるために多くの人を殺して水を奪ってきたんだ。そう言っただろ」

 城で、無造作に打ち捨てられていた人々の骨。彼女が奪ってきた命。それが背中に当たって軋む音が脳内で再現された。水を完全に絞り取られた人間の成れの果てがあれだとするならば、彼女は。

「……それを返してくれ。その罪を、今ここで償わせてくれ」

「何言ってるかわかんないよ!」

 限界まで声を張って、喚く。確かに彼女は罪を負っているかもしれない。だが、そんなことを許すわけにはいかなかった。そんな理屈は身勝手だとわかっているが、構わない。

「ねえ、行こうよ。せっかく、ここまで来たんだよ。今いなくなってどうするの。街、もうすぐだからさ」

 自分でも何を言っているのか曖昧で、それでも伝わってほしいと懸命に祈る。そうしてユンファの反応を待つより先に、私はその手を取って歩き出していた。視界にはもう何も入ってこない。持っていたはずの瓶の欠片は、いつの間にかどこかへ行っていた。


  *


 いったいどのくらい登ってきただろう。体力が限界を越えて指先が痺れ出した頃、永遠のような勾配は急に終わりを迎えた。尖った山の頂点はすぐそこが崖になっていて、その先が不自然なほどに深くえぐれている。

 山の頂点から垂直に掘り下げられた谷は、淵から覗くと深い奈落の底のような様相を呈していた。間違いなく、ここが湛水の街だ。

 くたびれた足を止めると、私は街を見下ろした。

 あれだけ待ちわびていた瞬間なのに、湧き上がってきた感情は喜びとは少し違っていた。ただ、ほっとしていたのだ。

 言葉も無いまましばらく立ち尽くして、それから、一歩ずつ谷の奥へと踏み出した。落ち着いた心とは裏腹に、砂を踏む足がガタガタと震えている。

 ゆっくり、ゆっくりと私は街へ降り立っていく。

 ふっくらと熱をもっていた土は渇いた砂に変わり、水に沈んでなお腐らない豊かな木々も、今は力尽きたまま無力に佇んでいる。笑い声にあふれていた街並みさえ、跡形もなく灰となり消え去っていた。

 意識が朦朧としはじめ、痙攣けいれんする足を引きずりながら、懐かしさすら消えた街を私はただ歩き続けた。身体は熱く、五感さえあるのか無いのかわからない。

 がくり、と膝が不格好に曲がり、私はそのまま崩れ落ちた。見上げると、ユンファと共に登ってきた山が空を切り取るようにそびえている。ふと思い出して辺りを見回すけれど、ユンファの姿はすでに無い。

 ――ああ。

 笑った。今、あの皇帝と同じ顔をしているのだろうか。

 ああ、全て幻想だったんだな――。

 夢見ていた美しい街も、駆け上がる神龍の勇姿も、知らず知らずに取っていた彼女の手も。もう、ここには何も無い。

 いつの間にか、涙があふれていた。身体はとっくの昔に干上がっているというのに、不思議と後から後から流れてくる。頬を伝い、渇いた世界にひとつの水溜まりが生まれる。私は、それを他人事のように眺めていた。

 ひとしきり泣いてから、目をすがめて見る。ふと、谷に吹き込んでくる風の向こうに、砂色の外套が見えた気がした。たぶん、幻だろう。それでも私のもとに再び現れてくれたのだから、ちゃんと話しておかなければ、と。そう思った。

 膝は震え、もう立ち上がることすら叶わない。代わりにこの距離でも届くように、喉の奥にめいっぱいの力を込めて呼びかけた。

「ねえ、ユンファ」

 影は振り返って見つめてくる。表情は、見えない。

「きみが私に力を貸してくれたのは、どうしてだろうと思って」

「……利害の一致だ」

「そうなのかな」

 嘘だ。

 本当に世界を救いたかったのなら、私が目覚める前に彼女はひとりでもここへ向かっていたはず。

 世界のことなんか、どうでもよかったんだ。本当は。

「私がここへ帰りたがったから、協力してくれたんだよね」

 ユンファは何も言わず、そっぽを向いた。私は確信する。彼女は肯定しなかったが、否定もしなかったのだ。

ありがとう、は何か違う気がして、代わりの言葉を探す。気の利いた表現を見つけられるほど、私は人間語に長けていなかった。

 ああ。幻想でも、何でもいい。

 だから、これだけを願う。

「いつまでも共にいられたら――なんて」

 微笑んで、手を伸ばす。ぼやけた視界は白くかすみ、強風が吹き込む街の真ん中で、そっと目を閉じた。


  *


 水の波打つ音がする。

そこにいる私は、鳥が空を駆けてゆく要領で、深く澄んだ水の中を自由に泳ぐ。清らかな青を湛えた街には、束の間の白昼の光が柔らかく降り注ぎ、生い茂る木々の葉からは零れそうな緑が輝く。どこからともなく聞こえてくる明るい笑い声は、質素ながら暖かい街並みにいっそう華を添える。

 私はあの時、地獄と化した世界で生きることを選んだ。今度は、幸せな夢を見たまま死のうと心に決めた。

 今、自由だ。

水を蹴って、一度、二度、旋回する。

 その時だった。

 波の向こう側に、揺らぐひとつの影が見えた。私は目を凝らして、水をかき分けながら近づく。

 そして、驚いた。

 影の正体は、脱力してぐったりとする人だったのだ。ふとその手を見ると、水かきがついていない。人間がなぜここに、と思ってから、はっとした。

「ユン……ファ?」

 頭が真っ白になる。血の気が引いていくのが自分でもわかった。

 夢、じゃない?

 思った瞬間、水が勢いよく渦を巻いた。それが蹴った水だと気づいたときには、すでに私は一心不乱に駆け上がっていた。外套にくるまったままの身体を腕に抱える。

 水守りと違って、人間は水中では息ができないのだ。

 恐ろしさで狂いそうになりながらも、片腕だけで必死に水をかき、水面までの最短距離を目で測る。

 頼む、持ちこたえてくれ。

 もう何が何だかわからず、翻弄された頭は激しく混乱していた。それでもなりふり構ってはいられず、ユンファを抱きながら全力でもがく。彼女は目を閉じて全身を脱力し、気を失っているようだった。

 間に合わない。そう直感したときのことだった。

 ふと、身体が下の方から持ち上げられる感覚がした。水流、と思った瞬間、底からの激しい波が轟音を立てて私たちを飲み込む。

 街が揺れ動く。

 私は叫んだ。まるで全て飲み込んでしまうような、巨大な水の、生きた塊。力強い咆哮は山を揺らし、世界にその存在を響き渡らせるように広がっていく。私はユンファを離さないようにいっそう腕に力を込める。透き通る急流は私たちをとらえ、やがて勢いよく崖の淵へと放り出した。

 泥の混じった水に押し流されて、私は山の斜面を滑り落ちた。何とか止まろうとして地面を掴んだが、あちこちを擦りむいてしまう。黒い空からは大雨が降っていた。

「ユンファ!」

 滝のような雨に打たれながら姿を探す。それから、立ち上がって走り寄る。襤褸(ぼろ)のようになった砂色の外套は、弱々しく蠢いてやがては私の方を見た。

「……この野郎。私が泳げないの知ってるくせに、目を離しやがって」

 目つきは怒っていたが、その声は微かに笑っていた。その様子に思わず吹き出してしまう。体力なら少しは残っているはずなのに、なぜか震えすぎて立つことができない。

 ばーか。紅い唇が動きだけで怒鳴るのを、見ていないフリをして、私は空を見上げる。雲が切れて光の注ぎ始めた夕焼けの彼方に、大きな大きな透明の龍が、どこまでも天高く泳いでいた。

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あめふる大陸 / 双月意沙 作 名古屋市立大学文藝部 @NCUbungei

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