六章 帰還

 そして、マルテは戻ってきた。

 白い産着うぶぎに包まれた赤ん坊をその胸に抱いて。故郷であるクロノ王国へと。

 いや、そこはすでにクロノ王国ではなかった。クロノ王国を象徴するユキヒョウの紋章は引きずりおろされ、そこかしこにエルレンシャルの旗がなびいている。各地にエルレンシャルの兵士たちが配置され、市民の動向を監視している。そこはもうクロノ王国ではなかった。エルレンシャルの一領地に過ぎなかった。

 ――取り戻す。絶対に取り戻す。わたしの故郷であるクロノ王国も、フェリックスの人生も。

 マルテは赤ん坊を抱く腕に力を込め、市内に侵入した。

 「やあ、お帰りなさい、マルテ。大丈夫。まだ君の仕事時間にはなっていませんよ」

 目の前にヘリオスが立っていた。あの頃とかわらない優しい笑みを浮かべた姿で。

 「……ヘリオス」

 「いや、正直、参ったよ。屋敷のなかをいくら探してもフェリックスの姿が見当たらない。焼け落ちた瓦礫がれきの下敷きにでもなったのかと思ったけど、フェリックスの部屋には火はつけていなかったしね。屋敷の連中から話を聞きだしてみるとなんと、丸メガネにおさげ髪のぱっとしないメイドが、フェリックスを連れて山へ逃げたと言うじゃないか。

 驚いたよ、本当に。まさか、君に出し抜かれるとはね。クロノ王家の人間をひとりでも残してしまえばこの作戦は失敗だ。陛下から失望され、叱責されてしまうところだったよ。でも、君はこうして戻ってきてくれた。手配されているとも知らずにね」

 「人でなし! こんな赤ん坊の命まで奪おうと言うの⁉」

 「もちろん。言っただろう? 『お互い、自分の職務に励むことにしましょう』と」

 これが、私の職務なのでね。

 ヘリオスは笑いながらそう告げた。

 ヘリオスは一振りの剣を取り出した。フットマン時代から使ってきた愛用のカトラスである。

 「私の剣の腕は知っているだろう? 執事たるもの、常に主人に仕え、その身命をお守りしなければならない。そのために、ずいぶんと鍛錬したからね。もちろん、私が仕え、お守りすべき『主人』とは、あのお人好しの王太子などではない。我がエルレンシャルの偉大なる国王陛下だけどね。

 君がどうあがいても私の剣から逃れることは出来ない。無駄な抵抗をせずにおとなしくしていることだ。そうすれば、苦しまずに死ねるよ」

 ヘリオスの腕が動いた。

 電光のような突きが放たれた。

 執事として、主人の身を守るべく磨き抜かれた剣技。戦いには素人のマルテに避けられるはずもない。カトラスの切っ先が深々と白い産着うぶぎに包まれた赤ん坊に突き刺さった。

 「なに……⁉」

 ヘリオスの表情が驚愕きょうがく強張こわばった。

 手応えがちがう。自分の刺したものが人間とは似ても似つかない『なにか』であることにはすぐに気付いた。

 マルテが手をはなした。産着うぶぎに包まれた『それ』が地面に落ちた。産着うぶぎがはがれ、そこから出てきたもの。

 それは単なる子イヌのぬいぐるみだった。

 マルテは笑った。

 「お馬鹿さんね、ヘリオス! わたしがフェリックスを連れてのこのこ戻ってくるような間抜けだとでも思った? 一四歳の世間知らずのメイドならその程度だろうと? おあいにくさま。フェリックスは今頃、カッツァレル王国に着いているわ」

 「なんだと⁉」

 突然――。

 ヘリオスの叫びをかき消すかのような砲撃の音が轟いた。

 「なに⁉」

 ヘリオスの顔が再び驚愕きょうがく強張こわばる。

 「あの紋章……あれは、センラオン傭兵団の紋章⁉ 馬鹿な! なぜ、大陸最強と言われるセンラオン傭兵団がここに攻めてくる⁉」

 「わたしが依頼したのよ」

 「なに⁉」

 「ここだけではないわ。今頃、エルレンシャル自体も攻め込まれている頃よ。カッツァレル王国と、大陸中の傭兵団の連合軍にね」

 「なんだと⁉」

 「わたしはね、ヘリオス。見つけたの。伝説の紅き千年王国の遺宝を。その遺宝と引き替えにカッツァレルにエルレンシャルを攻撃してくれるよう頼んだのよ。もともと、カッツァレルはクロノ王国と婚姻政策を結んだこともある親戚筋。しかも、エルレンシャルとは草原の覇権を争ってきた競合国。大陸中の傭兵団の協力があってしかも、伝説の遺宝を手に入れられるとなればそりゃあ、攻め込むわよね。目障りなエルレンシャルを一気に潰す好機だもの」

 「きさま……」

 「わたしがフェリックスを連れて逃げたことが知られていることも、手配されていることもわかっていた。それでも、わたしがわざわざ戻ってきたのはね、ヘリオス。あなたのその顔をこの目で見てやるためよ!

 ほらほら、どうしたの、忠実な執事さん。さっさと国に帰らないと、あなたの大切なご主人さまが殺されてしまうわよ」

 「くっ……!」

 ヘリオスは駆け出していった。そして、マルテは――。

 その場にへたり込んだ。


 戦いは一昼夜にわたってつづいた。

 とは言え、クロノ王国を占拠していたエルレンシャル軍には最初から戦う気などなかった。本国の危機を知って一刻も早く逃げ出すことだけを考えていた。そのため、さしたる被害もなく戦闘は終わり、クロノ王国は開放された。

 町という町で人々の歓喜の声が響き渡った。

 カッツァレルとエルレンシャルの戦いもほどなくして終結した。エルレンシャルはさすがに戦慣れした大国だけあって、これだけ不利な状況にもかかわらず決定的な敗北をすることはなかった。

 とは言え、不利な状況にはちがいない。このままジリジリと消耗をつづけるよりも、現時点では損をしても力を温存し、将来の巻き返しを図る。

 その判断の下、カッツァレル側にかなり有利な条件で和平が締結された。

 そして、フェリックスは戻ってきた。クロノ王国の王宮へと。

 国王の孫であり、王太子の長子。そして、いまやクロノ王家最後のひとり。まだ歯も生えそろわない生後八ヶ月の乳児の頭に冠がかぶせられ、新王として即位した。成人するまでの間、クロノ王家の血を引くカッツァレルの王族が摂政として政務を司ることになった。

 本来であれば――。

 クロノ王国とその王家は完全に滅亡し、大陸全体がエルレンシャルの野心に呑み込まれる、そのはずだった。その歴史はしかし、未然に防がれた。たったひとりの一四歳の少女によって。

 いや――。

 母となった少女によって。

 そして、マルテは――。

 姿を消した。


 数年後。

 クロノ王国のスラム街に小さな学校を構え、子供たちに読み書き計算、そして、世界の歴史を教える若い女性教師の姿があった。

 「いいですか。あなたたちはたしかに最低の人生のはじまりを迎えようとしています。ですが、人生のはじまりはいつでもかわりうるものです。そして、その変化を幸運なものとできるのは、その変化を受けとめる準備の出来ている人間だけなのです。その準備が出来ていない人間はどんな機会に恵まれようと、それを活かすことはできません」

 女教師は熱心に子供たちにそう教える。

 人生のはじまりはいつでもかわりうる。

 その変化を幸運として得られるかどうかは、本人に変化を受けとめる準備が出来ているかどうかにかかっている。

 かつて、『マルテ』と名乗っていた女性教師はそのことを身をもって知っていた。

 だから――。

 子供たちに教えつづける。

                 完

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母となった少女マルテ 藍条森也 @1316826612

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