第2話

「君達か。」

 転生院の院長室の椅子に座っているその少女は、半ばうんざりしている視線を翡翠の少女と瑪瑙の少女に向けた。彼女は指に黄色のガーネットであるトパゾライトの指輪をはめている。

「言っておきますけど私は」

「わかってる。疑ってない。」

 翡翠の少女が言い終わるのを待たずにトパゾライトの少女が返答した。時間が無い。それがトパゾライトの少女の本音だった。

「院長は今どちらに。」

「私が院長だ。」

 トパゾライトの少女にそう言われて翡翠の少女は察した。責任は誰かが取らなければいけない。

 と言っても前院長の母方の祖母は当代皇帝の姉である為酷い目には遭わないだろうが。

 所詮経歴を飾るだけに配置されていた置き物。どうなろうが知った事ではない。それよりも本題に入らなければいけない。

「首謀者の目星はついているのですか。」

「全く。組織的脱走なのか、偶然なのかすら不明。脱走者達の同級生達を一人ずつ尋問しているが何も成果は出ていない。」

「冒険者達に任せるというのは。」

 翡翠の少女の提案をトパゾライトの少女は受け入れなかった。

 冒険者。

 肩書を文字通り読むならば『冒険する者』という意味だが、最近の冒険者達はそんな事はあんまりしない。

 魔王軍の脅威が今より大きかった時代は魔物達が跋扈していた。しかし帝国領邦はそれぞれ自治を掲げ、更に平民達の命が軽かったので帝国が総力を挙げて魔物達から民衆を守るという事を熱心にしてこなかった。その為、魔物達の巣等に潜入して財宝を強奪してくるような向こう見ずな冒険をする者達に民衆は縋らざるを得ず、その要求に応じて冒険者達は魔物から民衆を守る自警団のような組織を結成した。これが冒険者ギルドの始まりなのだが、魔王軍との大規模戦闘が終了し魔王軍の勢力が衰退して魔物の脅威が減少すると帝国政府は弱体化した領邦への支配を強める為に帝国警察という組織を各領邦内に多数設置した。軍ではなく各領邦の荒廃した治安を取り戻す為の文民組織であると帝国政府が主張した為、領邦を統治する帝国貴族達はこれに強く反対できなかった。

 こうして統一された秩序が国内へと浸透していき帝国は徐々に統一近代国家へ近づきつつある、というのがこの国の現状。

 要するに冒険者達は時代遅れの職業になりつつあるのだ。

 されどそれは発展した地域においての話。田舎のこの領邦ならば未だに冒険者が必要とされるのでは、と翡翠の少女は思ったのだが院長は首を横に振った。

「若者達がストロー効果で都市部に就職したから冒険者ギルドは使い物にならない。」

 この上なく残酷な田舎の現実がここにあった。

 国家の要職に就いた異世界転生者達の齎した技術は様々な発展をこの世界に与えた。帝国の各領邦から帝都まで数時間で移動出来る等と、50年前の帝国臣民に話しても誰も信じないだろう。その結果が都市部への人口集中と人口流出による地方の衰退である。

「とにかく必要な物があったら言ってくれ。可能な限り協力する。」

 トパゾライトの少女は二人にそう言ったが、二人だけにそう言った訳ではない。

 冒険者ギルドが使い物にならず未だに前時代的な思考を持つ古い貴族が支配するこの田舎の領邦ではまともな治安維持組織が存在しない。帝国警察は元々乱れた治安を取り戻す為というのが設置理由であり、魔王軍から攻められる事が無かった正真正銘の無価値な田舎のこの領邦にはその口実が使えず、帝国警察は一人たりともこの領邦内には存在しない。

 そんな中起きた転生院の大脱走。

 脱走した転生者達の総数は27人。この状況はあまりにもまずい。その為同じ転生者で既に院外に就職した者達に連絡を取り脱走した転生者達を捕まえるようにトパゾライトの少女は依頼した。要約すると『育ててやった恩を今こそ返せ』。

 報酬は出す、との事だったが翡翠の少女は正直期待していない。

 既にこの帝国では転生者達の居場所は無くなりつつある。就職出来ない、とか、批判が強まった、とかではない。以前に比べてその価値が低下しつつあるのだ。要職に既に就いている転生者達がその力を存分に発揮している一方で新参の転生者達は比較的という言葉がつくとはいえ十把一絡げ扱いだ。上位の転生者達が派閥を形成する為に自分達の所に集める傾向にある為、一人の人間として見れば優遇されている。逆に言えば既に優遇されているのだからこれ以上優遇される必要性は無いと判断される可能性が高い。ただでさえ転生者の数は減り、転生院の予算は年々減らされている。その上ここは田舎の中の田舎。他の転生者達がちゃんとした仕事に就き、それなりの給金を得ているのだから、精々月給の半分程度の報酬だろう。翡翠の少女がまともな職に就いていないのだからその不足分多く報酬を支払う、等という不平等をトパゾライトの少女はするような人物ではない。彼女は完全に事務屋だ。

 まあ自分達が出る幕は無いだろう、と翡翠の少女は思った。転生院は転生者達に対する偏見が強かった十数年前ならばともかく、近年は要職に就いた転生者達による働きかけによって極めて過ごしやすい環境に変わった。脱走した転生者達が凶悪犯罪に走るとは思えない。初めて見る院外の世界に戸惑って不審な動きを見せて住民から通報されて逮捕、というのが有り得そうな展開だろう。

 翡翠の少女は瑪瑙の少女の実家兼仕事場に戻り、トパゾライトの少女から受け取った脱走者達の資料に目を通した。

 転生者達は様々だ。普通の人間に転生した者も居れば人間以外の種族に転生した者も居る。

 その中で一人、翡翠の少女の目にとまった名前があった。その転生者は書類に添付されている写真の中で藍色の宝石である藍晶石の指輪を身に着けていた。

 藍晶石の少女の書類の種族名の欄には『スライム』と記されていた。

 そんな奴、転生院に居たか。

 そう思って翡翠の少女は書類から顔をあげ、瑪瑙の少女に質問しようとした。

 が、既に瑪瑙の少女の姿は無く、部屋の戸は開きっ放しになっていた。


 自分は何者か。

 藍晶石の少女は思考した。し続けた。し続けなければならなかった。

 転生前の自分の記憶は確かにあった。だが時間が経過するにつれてそれが徐々に薄れていく事を感じていた。自分の記憶が脳だけではなく肉体全体に広まっていくのを感じ、そして肉体が欠損し、それが修復される度に確実に薄まっていった。

 記憶だけではない。性格も感情も。自分の思考の全てが日が経つにつれてどんどん薄まっていくのだ。

 それに恐怖したがその恐怖すらも薄まっていくのだ。

 考えろ。思考しろ。今ここに居る自分を見失うな。

 必死だった。日々失われていく自分を補充し続けなければならない。何が何でも自分を失う訳にはいかない。

 だが徐々に自分が自分の中から居なくなっていく。転生する前の自分はどんな自分だった。もう思い出す事は出来ない。自分は誰だ。誰とは何だ。何が自分を自分と定義する条件だ。

 そんな時、転生院という自分が失われていくだけの牢獄から脱する機会を得た。

 消えたくない。

 藁にも縋る思いで転生院を脱出した。ひたすら逃げた。あてもなく逃げた。そして思った。走馬灯。追い詰められた自分はやっと自分を思い出せた。

「冒険者になりたい。」

 前世の記憶。ぎりぎりだが思い出せた。あの頃の自分は。確か本を読んでいた。現実を描写した本ではなかった気がする。その中に冒険者という職業が出てきた。ような。気がする。

 現実が。嫌だった。気がする。

 思い出せてもぼやけている記憶。それでも縋るしかなかった。

 ギルドハウスに現れた藍晶石の少女は、警戒の視線を集めてしまった。当然だ。同業者組合とは名ばかりだった頃とは違い、現在の冒険者ギルドは帝国の国内法が厳密に適用され、しっかりとした公的機関として整備されている。見知らぬ人物がふらりと現れ登録出来るような曖昧な組織では既にない。

 その上既に転生院からの脱走は伝えられていた。不審な人物が現れれば即座に通報するように伝わっていた。

 フルプレートアーマーの衛兵二人が武器を自分を挾み、受付嬢が受話器を取って会話を開始したのを見て、藍晶石の少女は、ぼんやり思った。

『なんか違う。』

 と。

 衛兵二人はいつでも抜剣出来るように腰の柄を握りながら藍晶石の少女に質問する。時間稼ぎであり、念の為の確認でもあり、そしてその衛兵達には一切の敵意は無かった。柄を握る手の力は大したものではない。この平和な田舎の中の田舎では軽犯罪すら殆ど起こらない。転生院の脱走についても殆どの住民が深刻な事態だとは思っておらず、それはここの衛兵達も同様だった。

 だが、人間ではない異種族に転生し思考が変質した藍晶石の少女にとって人間の思考はあまり読み取れなくなっていた。そして行動からその思考を類推するしか出来ず、それもかなり精度を失っていた。

 要するに『腰の剣に手を置いているならばそれは敵対の合図だ。』と極度に単純化された藍晶石の少女の思考は結論付けたのだ。

 ならばする事は唯一つ。だが。

「見つけた。」

 その言葉に藍晶石の少女が振り向くと、ギルドハウスの入り口に一人の少女が居た。戯画化されたかのような奇妙なドラゴンのきぐるみに身を包みドラゴンの口から美少女と言っても過言ではない整った顔が真っ赤に染まって露出している。激しく息切れをしているその奇妙な格好の少女の指にはとても綺麗な瑪瑙の指輪がはめられていた。

 敵か、味方か。どちらにせよ記憶に無い少女だ。

 瑪瑙の少女は両膝に手を置き荒い呼吸が整うのも待たずに藍晶石の少女に言った。

「何かする前で良かった。一緒に謝ってあげるから、戻ろう。転生院に。」

 何かする、とは何だ。何をする者だと思われているのだ。一緒に謝る、とは何だ。何を謝るというのだ。転生院、とは何だ。訳のわからない事を言わないで欲しい。今、自分の隣には二体の敵性生物が居る。警戒すべきか、という思考が既に自分の中にあるのに、更に色んな情報が流れ込んできて思考がぐちゃぐちゃになる。だがそのような混乱する思考も既に身体全体へと拡散していき見失う。なんで自分は悩んでいるんだ。まるでしなければならない事があったのにそれを思い出そうとしても思い出せずにその内そんな事すらも忘れてしまう体験を早送りで味わっているかのような感覚。

 自分は何をしにここに来たんだっけ。そうだ。冒険者にならないと。

 でもこの人達誰だ。邪魔だな。邪魔なら。

 消しちゃえ。

 そう思った直後、藍晶石の少女の身体は服も肌も透明な藍色に変化し、粘性を帯び始め、そして凄まじい勢いで四散した。


 瑪瑙の少女と藍晶石の少女は転生院で特別仲が良かった訳ではない、と瑪瑙の少女は思っている。藍晶石の少女が孤立していて、転生院の正式な生徒ではない瑪瑙の少女も半ば孤立していたから、だから暇な奴同士比較的よく絡んでいた。その程度が瑪瑙の少女の認識だった。

 だがそれは頻度についてであり、藍晶石の少女の存在が瑪瑙の少女の心に大して留まらない、という事ではなかった。

 藍晶石の少女との会話を瑪瑙の少女は転生院から出て行ってから半年経過した今でも思い出せる。

『私がどこにも居ない。』

 藍晶石の少女のその言葉は瑪瑙の少女の心を抉った。当然だ。その通りだ。声を大にして賛同したかった。

 だが無理だった。自分の物心がついてからもう十数年が経過していた。いくら自分が人間ではなくドラゴンだと叫んだところで何も変わらないという現実。それをいい加減受け入れなくてはいけなかった。

 だが、藍晶石の少女の気持ちもよくわかった。異世界の知的生命体の種族は人間しか存在しないらしい。つまり藍晶石の少女は間違いなく人間の心をスライムの身体に閉じ込められてしまったという訳だ。瑪瑙の少女は異世界転生者ではない。だが、自分の心の種族と身体の種族が一致しないという状況は決して他人事ではなかった。

 それでも自分はもうすぐこの転生院を出ていく。社会の一員として働かなければいけないのだ。いつまでも心の叫びとはいえ奇異な言動を繰り返す訳にはいかない。せざるを得ない妥協をする時が来ているのだ。

 本当は声をかけてやりたかった。自分も一緒だと大声で叫びたかった。

 だが、否定も肯定もする事は出来ず、だからといって無視する事も出来ず、転生院を出ていくその日まで、瑪瑙の少女は藍晶石の少女と微妙な距離感を維持し続けざるを得なかった。

 転生院を出てからもずっと瑪瑙の少女は藍晶石の少女の事を考え続けていた。あの子は今後、どうなるんだろう。

 答えが出ない悩みを抱えながら仕事を続けていると転生院からの情報で収容時の手続きで間違って収容された翡翠の少女について知った。比較的理髪な少女であり、転生院に居た頃によく話し相手になっていた人物だ。転生者でありながら転生前の記憶が無いという人物であり、あるべき自分と現在の自分が全く一致しないという彼女の状況に瑪瑙の少女は当然共感した。そして転生者であると言われ続けて育てられたのに突然転生者ではないと言われた。そんな不一致、見過ごす訳にはいかない。

 なので瑪瑙の少女は情報を得て即座に翡翠の少女を探し当て、仲間にした。ここにもう一人、あの子が居れば。

 そう思った翌日だ。転生院からの大規模脱走の話が入ったのは。必要な書類を新しい院長に要求し、その中に藍晶石の少女の名前を見た途端、瑪瑙の少女は走り出した。

『冒険者になりたい。』

 転生院の中で藍晶石の少女が無気力に呟いたその言葉だけが手がかりだったが、何もしないままではいられなかった。

 必死になって走り続けてようやく辿り着いた冒険者ギルドで藍晶石の少女を発見した。まだ衛兵二人は抜剣しておらず、大事になっていない事は一目でわかった。

 よかった。間に合った。

 そう思った。そう思ったのに。

「どうして。」

 眼の前の地獄絵図に瑪瑙の少女は呆然と立ち尽くした。

 飛び散った粘性の藍色の液体は付着した物を片っ端から溶解させていく。

 フルプレートアーマーの衛兵二人はまだ床の上でのたうち回れる程度の元気があるからよい。しかし受付嬢は反射的に身を屈めたが間に合わず顔面に液体を浴びてしまった。そして凄まじい悲鳴をあげながら倒れてしまい、その後動かなくなってしまった。

 一線を越えた。越えてしまった。

 そうならない為に。そうさせない為に。その為だけにここに来たというのに。

「どうして。」

 その言葉には何の力も無い。賽は投げ捨てられてしまった。

 飛散したスライムの一部達が瑪瑙の少女の周囲に集まりつつあった。だが、彼女の頭上を飛び越えて投げ込まれた血だらけの肉塊。それがギルドハウスの床の上に落下した直後、藍色の小さい液体達はそいつめがけて加速し始めた。

 そして、瑪瑙の少女は腰を抱えられるように後ろへと引っ張られ、ギルドハウスの外に無理やり連れ出された。

「何をしている。」

 そう言って彼女の身体を外へ引っ張り出したのは翡翠の少女だった。

 右手は血だらけの手袋であり、彼女がスライムの餌を投げ込んで助けてくれたのだと瑪瑙の少女は瞬時に理解した。理解したくはなかった。助けられないければいけない状況になったという事は、完全に藍晶石の少女が討伐対象になってしまった事を意味するからだ。

 敵。

 自分が開業する時に覚悟していたし、既に何度もそれに該当する奴等と戦った事がある単語。だがそれが、藍晶石の少女に適用されるという事実が、瑪瑙の少女は受け入れられない。受け入れたくない。

「伏せろ。」

 他の業者達の指示に従いギルド内の人々が全員ギルドハウス外に脱出した事を確認した後、翡翠の少女がそう告げて瑪瑙の少女の頭を掴んで無理やり伏せさせた。

 爆発音は大した事は無かった。それよりも圧倒的な火力がギルドハウス全体を包み込んだという事の方が見る者の注目をひいた。

 爆発による四散を許せばスライムが膨大な数に分裂し対応が困難になる。なのでスライムの餌に対する走化性を利用して一箇所に集め、爆発が控えめな発火を遠隔で実行し、それを撒きまくった燃料につなげて広範囲を高熱で焼き尽くす。極めて単純かつ効果的な退治方法だった。

 退治。そんな事をされるような奴だったか、あの子は。

 だが、現実はギルドハウスの物理的炎上。

 瑪瑙の少女は業火に包まれている堅牢であるはずの建物を力無く見つめ、両膝と両手を地面についてしまった。

 その直後だ。人型の炎が業火の中から飛び出し、業者の一人に抱きついて火達磨にした。

「やはり駄目か。」

 燃え盛る敵に小銃を構えながら翡翠の少女が言った。その直後、人型の炎は表層の炎を吹き飛ばし、藍色の透明な正体を現した。


 藍晶石の少女はスライムに転生した。そして転生院に収容された。転生院は更生施設であるが、所属する転生者達は生徒と呼ばれ、公式の分類は学校である。

 初期には不理解から恐れられていた転生者達は転生院の卒業生達が社会貢献に尽力した事により将来を期待される人材へと扱いが変わりつつあった。その為卒業後の進路に困らないように転生者達は様々な技術を叩き込まれた。藍晶石の少女は人間ではない。倒す為の弱点が明確である魔物の彼女は特に自分を守る為の技術を叩き込まれた。固体を操作する土の魔法と液体を操作する水の魔法を組み合わせて可燃性の物体を外側に配置し内側に厚い水の層の鎧を纏う事で炎の攻撃力を身に着けつつスライムの弱点である熱を遮断する方法もその一つだ。

 ああ、そうだ。思い出した。

 死の淵に立たされた瞬間、藍晶石の少女は魔物から人間へと思考が戻った。自分は転生院という学校に通わされてそこで様々な事を学んだ。その証拠に今自分はこうして学んだ護身術で身を守っている。

 他には何があったかな。確か友達が居た気がする。どこだろう。

 藍晶石の少女の思考は彼女の身体が飛び散る事で中断された。

 何らかの飛来物を身に受けながら藍晶石の少女は藍色の身体をゆっくりと振り返らせる。そこに居たのは小銃を構えて引き金を引き続けている少女。小銃、とは何だ。覚えているはずなのに思い出せない。

 銃弾が藍晶石の少女の身体を僅かではあるが確実に削り続ける。その度に思考も削られ、そして藍晶石の少女の思考は人間からスライムのそれへと戻る。エネルギーの激しい消費は彼女に空腹を齎し、そして単純化された思考は走化性に従属し、筒状の物体から何かを射出し続ける人の形をした肉に右腕を伸ばさせた。放水のごとく急激に射出された藍色の右腕は瞬時に翡翠の少女との距離を詰める。だが翡翠の少女はマントを身にまとい、スライムの身体を阻んだ。

 耐酸・耐アルカリ性繊維であるアラミド繊維の上に更にポリテトラフルオロエチレンでコーティングを施した異世界技術の防護マント。

 翡翠の少女は、完全な液体になりきれていないが故に押し返す事が可能な藍晶石の少女の右腕をマント越しに床へと叩きつけた。そして隠し持っていたもう一つの血まみれの肉を藍晶石の少女の後方へと投擲しながら彼女の胴体めがけて小銃を連射した。飛び散ったスライム達は分散した事により知能が低下し単純な走化性に逆らう事が出来ず血だらけの肉へと集まっていき、本体とも言うべき人の形状のスライムの体積はどんどん減っていく。それに伴い本体側の知能も低下していき、マントで覆われている翡翠の少女の身体よりも後方の血肉の誘惑に勝てず伸び切った右腕を引っ込めた。

 お腹が空いた。何か食べなきゃ。

 生物としての単純な欲求に支配された藍晶石の少女は背後の血肉へと近付き、飛散した自身の一部と合流。知能が回復する。

 自分は何がしたいんだっけ。そうだ。冒険者になりたかったんだ。なんで。あれは確か。確か。

 本で読んだ事があるから。

 そこまで思い出せたという事は。前世の記憶を思い出せたという事は。直近の記憶も思い出せたという事だ。

 冒険者ギルド。やってきた。なりたかった。なれなかった。拒否された。捕まった。誰かが来た。誰だっけ。確か。燃えた。熱い。そうだ。燃えてしまった。

 思考が回復し、少女の姿に戻った藍晶石の少女は炎とは正反対の方向に顔を向ける。

 漠然と不安だった。自分の将来がどうなるのか全くわからなかった。本はとても良かった。いくら読み返しても展開は変わらない。欲しい時に欲しい展開が決まった頁に記されてある。現状を捨てて新天地に飛び出す異世界転生小説は特に好きだった。

 忘れていた。なんで。スライムになったから。拡散していく自我と記憶を失わない為に。自分自身を維持する為に。その為に必死だったから。だから自分自身を見失っていた。

 訳もわからず必死に生きていたらよくわからない奴等に捕まって転生院という刑務所みたいな所に入れられて毎日を過ごしていた。孤独だった、気がする。なんとなく、自分はもう助からないのだと悟っていた。

 だから脱走する機会が与えられた時、この機を逃す手は無いと思って飛び出した。そして。そして。どうなった。

 確か。そうだ。

 自分は冒険者になりたかったんだ。小説の中の主人公になりたかったんだ。だって小説には展開が書いてあるから。わからないなんて事はないから。不安の介在する余地なんてどこにも無いから。

 だというのに。燃えた。たったそれだけの望みすら許されないのか。

 視線の先には燃やしたと思われる人物が二人。誰だっけ。まあいいや。

 僅かに残った人間性は藍晶石の少女に怒りという指向性を与え、再び右腕を敵と思われる人物に伸ばさせた。だが。

「やめてくれ。」

 震える声で、ドラゴンのきぐるみをまとった少女がそう言った。その声を聞いて藍晶石の少女は停止した。

 聞き覚えのある声だ。懐かしい声だ。誰だっけ。思い出せない。でも思い出したい。確か。確か。

 あの時の。

 孤独だった、気がする。

 気がするだけだろ。

 思考を取り戻した結果半ば彫像と化した藍晶石の少女の身体。そいつを無慈悲に消し去ったのは上方から落下してきたダイヤモンドのように綺羅綺羅輝く膨大な量の透明の液体だった。


「やっぱり民間業者にこの国の治安維持なんて無理だろ。準軍事組織というか、警察より強い組織が絶対に必要でしょ。」

 突然降り注いだ凄まじい量の液体状のダイヤモンドみたいな物体。それは藍晶石の少女だけでなく燃え盛るギルドハウスとその周辺を覆い尽くし、火災ごと飲み込んだ。

 台詞を述べたのはその光を反射しまくる液体に後ろ髪がつながっている長髪の少女。透き通るような白い長髪はグラデーションのように下方にいくにしたがって透明度と輝きを増して後方に広がる膨大で綺羅綺羅な液体につながっている。

 そして指にはダイヤモンドのように煌めく白いジルコンの指輪がはめられている。

 その姿に瑪瑙の少女は見覚えがあった。

 転生院の卒業生アルバム。帝暦2018年の卒業生。なんとか藍晶石の少女の助けにならないかと思って転生院の卒業生達を調べていた時、藍晶石の少女同様にスライムに転生したという経歴だった為に瑪瑙の少女の記憶に残っていた人物。

 現在は幾多の戦いを経て派閥を形成し、帝国上層部の要職に就いている圧倒的成功者。

 幾ら調べても藍晶石の少女を助ける為には何の役にも立たなかった記憶がある。恵まれ過ぎていた。スライムに転生したという条件は一緒だったのに自分を見失う事無く在学中は他の生徒達と仲良くし、極めて社交的で、卒業後は圧倒的な能力を発揮し続け八面六臂の活躍で魔王軍相手に戦った救国の英雄の一人。こんな田舎の中の田舎に本来ならば里帰り以外の名目で一生かかっても来るはずがない。

 そもそも本人はスライムを自称しているが擬態能力の高さからミミックと言うべきなのでは、というのが瑪瑙の少女がジルコンの少女について調べた感想だった。

 要するに、何から何まで藍晶石の少女とは違う。本来の意味での転生特典を獲得した恵まれた者。持たざる者であった藍晶石の少女を救う為には何の参考にもならなかった絶対的成功者。

 それが。そんな奴が。

 何もかもを持っている者が、何もかもを持っていない者を、今、永遠に消し去ってしまった。

「貴方は。」

 震える声を絞り出した瑪瑙の少女は、圧倒的格上であるはずのジルコンの少女に対し、無礼であると認識した上で、それでも、絞り出した心を口から吐き出さずにはいられなかった。

「貴方は、安全圏から見下ろしているだけだ。圧倒的高さから下々の人々の苦労も知らずに、恵まれた特権を振り回しているだけだ。」

 ジルコンの少女はその言葉を聞いて瑪瑙の少女の方に目を向け、何かを察したかのような顔をした後、寂しい返答をした。

「自覚している。」

 その言葉には先程のような軽い感情は全くこもっていなかった。

 その言葉を聞いて、瑪瑙の少女は自分の頬を流れる涙に気付いた。

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屠僑戦記 中野ギュメ @nakanogyume

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