Ex1
「初めまして」
突如としてそんな言葉を彼は聞いた。
気が付けば、周囲が一変している。
薄暗い空間――視線の先にはゆったりと腰かけた青年が、柔和な笑みを湛えている。その背後にある横長の窓にも見える長方形から、淡い光が照らしていた。明かりとしては心もとなく、ただ青年を妖しく強調している。
長方形の中に映っているものは、きらびやかな光を抱えた、星空より眩しい見覚えのある街の夜景だった。ただ、こんな角度からの街の姿は見たこともない。
先ほどまで幾人かの議員たちと会議も兼ねた昼食を摂っていた彼は、口の中に残った昼食の味が苦くなるのを感じる。サンドイッチに挟まっていたレタスの繊維だろう。その奇妙な感覚から、この状況がいくらかの現実味を帯びていることを確認する。
飲み込もうとすればするほど、現状が何を意味しているのかが分からなくなり、頭は困惑に満たされていく。現実的であるはずなのに、受け入れがたい。
無意識のうちに左右を見渡して、より詳細を得ようとしたとき、彼はまた声によって遮られた。
「時間はいくらでもあるのですが――」
どうやら先ほどの「初めまして」も含め、声の主は目の前の青年であるらしい。見た目よりは大人びている。
「時間は限られているものでもあります」
彼は何を返せばいいかわからず、口ごもる。聞くべきことがいくらでもある気がするが、何から問うべきなのかを選びかねていた。青年の容姿とは無縁にも思えるような圧力のようなものを感じている。
「見ていただきたいものがあります」
青年は立ち上がり、長方形の窓へと歩を進める。
「こちらへ」
促されてようやく立ち上がる。動かす首、腕、腰、脚が自分のものであることを確かめるようにゆっくりと歩いた。
改めて窓の先に見える景色は自分が先ほどまでいた街を映していた。手前には凪いだ海が広がっている。想像した通り、ここは海の上らしい。ただ、足元を覗こうとしても、この空間を支える構造物は見当たらない。そもそも彼の記憶からすれば、こんな場所に、こんなふうに街を見ることができるものなどなかったはずだった。
加えて、時間帯も記憶にある直前の会議室での昼食とはまるで異なっている。昼間はこんなにも黒い空ではなく、ビルから漏れる様々な明かりが目立つものでもない。
「これからあなたが見るものは、ひとつの未来です」
青年はまた受け入れがたい言葉を放つ。「未来を見る」という言葉にどんな比喩が込められているのかを必死に考えようとしていた。
しかし、思考は音と光によって遮られた。
雷だった。紫の光が窓の中の上空で瞬き、雷鳴を響かせている。窓には水滴がぽつぽつと当たっては、尾を引いていた。
彼はただその光景に釘付けになる。雷が珍しいわけではない。ただ、状況が彼をそうさせていた。それほど目まぐるしいわけでもないが、彼にとっては整理すべき情報が多すぎて、思考がショートしかかっていたのだ。彼は見ているというより、瞳孔の裏側に光景を張り付けているに過ぎなかった。
だが、突如として眼を閃光が襲う。眩しすぎる光に反射的に瞼を閉じ、地響きにも似た轟音に肩をびくつかせる。
思考は今までの全てを捨てて、彼に雷が落ちたことを理解させ、本能的に危険信号を感じ取っていた。
数秒経って目を開けると、そこには変わり果てた街の姿があった。
ビルの隙間からもうもうと煙が上がっている。それを照らすのはボウと燃え上がる火だ。夜に落ちた巨大な篝火のような炎が、怪物のごとく鎮座している。
一瞬、こんな大きな火災があっただろうかと過去に思いを馳せ、青年が言った言葉を思い出した。
「未来…………」
ぽつりと、気づけばこぼしていた。
「はい。これが、あなたが、あなた方が歩む未来です」
なにを――と考える。意味するものを考えようとして、他にも考慮すべきものが多すぎることに気づいて思考が止まる。
「わたしがこれを見せた意味は決して警鐘ではありません。警告です。きっと防ぐ手立てはないでしょうが」
青年を見る。青年は街の様子など気にしていないかのように彼を見ていた。
「本日、あなた方に布告を意味するメッセージを送ります。そこに書かれた内容に従わなければ、あなた方の街はこうなるということです」
「それは――」
ようやく彼はまともに口を開いた。僅かに戻り始めていた思考の渦から引っ張り上げた言葉を離さぬようにと。
「それは、私にこれを防ぐ役割をしろと?」
「いいえ、違います。言ったでしょう、防ぐ手立てはきっとないと。確かに、送られたメッセージに従えば防ぐことはできるでしょうが、それはどうあっても今のあなた方では不可能なのです。なにせ、あまりにも不合理で理解しがたい内容でしょうから」
「では、なぜ」
「まず、最初にあなたの考えを否定することから。先ほども言いましたが、警鐘ではないのです。私は別にあなた方の行く末を案じて、こうしてあなた方の未来に起きる出来事を知らせているのではない。私が伝えようとしているのは、ただの事実。これを引き起こすのは私の意志ですから。ただ、知ることで、あなたは今後、心境に変化が起きるでしょう。私にはその変化が必要だった。だから、こうして知らせているのです」
「なぜ、私に?」
「矢面に立たされるからです。あなたの意志に関係なく」
「矢面?」
「ええ。あなたがこれ以降のこの社会の旗振り役になるのです」
「それは、どういう――」
「さあ、もういいでしょう」
青年はすべてを伝えたと言うように、彼の視界から外れる。遅れて彼は追い、薄暗い中に浮かんだ彼の顔を改めてまじまじと見た。
確かに、彼の顔は優しさを帯びている。それこそ、彼が今さっき話した内容とは似てもにつかないほどの、好青年の要素をいくつも見て取ることができる。だが、同時に青年はどこか疲れ果てているようにも見えた。なにかを諦めたかのごとく、ただ事実を受け入れているように。
しかし、その顔が、彼の見た最後の青年の姿だった。気づけば、彼は明るい白色の光に包まれた見慣れた会議室にいた。嗅ぎ覚えのあるコーヒーの香りが鼻をくすぐる。咄嗟に見た時計の時刻は進んでいないように思えた。
白昼夢を見ていたのかと、自然と食事を再開するために、彼の目の前に置かれたカップを手に取ろうとした。しかし、その手は震え、うまくつかむことができなかった。
名前のない神話 十 七二 @10s_
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