僕が死んだ後の話
桐生甘太郎
僕が死んだ後の話
昨晩はとても疲れた。僕は通りすがりのトラックに自転車の前輪を引っ掛けられて、転んで強かに頭を打ってしまった。
病院に行こうかとは思ったが、今日も仕事だったので、そんな暇は無いと思い、そのまま帰宅した。
帰った時に、泥々の服について妻は文句を言い、僕は「事故にあったんだぞ!?心配くらいしろよ!」と言い返してしまった。
妻と喧嘩になったので、僕は夜遅くまでリビングで動画サービスで映画を観て、彼女が眠ってからベッドへ入った。
今朝起きると、妻はもう居なかった。“早くに寝たんだから、当たり前か”と布団から出てリビングへ行くと、彼女はリビングのテーブルに突っ伏していた。
眠っているのかと思い近寄ったが、途中で彼女が鼻をすするのが聴こえた。泣いているのだ。
「おい、何かあったのか?」
これを切っ掛けに仲直りが出来るといいなとは思ったが、僕だって、事故に遭ったのに気にかけてもらえなかった悔しさはまだあった。
でも、僕が声を掛けても彼女は顔を上げない。だんだんと彼女の泣き声は苦しそうに高まっていき、その内に「嗚咽」と言えそうな程になった。
何も言わず泣き続ける妻が少し薄気味悪く、「どうしたんだ」と何度声を掛けても、僕は無視された。
朝食を摂るはずの時間、妻は顔を上げずにテーブルで泣いていたので、僕は鞄を背負って仕方なく会社に向かった。
今日もうちの近在は満員ラッシュになんかならない。通勤に使っている列車には暖かい朝の光が差し込んで、人々は眠たげに椅子に座ってリラックスしている。
ところが、あとひと駅で降りようとしていた時、なぜか僕の膝に男性が座ろうとした。慌てて僕は退いて、勢いあまって車内の床に尻餅をついてしまった。
「な、何するんですか!」
思わずそう口をついて出たのに、男性はこちらを見もしないで、悠々と席に座っている。周りの乗客も、僕達の事は気にしていないようだった。きっと他人事だと思っているのだろう。さっきまで連帯感を感じていた僕が馬鹿みたいだ。
車内にはもう座れる場所は無かったので、僕は降りる駅で階段の近いドアを選び、その前に立っていた。
会社に着いて、入り口の読み取り機に社員証をタッチしようとしたのだが、なぜか弾かれてしまい、僕は入れなかった。
「おかしいな、昨日までちゃんと…」
僕はすぐ横の受付に居た田中さんに声を掛けた。
「田中さん、僕の社員証、読み込めないみたいなんですが…」
そう言ったのに田中さんは顔を上げず、長い髪を片耳に掛けただけだった。
「あの、すみません、僕の部に電話して欲しいんですけど」
僕と田中さんは顔見知り程度ではあったし、彼女は僕の居る部署がどこなのか位は知っていた。でも田中さんは、隣にいた橋本さんとお喋りを始めたのだ。
なぜ無視されているのかは分からなかったが、当てにならないなら自分でやるしかない。僕はポケットからスマホを取り出し、部長へ電話を掛けた。
コール音は12回。仕事の出来る部長が珍しく遅いなと思った。でも部長は電話に出てくれた。
“……はい?”
どうも遅い返事で、部長は少し様子がおかしかった。僕の部で何かあったのかもしれない。
「すみません、部長。僕の社員証が玄関を通れなくて…」
そう言いかけたのに、僕は電話を切られた。
「えっ?」
ブツッ、という音の後に、ツー、ツーと電子音が続いて、僕は何が起こってるのか、訳が分からなくなった。
これじゃ僕は会社に入れない。仕方なく僕は、荷物運搬用の出入口を使おうとした。
裏へ回って用務員室の前を通ったが、顔を知っている社員だったからか、僕は呼び止められずに済んだ。まあ、呼び止められたとして、社員証を見せればいい話だけど。
でも、エレベーターのボタンを押しても、全然エレベーターが降りてこない。
「やだなぁ、こっちも故障か?」
誰かを呼んでまで、そのエレベーターに乗ろうとは思えなかった。だって僕は表玄関から入るべきなのだから。
仕方なく会社前のベンチまで歩き、僕は腰を下ろした。
もう一度部長に電話を掛けたが、もう彼は出てくれなかった。
“もしかして、知らぬ間にクビにされたとか?”
そんな不安が過ぎったが、どう考えても現実的とは言えなかった。社員本人の意にそぐわない理由でクビになる事すら少ないのに、本人が知らない間に解雇されるなんて、聞いた事が無い。
でもなぜか部長は電話に出てくれないし、受付嬢も僕を無視した。
僕は嫌な気分になり、会社の敷地を飛び出し、散歩を始めた。
景色が豊かで、風光明媚と言って良い所に、僕が働く研究所は立っている。秋の田畑は黄金色に輝く稲穂の波を湛え、夕陽が差す頃にはキラキラと輝いた。冷たい風がぴゅうと吹いたので、僕はやっと家に帰る気になった。
帰宅したら、もしかしたら妻に叱られるかもしれないと思っていた。僕に責任は無いにしても、今日は出社をしてないのだから。
僕は玄関から上がり、元通りに自分の家へ帰ってきた。
“そういえば、彼女は今朝ずっと泣いていたが、どういう訳だったんだろう?”
僕がそう考えていると、リビングから話し声がしてきた。大勢の声と、妻がまた泣いている声が聴こえる。
「どうした?客人かい?帰ったよ」
そう声を掛けてリビングへ入ると、そこに居たのは、僕の父母や姉弟と、妻だった。
その場にはただならぬ異様な悲しみが留まり、その中で妻はまた泣いていた。
「しっかりしな。お前さんの事は悪いようにしないし…」
僕の父はそう言って妻の肩をさする。
「いいえ、お父さん。そんなんじゃないんです。あたしが悪いんです」
妻はなぜか首を振って自分を責めた。その脇に僕の母が居て、僕の姉は心配そうにその様子を見守り、弟は泣いていた。
「そんなはずはない。早く供養をしてやれば、きっとあいつも悪くは思わないさ」
「いいえ、お父さん…」
“供養!?誰か死んだのか!?”
僕は混乱して、話に入ろうとした。
「なあ!どうしたんだ!死んだって誰が!?」
僕は驚いて声を上げてしまったが、誰も返事はしなかった。全員が緊迫した空気だから、返事をするのが遅れたのかと思ったが、誰も僕の方を見もしなかった。
僕は分かってしまった。
“僕か…?”
自分は、今朝から全員に無視されてきた。おかしいおかしいと思っていたが、死んでいるなら、何のおかしい事も無い。幽霊が見える人間はとんでもなく限られている。
妻はきっと、僕との最後の会話が口論で終わってしまい、僕の死を防げなかった事で、すっかり落ち込んでしまっているのだ。それを父や母が慰めている。
妻は天涯孤独だったので、頼れるのは僕の親類筋だけだった。だから僕の家族達を呼んだのだ。これから僕の葬儀が行われるのだ。
“待ってくれよ…”
僕は恐怖を覚え、思わずこう叫んだ。
「待ってくれよ!僕はここに居る!まだ居るんだ!」
自分の体が燃やされ、今ここにいる僕などではなく、灰になった僕の骨に向かって妻が手を合わせて、また泣くのを想像した。
“僕は?僕は何も出来ないのか?まだここに居るのに!”
何も出来ない事など分かっているし、もう自分が帰る場所も行く場所も無いのに、僕は自分の寝室に入った。そこに僕の体は無かった。多分、病院にあるのだろう。僕は家族が妻を慰めている横で、冷蔵庫に向かった。妻はいつもメモを冷蔵庫に貼るのだ。
震える文字で書かれた電話番号のメモがある。
「瀧川先生 XXX-OOOO T市厚生病院」
そうか。ここに僕の体はあるのか。そう思って僕はちらと妻を振り返り、泣き続けている彼女を見てから、家を出て歩いた。
道道僕は、色んな者に話し掛けられた。みんな死んだ奴らだった。多分そうなんだろう。
「おじさん、おじさん」
子供の声に振り向くと、彼女は目をぴかぴかさせて喜んだ。僕が振り向いたので、仲間だと分かったんだろう。
「おじさん、見てて!」
子供は歩道から飛び出し、車道を走る車へ向かっていく。僕は思わず止めようとしてしまったが、車が通り過ぎると、女の子は何にもなかったように元の場所に立っていて、得意げな顔をしていた。
「危ない遊びは、しちゃダメだよ」
なんとなくそう言うと、彼女はにこにこ笑っていた。
駅前ロータリーには、なぜか幽霊が集まりやすいのだろうか。ロータリーに流れ込んでくる車をすり抜ける幽霊、歩いている人を脅かしているのに、誰にも気付かれない幽霊、コンビニの自動ドアが開かない事を面白がっている幽霊など、五人ほどに出くわした。その全員が僕に興味を示す訳でもないらしい。
周りの幽霊など気にしない奴も、どうやらこちらと話をしたがっている奴も、両方居た。でも、僕は病院に行ってからにしようと思ったので、「なあ」と話しかけてきた中年の幽霊には「後でここにはまた来る」とだけ言った。
幽霊とは、気楽なものだ。もし初対面であっても、もう生身の体などなく、何をどう失敗しても、命や体、責任や立場に危険が及ぶ事は無い。だからなのか、誰に対してもさほど警戒心無く過ごせる気がした。もちろん、僕とコミュニケーションが出来る人は限られるけど。
やっとこ市の厚生病院の正面入口に着いて、僕は玄関の自動ドアをすり抜ける。ちょうど出入りしている人が居なかったから。
霊安室はどこだろうと探す時、なんとなく“すぐに見つかるだろうな”と思った。
薄暗い廊下を歩き、地下への階段を探すと、見つけた階段の一番上の段に、おじいさんが座り込んでいた。
その寂しそうな佇まい、ずっとそうしていたんだろうに誰にも止められていなかったような様子から、僕はもう、彼も“仲間”だと分かっていた。
しかし、今死んだばかりでショックを受けているのかもしれない他人の世話をしている暇は、僕には無い。だから、そのおじいさんの隣を、なるべく普通の人間の顔をして通り過ぎようとした。
「あんた、今、私を避けたな」
“しまった”と、そう思った。確かに僕は、一歩右へ出て、階段の左端に座っているおじいさんを避けていた。避けるなんて、居るのを知ってると言うのと同じだ。
“長話にならないといいけど…”
「ええ、すみません。今少し、急いでいるもので…」
そう言えば解放してくれるかと思ったが、おじいさんは横を向いてため息を吐き、喋り始めてしまった。
「長い人生だった。でも、後悔ばかりだ」
“仕方ないな。少しだけ付き合おう”
幽霊になると垣根が無くなって、仲間意識を持つのはよくある事なのか、このおじいさんも僕に親しげに、悩みを打ち明けた。
おじいさん曰く、人の為、相手の為、親の為、子の為と心を砕き、体に鞭打って生きてきたが、死んだ途端に、自分は自分の為には何一つしなかった事にやっと気付いたのだと。
僕はおじいさんに心から同情したが、彼に何も言えず、「そうですか…」と消極的に頷くしか出来なかった。でも、おじいさんはそれを分かっていてくれたのか、「何、これからもう何も無いとも限らないからな」と言っていた。
霊安室は灯りが落としてあったが、僕が入り口から入ろうとした時、パチンと電灯のスイッチ音がして、灯りが点いた。
「あ…」
明るさにびっくりして声を上げると、傍にあったストレッチャーに座って腕を伸ばし、電灯を点けたらしい、入院着の小さな男の子が居た。
その子の入院着は首から下が真っ赤に染まり、血を吐いた後のようだった。
「電気、つけてあげたよ」
「あ、ありがとう…」
なんとなくその子を避けづらくなってしまった僕は、一瞬、自分の体を探すという目的を忘れていた。
「おじさんも、死んだの?」
その子は手の爪をぷちんぷちんと弾きながら、僕にそう聞く。
「うん、そうなんだ」
その子もおじいさんと同じく、僕に最初から好意的に喋りかけてくれた。
「おじさんのママ、居る?」
「うん、いるよ。まだ生きてる」
家で妻を慰めようとしながらも、自分も涙を流していた、僕の母を思い出した。
「そっか。おじさんのママも、かわいそうだね」
「…そうかもね」
そこで男の子は顔を上げ、ぽかっと口を開けたまま僕を見た。
「でもね、待ってればまた会えるよ」
僕はその時、硬直してしまった。その男の子が何を言うのか分かったからだ。男の子は下を向いて、一度爪を弾いた。
「僕ね、ここで、ママを待ってるの。きっと会えるよ」
そう言ってくりくりの目を細め、男の子は僕を見て笑った。僕は「そうだね」ともなんとも言えず、霊安室の壁に向かっていくその子の背中を見ていた。
でもその男の子は、遺体を収容してある扉の内、一つに手を掛けた。どうでもいいが、彼は物に触れるらしい。幽霊にも上等か下等かの区分けでもあるのだろうか。
「ほら、おじさんの」
そう言って男の子がうんしょうんしょと扉を引くと、そこには僕の体があった。
鏡には、今の自分が逆向きに映る。しかし、僕は今、立っていて、目を開けている。僕の目の前にある僕の体は、じっと黙って目を閉じ、横になって動かない。
僕は、自分の体がもう自分の物ではないとしっかりと分かった。
すると途端に、それを見ているのが気味が悪くなって、“病院に行ったら、自分の体に触ってみて確かめるか”と思っていた事も忘れてしまった。
僕の存在は、もう肉体を離れたのだ。僕自身の棲まない肉体は、ただの肉の塊だ。それを僕は悟って、男の子に「もういいよ」と言った。
病院からの道道、“成仏しなかったら、どうなるんだろなあ”と考えていた。
これから僧侶が施す供養があって、それでも僕がこの世に居着いてしまったら。駅前ロータリーで、人を次々脅かしては空振りに終わっていた、あの幽霊のようになるのか。
“それも楽しいかもしれないな。たまには気付いてくれる人も居るんだろうし。幽霊同士なら話も出来る”
僕は奇妙に前向きで、なんとなく、家族が塞ぎ込んでいる家に戻る気にはなれなくて、駅前に戻った。
そろそろ夕暮れ時で、さっきより幽霊が増えた気がする。やはり夜に活発になるんだろうか。
「お、新顔。さっきはどこに行ってたんだよ」
そう言いながら近づいてきたのは、初めに駅前ロータリーを通り過ぎた時に話し掛けてこようとした、毛むくじゃらの人だった。
「病院に」
僕が返事をすると、本当に僕が幽霊で、人と喋れるのが嬉しかったのか、彼はもじゃもじゃの頭を掻きむしって笑った。
「病院?何しに行ったんだ?自分の体に戻ろうとでもしたのか?」
「いえ、そこまででも…ただ、体を確認しに行ったんです」
そう言うと彼はくるりと後ろを向き、片手をこちらに見えるようにぷらぷらと振った。
「あーあー、それは誰しも通る道だな。俺もやったよ。死んだなんて、言われたって分かんねえもんだ」
僕はなぜか、そう言われるのが、悲しくも悔しくもなかった。自分もそんな思いをしたからだ。
僕は歩き出した彼の後についていく。
「それで、あなたはこの辺りをお住いにしているんですか?」
「おうよ。大体ここいらぶらついてるな」
「そうですか…」
そこで僕は、ずっと誰かに聞きたかった気持ちを、彼に聞いてみる事にした。
「あの、僕達は、幽霊ですから…もう、叶えられる物も、満ち足りた生活も、ないんでしょうか…?」
しばらく彼は何も言わなかったが、振り向かないままでこう言った。
「墓場の供え物なら、煙草も吸えるし、酒も飲めるぞ」
それは慰めのつもりだったのだろう。だが、僕の頭の上に、大きな石がドンと落ちてきたように、目の前が真っ暗になった。毛むくじゃらの幽霊は振り返る。
「やり切れない気持ちは分かるけどな、こうなった以上仕方ねえ。俺達にはもう“今の自分”しかねえのよ。続いていく生活の為にへーこら働く事もねえし、下げたくない頭を下げる必要もねえ…」
その時彼は僕を見ていなかったが、横を向いて目を伏せた彼の表情は、とても義務の無い生活を楽しんでいるようには見えなかった。
僕はその時、“家に帰って妻の様子を見なければ”と思った。
「ただい…まって言っても、誰も聴こえないか…」
口にしかけた“ただいま”を独り言の内に揉み消し、僕はリビングに入った。でもそこには妻は居なくて、僕の両親だけが居た。
「なあ、お前、そんなに泣くな」
父は、泣いている母を慰めている。
「だって、あの子も
「でも、医者の話では、夜の内に眠るようにだって言ってたじゃないか…苦しみがなかった事だけは救いだと思おう…」
「そんな事言われたって…!」
母さんの涙はもっと激しくなった。僕だって泣きたかった。
“苦しみがなかった”
たとえそうであっても、僕は幽霊になって、家族や友人と引き裂かれてこの世に放り出されたんだ。こんな事ってあるもんか。
「父さん…母さん…父さん…!母さん…!母さん…!」
繰り返し二人を呼んでも、彼らは互いに支えようと身を寄せ合っているだけだった。
でも、僕は華子の様子を見に来たのだしと、家の中を探したが、華子は居なかった。弟の
“華子と龍二はどこに行ったんだろう?”
僕がリビングのテーブルを見ると、そこには葬儀屋のパンフレットが置いてあった。街で一番大きいホールを持っている所だ。
“ああ、とうとうお別れか…”
僕の体は燃やされ、遺骨を拾い集めたら、家族もまた散り散りにそれぞれの生活に戻るんだろう。
僕の心には冷たい風が吹き、だんだんと一人ぼっちになる時が近付いているのが悲しかった。
翌々日の晩、僕の体は葬儀屋へ送られ、僕は自分の葬式を見ていた。
棺に収められた自分の体などもう見なかったけど、訪れた人は皆それを見て泣いていた。
“泣いてくれる人は居るけど、僕を見られる人は居ないんだろうなあ”
そう思っていたのに、弟の所の一番下の子が、よちよち僕に寄ってきた。
萌ちゃんは明らかにこちらを向いて指を指し、「おじちゃん、見つけた」と言って、僕に近づこうとした。でも、その萌ちゃんを弟が抱きとめて席に戻らせようとする。
「こら、静かにしなさい」
「だっておじちゃん、あそこにいるよ」
「ああ、わかってるよ」
龍二は多分、棺の中にある僕の体についてそう言ったんだろう。だが、萌ちゃんは僕が見えていた。もしかしたら、小さな子供は見えやすいのかもしれない。
僕はよっぽど萌ちゃんに手を振りたかったが、それをすると萌ちゃんが気味悪がられるだろうと思って、時たま泣いていた妻の華子へと目を戻した。
火葬場に運ばれる自分の体になんか、もう未練は無かった。だってそれはすでに僕ではないのだ。僕ならここに居る。でもそれは誰にも分からない。
龍二が萌ちゃんを抱きかかえていたのは通夜の時だけで、翌朝僕の体が旅立つ時に萌ちゃんは居なかった。
僕は誰にも話し掛ける気にならなかったし、その空間で何を言う気にもならなかった。誰にも見えないし、聴こえないからだ。
骨になった僕を見て泣き崩れた華子を見ていた僕は、彼女が僕との別れを惜しんでくれるのが嬉しいはずだった。
でも本当は、後ろに居る僕に気付いてくれなかった彼女が泣いている姿を見ているのが、虚しく、寂しかった。僕は葬儀屋の建物を出た。
「よう」
葬儀屋の玄関前に、あの毛むくじゃらの人が居た。僕は驚いてちょっと立ち止まる。
「なぜここに?」
「通りがかりだ。このへんぶらついてるって言っただろ」
それはどうやら本当のようだった。
「で?成仏出来なかったらしいな?」
からかわれているのに、僕は悲しくなかった。彼も同じだとは分かっていたからだ。
お経を読んでいた僧侶はもうとっくに帰ったのに、僕はまだここに居る。つまり、そういう事なんだろう。
「気にすんなよ。何を未練に思おうがもう何も出来ねえのは確かだが、何もねえわけじゃねえ」
「そうでしょうか」
「おうよ」
僕は、すぐに幽霊としての生活に馴染めるか分からなかったし、そこに何があるのかもまだよく分かっていなかった。でも、“後悔をなぞるだけなのだろうか”と怯えていたのは確かだ。
僕には明確に後悔らしき後悔は無かった。あるとするなら、華子を置いていく事だ。
その時、後ろで葬儀屋の自動ドアが開いた音がした。振り返ると、僕の遺骨が入っているのだろう箱を抱え、華子が出てきた。僕の母に肩を支えられながら。
「華子…」
毛むくじゃら幽霊は一歩引いて僕から離れ、僕は華子が横を通り過ぎるのを、目で追っていた。
深い悲しみに暮れた華子の目は、薄暗く光を灯さず、まるで何も見えていないようだった。
華子は、玄関前の駐車場にあった車の後部座席に乗り込み、運転席には龍二が座っていた。彼らはそのままそこを出ていく。僕はすぐに彼らを追いかける事は出来なかった。
遠目に車が見えるだけになってから、毛むくじゃら幽霊は近付いてきた。彼は何も言わず、ぼーっと立ち尽くす僕の後ろに立っているようだった。
“僕はどこへ行こう?”
そう考えるのが怖かった。家には僕の居場所がまだ残されているだろうけど、それは“悼み続ける”という形だけで、華子はもう僕を見てくれないだろう。
“それでも、華子の傍に居たかったな”
僕は毛むくじゃら幽霊にその場で別れを告げ、自宅に向かった。
「
僕は、自分の体の一片に向かって謝っている華子の後ろに立っている。
華子があんまり謝るから、僕はなんとかして、「君が悪かったわけじゃないんだ」と伝えたかった。でも、出来なかった。
華子は昼食も夕食も食べずに、僕の遺骨を抱いていた。
その晩華子は、夜中の二時にやっと眠った。すっかり憔悴して疲れ切った彼女は、服も着替えずベッドに倒れ、真っ赤に腫れた瞼を閉じた。
眠っている彼女を見ていて、僕はどうしても彼女に伝えたい事を、夢の中に滑り込ませられないか、試してみた。
「華子…」
そう呼んでみると、彼女の瞼が、ぴくっと一瞬引きつった。
「僕は、君のせいで死んだわけでもない。君を置いていって、本当に…ごめんよ…」
そう言いながら、僕も泣いてしまっていた。
華子は眠ったままだったけど、彼女の呼吸は安らいでいたので、僕は表に出て、暗い通りを歩いた。
「やあ」
話し掛けてきた見知らぬ幽霊に、僕も「やあ」と返した。彼は挨拶をしただけだったのか、僕の脇をすり抜けていった。
そこらじゅうに、僕の仲間が居た。
時々は自宅に帰るかもしれないけど、僕はもう幽霊として生きていくしかないのだろう。それはもしかしたら、辛いのかもしれない。
でも僕には、幽霊生活に飽きて悲嘆に暮れても、その時にも寄り添ってくれる仲間が居るだろうと、もう分かっていた。だから、あまり怖くなかった。
“駅前はどんな事になってるかな。きっといっぱい居るだろう”
そう思って少しウキウキしてくる足取りで、いくら歩いても疲れなくなった僕は、駅前ロータリーにまた向かった。
おわり
僕が死んだ後の話 桐生甘太郎 @lesucre
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