クロスロード 第3章

ソング


「ラジオ、つけてるんですね」林はタクシーに乗ってから、初めて口を開いた。別に気に障ったわけではなく、単に意外だったのだ。

徐々に秋が深まり、風も冷たくなってきたので、思い切ってマフラーを巻いてきたのだが、暖房の効いたタクシーの中では、ただの熱を持った毛糸の塊と化しており、もう外しても良いかな、と林は思っていた。

「ああ、済みません。切り忘れてました」運転手が、慌てて手を伸ばしてスイッチを切ろうとするので、林は「いえ、聞きたかったので大丈夫ですよ」と止めた。

「済みません。ありがとうございます」自分と同年代ぐらいの男性運転手はバックミラーの中で頭を下げた。

「本当に大丈夫です。私この番組好きなんですよ」マフラーをほどいて、スカートの上に置きながら林は答えた。

 ラジオから流れているのは、リスナーからのアンケートを元に、最近の人気曲の順位を百位から一位まで決める、という内容であり、実際にこの番組は林のお気に入りだった。MCの語りや曲に関するエピソードが面白く、ついつい時間を忘れて聞いてしまう。

 番組ではちょうど二十位までを紹介し終えたようで、小休止のようなMCの語りが始まっている。

『今日の話題は、両親、についてでーす!』

 林は一気に憂鬱になった。わざわざタクシーなんかに乗って地元に帰ってきた理由をきっちりと思い出したからだ。一旦息を吐いて、落ち着きを取り戻す。あの二人になんと言えばいいのか、頭を抱えたくなるのをこらえながら、林は窓の外の流れていく歩道を見つめていた。



 『今日の話題は、両親、についてでーす!』

 佐藤はハンドルを片手で回しながら、もう何年も会っていない両親の顔を思い出した。別に大喧嘩をしたわけでもないのに、年を重ねる内に少しずつ関わることが少なくなり、今ではすっかりこんな関係だ。自分と両親との関係を知る友人たちには「仲が悪いのか」とよく聞かれるが、別にそういうわけでもない。強いて言えば、佐藤は両親の生き方に、若干の反発を覚えていた。

 父は舞台俳優、母はタクシードライバーだ。誰しもが人生で一度は両親に向かって「なんでおしごとしてるの?」と質問する、あのイベントを佐藤もしてみたことがある。結論から言えば二人の返答は「人生に合っていたから」だった。

幼い頃からそういう両親の元で育った佐藤は、当然いずれ自分も天職と呼べるようなものに出会えるのだろうと、そう思っていた。残念ながらそう上手くはいかず、母と同じタクシーの運転手をやりながら、日々を過ごしている。悪くはない、と佐藤は思っていた。実際車の運転は得意だったし、好きでもあった。

でも、時々思ってしまうのだ。この仕事は、俺の人生に合っているのかな、と。



 大学を辞めよう、と思ったのは決して思いつきではない、林は確信している。ただ、それを他の人間が、特に自分の親が受け入れられるかどうかは、また別の話だと言うことも重々承知だ。

 林が画家になりたい、と意識し始めたのは大学三年生の夏だった。今でもよく覚えている。友人と一緒に何の気なしに出かけた美術館でちょうど特別展示をやっていたのだ。そして、当時展示されていた一枚の絵に林は衝撃を受けた。荒野に、ポツンと椅子が一脚置かれており、その上に真っ白な女性の生首が鎮座している。圧倒的な存在感を放ちながら、生首はその真っ黒な目でどこか遠くを見つめていた。不快感と神秘的な雰囲気が絶妙に共存しているその絵に、強烈なメッセージが込められているように林は感じた。

 その時はまだ、画家になろうとは真剣に考えてはいなかった。ただ、就活を進めていく内に、これでいいのか、という思いが少しずつ、少しずつ膨らんでいった。そうして、ある日林は決心したのだ。画家になろう、と。

 そうして今、「大学を中退して、美大に行かせて欲しい」という思いを伝えに、タクシーに乗って実家に向かっているのだ。



 後部座席の若い女性客は窓を眺めたまま動かない。考え事をしているのだろう。佐藤はバックミラーから前方に視線を戻し、ハンドルを握り直した。ラジオのMCは相変わらず自分と両親の思い出について、語っている。

 佐藤は幼い頃、父親の舞台を見るのが好きだった。ああいう風になりたいと思っていた時期もあったように思う。演技など何も分からない子供の目から見ても、父の演技は上手く、舞台の上で輝いていて、佐藤はそれが誇らしくもあった。

 しかし、その輝く父の姿が、佐藤の心を妙にざわつかせた。高校生ぐらいからか、自分の人生に自信が持てないと思うようになったのだ。今思えば、世間一般の悩みの一つと片付けられるが、父や母のように胸を張って、「自分という人間に、ぴったりだ」といえるようなものに出会えなかった。

 だからなんだ、と言ってしまえばそれまでだ。というか、そういう風に考えた方が良かったのかもしれない。そのせいで、自信を持って生きている両親との間に、妙な溝を感じてしまったとも言えるからだ。

 佐藤は頭を振った。らしくないな、と自分でも思ったからだ。いつもはこんな風にネガティブになることはあまり無い。多分このラジオのせいだ。佐藤は手を伸ばしてカーステレオの切り替えボタンを押した。



 急に車内が静かになった原因に気付くのに、数秒かかった。運転手がラジオを切ったのだ。

 両親といえば、林の両親は現実的な人たちだった。というか今もそうだ。確か、二人は母の海外の転勤先で出会ったのだった。断片的に聞いた両親のなれそめを林は思い出していた。

 二人とも保険関係の仕事をしており、子供の教育に熱心だった。そして林も両親の期待に応えるようにして生きてきた。中学受験をし、進学校に通い、難関大学に合格し、学歴を積んできた。それが分かりやすい幸せへの道だと言うことを林は十分すぎるほど理解していた。そしてそこに驚くほど自分の意志が関わっていないことも。

 だから、いいじゃないか。そう言い聞かせる。例え馬鹿なことを言うなとはねつけられても、一度ぐらい、思いつきだと笑われても、人生に自分の意思を貫こうとした跡を刻みつけるのだ。

 でも、やはり怖いものは怖い。心に決めたことが、一笑に付されるかもしれないと思うことは苦しかった。だからだろうか、林は思わずこう言っていた。

「少し、話を聞いて下さい」と。



「少し、話を聞いて下さい」

 自分に向けられた言葉だと気付くのに、少し間があった。佐藤は慌てて

「はい」と言った。

 後部座席の若い女性客はもう窓の外を見ておらず、フロントガラスを緊張した面持ちで、眺めていた。

「私は、人生を変えたい、そう思って、今あるところに向かっています。多分上手くいきません。それでもあがいてみたいんです。何かが変わるかもしれないのなら、出来ることはやってみたいんです。私がやろうとしていることは無駄でしょうか」

 はっきりとは分からなかった。冗談かもしれない、そう思った。けれど、後部座席の彼女は、真剣だった。

 数秒の沈黙の後、彼女ははっとしたように顔を赤らめて、

「済みません!」と慌てて言った。おそらく思わず口をついで言葉が出てしまったのだろう。意味もなくバックの中を触っている彼女を見て、佐藤はおもむろに口を開いた。

「無駄じゃないですよ」



「無駄じゃないですよ」

「え」思わず素っ頓狂な返事を林はしてしまった。あんなうわごとみたいな話は、当然聞こえなかったことにされ、自分のいないところで笑いものにされるのだ、と勝手にいじけていたからだ。若い運転手は続ける。

「無駄じゃないです。むしろ誇りに思って良いと僕は思います。自分の人生に何かかの意思を持って臨むことは立派ですよ」

 運転者はそう言ってから、

「済みません、出しゃばったことを言って」と言ってから、少し笑った。林も笑い返した。根拠のない勇気や元気が身体の奥底からわいてくる、なんてことは無かったが、心が少し温かくなった、気がした。

「ラジオ、つけてもらっても良いですか」林は聞いた。

「いいですよ」運転手はボタンをカチッと押した。

ランキングのカウントが再開されている。林は少しほっとした。


 そろそろ目的地が見えてくる、というところでラジオがランキングの一位を発表した。MCが声高に曲名を言い放ちイントロが始まると、女性客は「あ」と声を上げた。重く優しいドラムのリズムに乗せて、海の底から響くような柔らかいベースのメロディーが車内を包む。

「この曲好きなんですよ。今流行ってますよね」

「らしいですね」佐藤は相槌を打つ。この失恋ソングは作成したシンガーソングライターの、若い頃の体験を元にしているのだったか。NHKの歌番組に出演した彼が、照れくさそうに、それでいて懐かしげな表情を浮かべながら、そのことについて話すのを見て、曲を聴いて想像していたよりも老いているな、と感じたことを佐藤は思い出した。

 後部座席の彼女も同じ感想を抱いていたようで、そのシンガーソングライターの名を口にし、「私の親と同じぐらいの年齢なのに、こんな新鮮な曲を作れるなんて、すごいなあって」と言った。

「僕も好きですね。ああいう曲にありがちな未練がましさみたいなのが無いので」

「そうなんですよ! 曲調とかも素敵で、なんだか言葉に出来ない良さがある気がします」そう言ってから彼女は「『言葉に出来ない良さ』って下手な感想ですけど」と苦笑した。

「そんなこと無いと思いますよ。『言葉に出来ない』なんて、最高の褒め言葉じゃないですか」

 彼女は少し笑って「ありがとうございます」と嬉しそうに言った。


 改めて曲を聞いていると、さっきからざわついていた心が、凪いでいる海のように、すーっと落ち着いてくのを感じた。久しぶりに自分の不安を誰かに打ち明けたからなのか、この曲のおかげなのかは定かではないが、間違いなくいつも以上に穏やかな心になっていた。バックミラー越しに後部座席の彼女を見ると、切羽詰まった先程までの表情は薄らいでいて、微笑しながら窓の外を眺めている。


 佐藤は「言葉に出来ない」と小さな声で呟いてみた。あの老いたシンガーソングライターはどんな気持ちでこの曲を作ったのだろう。去って行った恋人に届くよう願ったのだろうか。それがかなったかどうかは分からない、でもこの曲を聴いたまるで無関係な自分たちが、彼らの過去に思いを馳せているこの瞬間を、佐藤はなんかいいな、と感じた。大丈夫だよ、あなたの思いは少なくとも俺たちには届いているよ、と彼に言いたいとも思った。


 遠くに見えていた交差点の青信号が徐々に迫ってくる。左ウィンカーを出しながら、ブレーキを掛け減速するのに合わせるように、ラジオから流れる曲も終わりに近づいてきた。交差点に入り左ハンドルを切って、すぐに交差点から出る。 ウィンカーがカチッと切れると同時に、


曲が終わった。

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クロスロード / 中野弘貴 作 名古屋市立大学文藝部 @NCUbungei

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