クロスロード 第2章

ダブル


「お疲れ様でーす!」佐藤さとうはそう言って駅の方へ走って行った。街の明かりを反射している水たまりを軽快によけながら、黒のパーカーの背中は、あっという間に金曜日の人混みの中に消えた。

「元気ですよね。俺なんてもうくたくたなのに」俺はゴンさんに向かってぼやいた。実際今日のリハーサルは照明にとってかなりキツかった。これを本番でやることを考えただけでぞっとする。

「まあねえ、あいつまだ二十四でしょ。若いって良いよね」そう言った後ゴンさんはジロリと俺を見て、

「それに引き換え宮川みやかわ、お前は音を上げるのが早すぎる!」と言い放ち、女性のものとは思えない、強烈な平手打ちを俺の背中に見舞った。すごく痛い。

「いや、でも今日のシーンはかなり動きましたよ。ゴンさんも結構忙しかったじゃないですか」

「それを言ったら佐藤だってそうだろうが。しかもあいつこの後にバイトもあるんだろ? お前がへこたれてたら本番どうするんだよ」

「え、バイト?」俺は思わず佐藤が去って行った方向を振り返った。当然影も形もない。

「聞いてないのか。あいつ金曜にやっと新しくバイト入れたんだってさ。だから今さっき駅に行ったんだよ。先月まで一緒に帰ってたじゃんか」

「でも、佐藤って『バイトは絶対入れません』みたいな宣言してませんでしたっけ」

 ゴンさんの怪訝そうに俺を見てくる顔が一瞬フリーズした。さしずめデータロード中と言ったところだろうか。

「そう……だったな」

「ですし、あいつ俺には確か『ちょっと用事が』とか言ってましたよ。バイトのこと用事って言いますかね」

 ゴンさんはすごく難しい顔をして夜空を見上げた。梅雨の合間が到来しているようで、降り続いた雨は二日ぐらい前から止んでいる。この季節に雨を気にせず上を見て歩けるのは、おそらくここ二、三日ぐらいだろうが、人通りの多い時間によそ見をして歩くのは、あんまりよろしくないので、声を掛けようかな、どうしようかな、と俺が迷っていると、

「変だな」と難しい顔を続けながら言った。ちょっと拍子抜けした。

「まあ、どうせ大した事情じゃないと思いますけどね」

「ん、いや、私が今『変だな』って言ったのはその話じゃないぞ」

 今度は俺が変な顔をする羽目になった。「え? 違うんですか」

「佐藤と言えば、この前あいつがタクシーに乗ってるのを見かけたのを思い出してな」

「タクシー? 見間違いでは」

「いいや、あれはどう見ても佐藤だったね。運転手と楽しそうに話してた」

「でも、なんで」

「知らんがな。だから変だって言ってるんだよ」


 なぜタクシーに佐藤が乗っていると変なのか。そもそも佐藤の職業は劇団「スキライズム」の舞台俳優だ。たやすくイメージの出来る仕事だが、その懐事情は殆どの場合、かなり厳しいものになっている。入団して舞台俳優を名乗るのは勝手だが、そもそも舞台に上がらなければお給料は発生しないのが普通だ。「スキライズム」はその辺りの事情が少し特殊なのだが、仮に場数を踏んだ先輩たちを五人十人抜いて、舞台で演技できたとしても、貰える金額は大して高くない。それこそ春夏秋冬の総称が名前になっている超有名劇団などは別だが、最早それらはレアケースと呼んでも差し支えないだろう。

 当然こうなってくると舞台俳優だけで我が身を養っていくのは、かなり難しくなってくる。結果として彼らの多くはバイトを掛け持ちすることで、どうにか生活しているのだ。が、好条件のバイトは基本的にすることが出来ない。なぜかと言えば、舞台俳優は日々の生活の多くをリハーサルや自主練習に充てる必要があるため、時間帯がかなり制限されてしまい、まともなバイトはしたくても出来ないのだ。結果夜勤などをどうにか続けて、体力を削りながら本業に精を出しているわけである。

 で、当の佐藤はどうなのかというと、彼は入団二年目にして既に舞台に立っている。正直言ってかなりの才能だ。俺は職業柄人よりプロの演技を生で見る機会が多いが、その中でも頭一つ抜けているように思う。それは良いのだが、珍しいことに彼はバイトをしていない。『可能な限り練習をしたいから』が本人の弁だが、どちらにせよ不要な贅沢が出来るほど、彼の財布は潤ってはいない。

 と言うわけで、こんなかつかつな生活をしている人間は普通タクシーに乗ろう、などという思考にならない。だから「変」なのだ。

 じゃあ、俺やゴンさんはどうなんだ、となるかもしれないが、そもそも俺こと宮川と、ゴンさんこと今野さんは、佐藤と違って舞台俳優ではない。劇場「サブマリン」に勤める、彼らのサポートをする裏方、所謂スタッフと呼ばれる人たちの中で、照明スタッフに当たる人間だ。「スキライズム」は劇場「サブマリン」のお抱え劇団なので、スタッフと団員は結構仲が良い。そして、この「スキライズム」は劇場「サブマリン」のお抱え劇団、というところが少し特殊な部分になってくる。

 実は日本においてお抱えの劇団というのはかなり少ない。で、お抱えの劇団になると何が良いのかというと、基本給が出るようになる。と言っても、これも大した額ではない。逆にデメリットはというと、入団の際のハードルが若干上がる。「スキライズム」の場合は「サブマリン」のスタッフを同伴しての面接がそれに当たる。

 因みに俺と佐藤が初めて出会ったのは、この面接の時だった。本来ならば、全スタッフのリーダーであるゴンさんが面接官として出席すべきだったが、娘が発熱したとかで欠席していたのだ。言っておくが彼女は二児の母である。で、スタッフルームでゆっくり弁当を食べていた俺に白羽の矢が立った。多分一番暇そうだったんだろう。


「まあ、どうせ」今度はちゃんと前を向いてゴンさんは呟いた。

「大した事情じゃないと思うけどね」

「それ俺が言ったんですけど」

 正直、なんてことは無い、日常に起こるハプニングの一つだろう、そう思っていた。そもそもゴンさんの見間違いということもあり得るし、じゃなくても拠ん所ない事情の一つや二つ、誰にだってあるじゃないか、まあ今度会ったら聞いてみよう、そう、思っていた。



 二日後の午後、俺とゴンさんは劇場「サブマリン」の最寄り駅のホームへ地下通路を、黙々と歩いていた。この日は午前に全体リハーサルがあったのだが、その最中に舞台装置のいくつかに不備があることが判明したのだ。更に修理に必要な部品の在庫がないことに気付き、青ざめながら舞台装置の販売元に電話したところ、先方の専務が直々に「幸いこちらに在庫がある」と伝えてくれた。が、

「運転出来る人間が全員出払っちまって、配達は無理だとよ」

「電話に出て下さった方は駄目なんですか」

「専務と社長はもう年で、両方とも事故が怖くて先月免許返納したらしい」

「……まあ、結構なことじゃないですか」

「良いことなんだけどな、今じゃないだろ、今じゃ」

 と言うことで、俺とゴンさんで先方に電車で向かい、向こうの社用車で部品を劇場に届けた後、社用車を返して、また電車で帰ってくるという、何ともまどろっこしい方法で部品を調達する羽目になってしまった。もの凄く面倒くさい。で、なぜ俺がついて行くのかと言えば、在庫管理の責任者が俺だったからだ。みんな、ごめんね。

 そんなわけで、ゴンさんはとっても機嫌が悪かった。ゴンさんのポニーテールもイライラしているのか、地下通路の生暖かい風に吹かれて、左右にゆらゆら揺れている。それなりに人がいるのに、スイスイ歩けているのは身長百七十センチ後半の女性が、俺の前で怖い顔をしているせいだと思う。そろそろ機嫌を直して欲しい、だってスタッフルーム出てから一回も口きいて貰えてないんだぞ。

 何か会話のきっかけになるものはないか、と意味もなく無機質なタイル張りの壁を見渡し、そしてあることに気付いた。

「ゴンさん、なんか」

「ん」ホームへ降りるエレベーターの前で立ち止まったゴンさんが、低い声で返事をしながら、ボタンを押した。駄目だ。まだ全然機嫌が直ってない。「ん」か「おん」で会話するゴンさんは腹を立てているのを、俺は知っていた。

「なんか、あれ、多くないですか」俺はそう言って、ゴンさんのすぐ横に貼ってある「盗撮に注意!」と印刷されたポスターを指さした。ゴンさんはチラリと横目でそれを見てから、おもむろに振り返って、

「ん」と呟いた。

 今まで俺とゴンさんが歩いてきた通路の壁には、結構な頻度でそのポスターが貼られていた。ちょっと病的な何かを感じるほどの枚数だ。

「しかもこのポスター、ちょっと変じゃないですか?」

 何が変なのかというと、全体的に雑なのだ。デザインが、明らかに鉄道会社が公式で発行したものではなく、この駅の関係者が勝手に作成してそこら中に貼り付けたのだろうな、と容易に想像できる出来だった。具体的に言えば、黄色と黒が主に使われているせいで、無駄に毒々しくなっているし、出没している盗撮犯の背格好が詳細に記載されているためか、どちらかと言えば、注意書きと言うより人相書きみたいになってしまっている。

「……この犯人の特徴、佐藤に似てるな」

 ゴンさんに言われて、俺はもう一度ポスターを眺めた。身長は百七十センチほど、痩せ型、黒っぽいパーカーとカーキ色のズボン、なるほど佐藤の外見によく似ていた。が、俺はそれよりも重大なことに気付いていた。

 ゴンさんが自分から喋った! 一旦「日本語使わないモード」に突入すると、少なくとも半日はまともに口を利いてくれなくなるので、これはかなり珍しい。やったね、今日はついてるな。

「ですね、この服装なんて、一昨日あいつが着てたのとほぼ一緒じゃないですか」

 調子づいていた俺は、ニヤニヤ笑いながら話していたのだが、ものの二秒でそのアホな笑顔を引っ込める羽目になった。犯人の特徴の下にある括弧書きを読んだからだ。


(これは六月十八日に確認されたものです)


一昨日の日付だった。

「え」思わず声が漏れた。慌ててゴンさんの表情を確認すると、さっきとはまた違う、険しい表情を浮かべている。どうやらとっくの昔に気付いていたようだ。

 いやいや、そんなわけないだろ。一昨日のあいつの服装、ほんとにこれだったか? 上は、間違いなくパーカーだった、色も確か黒だ。待て、下はどうだった。確か……、チノパンだった気がする。違う。大事なのは色だ。あのチノは何色だったっけ?

 頭の中で記憶の反芻に必死になっていると、自分の真後ろに人が立っている気配がした。その人は、聞き覚えのある、今正に思い出していた声でこう言った。

「今野さんに宮川さん、奇遇ですね!」

 全身の関節をフル稼働させ、高速で振り向くと、そこには当の本人である佐藤の姿があった。服装は紺色のパーカーに、カーキ色のチノパン、無邪気な笑顔を浮かべながら、俺とゴンさんの顔を交互に見ていた。

 ゴンさんがさりげなく横へ一歩動き、身体の向きを変えた。佐藤からポスターを隠したのだ。俺は冷や汗をかいているのを悟られないよう、佐藤に話しかけた。

「あれ、お前、もう帰ってたんじゃないのか」

「ちょっと自主練してて、遅くなったんですよ。お二人は何を?」

「ほら、リハーサル中に機材トラブルがあったろ。その修理に必要な部品のお遣いだよ」ゴンさんが答える。

「あー、なるほど」そう言ってから佐藤は改めて俺とゴンさんの顔を見て、クスクス笑いながら、

「二人ともなんか変ですよ。なんで緊張してるんですか」と言った。

 さあ、なんて答える、俺。下手な返事は出来ないぞ。どうにか適当な理由を、と思っていると、「チンッ」という音とともにエレベーターのドアが開いた。助かった。

「とりあえず、乗ろうぜ」

 二人を促して、俺たちはエレベーターに乗り込んだ。「下に参ります」という機会音声さえも、今は天使の声に聞こえる。

「そういえばさ」俺は逆に仕掛けにいくことにした。すごく怖いけど。

「この前の金曜、お前どこ行ってたの」

「どこって、リハーサルしてたじゃないですか」

「ああ、違う。その後だよ」

「それなら、バイトですね。先月ぐらいからちょっとずつ入れてたんですよ」

「でもさ」さあ、これが聞きたいんだよ。「俺に『ちょっとした用事がある』って言ってなかったっけ」

佐藤は数回瞬きした。ゴンさんはボタンの前で仁王立ちをしながら、俺と佐藤のやりとりをじっと見ている。

「駅の方に、ちょっとした野暮用があって」

 その野暮用って何だよ、そう聞こうとした瞬間、エレベーターの扉が開いた。ホームに着いたのだ。俺が一瞬躊躇したその瞬間、ジリリリリリ、というやかましい警告音とともに「まもなく発車いたします」という駅員の声がホームに響いた。

「あ、済みません! お先に失礼します!」

 そう言うと佐藤は止める間もなく走って行き、あっという間に地下鉄へ乗り込んでしまった。後に残されたのは、ポカンとしている俺とゴンさん、それから「駆け込み乗車はおやめ下さい」という苦情めいたアナウンスだけだ。

 とりあえず俺とゴンさんはエレベーターから降りて、空いているホームのベンチに腰掛けた。ゴンさんは腕組みをしながら、

「ルパンに逃げられた、銭形ぜにがた警部みたいな気分だ」

と呟いた。俺もそれには同感だった。



 数日後、俺は劇場「サブマリン」の舞台上の、照明器具の裏に腰掛けていた。二週間ほど続いたリハーサルもいよいよ大詰めで、今日が最終調整日だ。今、舞台では主人公の少女が、地下室に住み着いている怪人に会うために長い階段を降りている。言っておくと怪人役は佐藤だ。クライマックスなのだが、幸か不幸か照明係の仕事は殆ど無い。次のシーンまでやることがないので、ボーッとステージを眺めながら、俺は先週の日曜日のことを思い出していた。


 あの後、俺とゴンさんは予定通り部品を届けた帰りに、例の駅の駅員室を訪れた。盗撮被害がどのぐらい前からあったのか、確認するためだ。奥の方から出てきた白髪の駅長は、快く被害が一ヶ月前から続いていることを教えてくれた。

 話を聞いて他に分かったことは、盗撮犯は女性の下着を狙っていること、場所は電車の車両、ホーム、エレベーター、エスカレーターなど多岐に渡ること、小型カメラを使ったり、人の多い時間帯を狙っていたりと、かなり慣れている様子だということなど、色々聞き出すことが出来た。

「こんなこと言って良いのか分かりませんが、ヤツはプロですよ」

 駅長はたるんだ顎を人差し指で掻きながら、しゃがれ声で続けた。

「内の駅員と鉄道警察さんが何回も実際にヤツを見つけて、追っかけてるんですがね、土地勘があるのか知りませんが、上手ーく人混みの中でまかれてしまうんですよ」喋りながら駅長はチラリとゴンさんを見て、俺に向き直った。

「ところで」

「なんでしょう」俺は答える。

「そちらさんは本当に盗撮被害に遭ったのかね」

「そうですが」ゴンさんはすました顔で答えた。

 なわけがない。照明スタッフの作業用ズボンを履いている人が、どうやったら下着を盗撮されるというのだ。

 このやりとりの後も、どうやら話を聞きに来た鬼子母神みたいな面をした大柄な女性と、若干血の気の引いた顔をしている男性のコンビにいたく興味を示したらしく、逆に根掘り葉掘り話を聞こうとしてきたので、とっとと退散した。


「しかしなあ、一ヶ月前か」駅員室から脱出した帰り道、ゴンさんは軽くのびをしながら渋い顔で言った。

「あいつが、バイト始めた、って言って駅の方に帰りだしたタイミングとぴったりですね」

 ゴンさんは少し黙った。六月の中頃の夕日は午後五時をまわっても、辛抱強く西の空にしがみついている。薄い橙色に染め上げられた歩道を制服姿の学生たちが、若さをそこら中に振り撒きながら自転車で駆けていった。

「宮川」

「はい」

「このことは、一旦保留だ」

 正直ほっとした。ゴンさんのことだ、「明日会ったら縛り上げて、警察に突きだそう」などと言い出しても、おかしくはなかった。

「まだ、そうだと決まったわけじゃないですもんね」

「そうだな」グッと顎を引いて、力強くゴンさんは言い放った。

「次だ」

「え」

「次あいつが何か言い訳して、駅に向かったら、走って追いかける」

「……」

「で、マジでそういうことをしてたら、叩きのめして駅長の爺さんに、身柄を引き渡す」

「引き渡すって」そこは警察じゃないか?

「これで行こう」再びゴンさんは力強く言った。


 果たしてどうなんだろう。涙を流しながら少女に迫っていく怪人を見下ろしながら、俺は腕を組んだ。現状、状況証拠はもう揃いきっていると言えるんじゃないだろうか。背格好は全て一致しているし、時期的な矛盾も無い。追っ手をまく運動神経も持ち合わせているし……、ん、土地勘の話はどうなる? 誰よりも駅周辺を見慣れている駅員に土地勘があると言わしめる程に、周辺地理に明るいのか。と言うか、あいつに隠しカメラなんて扱えるのか?

 いや、そもそも職場の友人を疑ってかかるって、人としてどうなんだ。佐藤とは面接官として出会ってから、ずっと仲良くしてきた。忙しい合間を縫って飲みに行ったり、お互いに悩みを打ち明けたり、舞台俳優とスタッフという関係以上に理解し合えていると思っていたが、それは俺だけじゃないはずだ。あいつは盗撮とか、そういうのに手を染めるタイプじゃない。

 ……待て。感情論に走るな。悪いことしたやつが捕まった時に、そいつをよく知る人間の証言ランキングがあったら、堂々の一位は「あいつそんなことする様なタイプじゃない」で、僅差で二位が「落ち着いた、挨拶のよく出来るいい人だったんですけどねえ」だ。間違いない。ここは確実な情報のみで考察するんだ。

 仮にあいつが盗撮犯だったとしよう。とすると「カメラの扱い」と「土地勘」の二つの矛盾点が出てくる。「カメラの扱い」は正直俺もよく分からないので一旦保留にするとして、問題は「土地勘」だ。思いつく理由は①一ヶ月の間に徐々につかんでいった、もしくは②元から持っていた、の二つぐらいだ。

 ①は無いんじゃないかな。あの駅は地下鉄が二本、地上ではJRが通っているせいか、結構ごちゃごちゃしている。一ヶ月も使えば抜け道や近道の一本や二本ぐらい見つけられるだろうが、ここを職場にしている駅員を出し抜くのは、運や偶然を総動員しても、ちょっと無理がある。

 ②に関しては、正直はっきりとは分からない。佐藤は今、劇場から電車で二十分ほどの所に住んでいるはずだが、以前に駅周辺で暮らしていた可能性もあるし、犯行以前に駅の下見を済ませていた、ということもあり得る。①か②、どちらかと言えば②だ。

 逆に、だ。佐藤が犯人じゃなかったら、どうだろう。問題は当然、ほぼ完璧に一致している背格好だ。偶然にしては余りにも出来すぎている。となると、わざと服装を盗撮犯と一致させていた、ということになる。じゃあ、何のために?

 舞台上では、主人公の少女の恋人でもある青年貴族が、少女を助けようと勇んで地下室に向かったが、まんまと怪人の罠にかかり、もがき苦しんでいる。怪人はというと、なぜか地下室に置いてあるパイプオルガンの演奏にご執心だ。なかなかに脈絡のない場面だが、それに違和感を与えず、哀愁漂う雰囲気を作り出せるほど、佐藤の演技は上手い。もう五十回以上同じシーンを見てきた俺ですら、ちょっとしんみりするレベルだ。

 もし、俺があいつだったら、この才能を発揮するチャンスをふいにする様なことは、絶対に避ける。そう考えると、佐藤は誰かに頼まれて、もしくはそうせざるを得ない状況に陥って、わざわざ盗撮犯のフリを一ヶ月もやっていることになる。また、なぜ? なんのために? の登場だ。分からないことが多すぎる。それとも根本から発想が間違っているのか。名探偵某なにがしとかなら、ここで「ひらめいた!」と声を上げて頭上に電球を点灯させそうだが、俺にはさっぱりだった。分からんものは、分からん。


「くぉら宮川! 何ボケッとしてんだ!」

 唐突にゴンさんの怒声が、内線イヤホンを通して俺の鼓膜に跳び膝蹴りを決めてきた。もはや五月蠅うるさいとかではなく、痛い。何事かと反対側の照明機材の後ろに陣取っているゴンさんを見ると、鬼のような形相で舞台を指さしている。今度は慌てて舞台を見下ろすと、今正に場面が変わろうとしていた。

 やばい。本来なら次の場面になる前に、既に照明の準備は万端にしていなければいけないのに、色々考えている間にタイミングを逃していたみたいだ。冷や汗を滝のようにかきながら、どうにかこうにか間に合わせると、また内線イヤホンから、

「お前、終わったらスタッフルーム来いよ」というゴンさんの低い声が飛び込んできた。さっきよりも落ち着いた声色だが、それがより一層恐ろしさを際立てている。

 ああ、やっちゃったなー、三十分、いや四十分は反省会だ。少々落ち込みながらも、これ以上ミスをしないために、可能な限り手際よく作業を続けていく。左手で光量と範囲を調節しながら、右手で椅子に深く腰掛け、着けている仮面をなでながら嘆き悲しむ怪人にスポットを当てる。集中しなければ、と思いつつも、やはり頭の片隅であのことを俺は考えていた。なんで? 怪人はむせび泣き続けている。お前の目的は、一体何だ?


「宮川さん、怒られてたでしょ」刑の執行を待つ死刑囚のような心境で、スタッフルームのパイプ椅子に腰掛けていた俺に、佐藤がニヤニヤ笑いながら話しかけてきた。佐藤は基本的にスタッフルームに用事は無い身分なのだが、よくここに来ては俺と無駄話をしている。

「ああ、ばれてたかー。そんなにミス目立ってた?」

「全然気付かなかったですけど、リハーサル終わった後に、すんごく怖い顔した今野さんと一緒に歩いてるの見たんですよ」

 ここで佐藤はニヤニヤ笑いを急に引っ込めて、

「で、何かあったんですか」と聞いてきた。

「何かって、何が?」

「だって、宮川さんああいうミスあんまりしないから、何か困りごとでもあったのかな、と思って」

 ご名答、お前だよ、と俺は心の中で答える。

「いや、まあ、色々とね」さて、どう答えようか、と考えながら適当に言葉を濁していたが、俺はあることを思いだした。

「そういえばこの前ゴンさんから聞いたんだけどさ」

「はい」

「お前二週間ぐらい前にタクシーに乗らなかった?」

 佐藤は数回瞬まばたきして、天井を見上げた。

「そう……ですね。確か先々週です」

「何かあったの? あんまりタクシーなんて乗らないだろ」

「それは」

 と、スタッフルームのドアを乱暴に足で開けながら、「宮川、待たせたな」とゴンさんが登場した。両手に機材の部品が色々入った段ボールを抱えている。リハーサル中の例のミスを不問にする代わりに、ガタの来ている機材の修理を頼まれたのだ。

「いえ、大丈夫ですよ」全然良くないよ。タイミングが悪すぎるぞ、ゴンさん。

「どうしたんですか、これ。」佐藤は段ボールの中を覗き込んだ。

「これはな、そこにボケッと座ってる男の」ゴンさんは俺を力強く指さした。「罰ゲームの道具だ」

「へえ」佐藤も俺を見てまたもやニヤニヤしながら「罰ゲームかぁ」と言った。こんにゃろ。

「本番で似たようなことしたら、承知しないからな」俺をにらみつけながらゴンさんは、部品の入ったプラスチックのケースとケーブル二、三本、それから説明書を手渡してきた。

「本当に申し訳ないです」本日十二回目の謝罪をしながら、部品類をゴンさんから受け取る。佐藤は俺とゴンさんのやりとりを見ながらニヤニヤ笑いを続行していたが、ふと時計に目をやるとごそごそと荷物をまとめだし、

「僕、用事があるので、お先に失礼します」と言った。

 ゴンさんは俺に小言を言うのに忙しかったし、俺は俺で次から次へと飛んでくる小言をどうにかいなしていたので、結構な生返事をしてしまった、と思う。よく覚えていない。

 一通り小言を俺にぶつけ終えると、ゴンさんはため息をついて、

「で、なんでボーッとしてたんだ?」と聞いてきた。

「そりゃ、佐藤のことですよ」

「あのなあ」ゴンさんはあきれたように笑った。「一旦保留って言ったろ」

「でも、気になっちゃうんですよね。だってあいつが盗撮なんてするわけ無いのに、証拠だけ見るとどう考えても犯人になっちゃってるじゃないですか」

「普通に考えたら、誰だって盗撮なんてしないよ」

 そう言ってゴンさんはパイプ椅子から腰を上げ、

「はい、もう無駄話は終わり。とっとと片付けちまうぞ。次に『何か動きがあるまで、一旦保留』を破ったら、一日中駅で張り込みさせるからな」と釘を刺した。で、部屋から出ようとして、何かに気がついたような顔をして、俺を見た。

「あれ、佐藤は?」

「さっき帰りましたよ」と返してから、俺も気付いた。あいつ、帰り際になんて言った?

「お前ちょっとそこで待ってろ」ゴンさんはそう言って、スタッフルームを駆けだしていった。どうやらエントランスホールの警備員に話を聞いているらしく、「佐藤」「走って行った」「駅の方」という言葉の切れっ端がこっちにまで聞こえてくる。すぐにゴンさんは戻ってきて、

「宮川、佐藤のやつ駅に向かったらしいぞ」と勢い込んで言った。

 俺は財布とスマホを引っ掴んで椅子から立ち上がった。俺の様子を見てゴンさんは無言で走り出した。当然俺も後に続いた。



 数分後、俺とゴンさんは息を切らして例の駅の改札口の前で立ち止まった。勢いで走り出したまでは良かったが、結局ここに来るまでに佐藤は見つけられず、何をどうすれば良いのかも分からない。それはゴンさんも同じのようで、肩で息をしながら、

「これからどうする」と言いながら辺りをぐるっと見渡した。帰宅ラッシュ真っ只中、というわけではないが駅はスーツ姿の男女でごった返している。

「とりあえず佐藤を見つけましょう。あいつに話を聞かないことにはどうしようもない」

「そうだな」

 というわけで俺とゴンさんは捜索を開始した。が、見つかる気配が全くしない。時間が経つに連れ徐々に人も多くなり、逆にゴンさんとはぐれそうになる。駅構内をうろうろしていると、いやぁな想像が頭をもたげてきた。あの駅長の爺さんは「犯行現場は駅構内とは限らない」と言っていた。今俺たちは必死に改札前を探し回っているが、もしあいつが電車の車両内や改札の内側に既にいた場合、無駄骨にならないか?

 これはゴンさんに伝えておくべきだろう。そう思って振り返った時、何やら前方二百メートルほどで人だかりが出来ているのに、俺は気がついた。ゴンさんも気付いたようで、つま先立ちになりながら目をこらしている。何かのトラブルか、誰かが倒れたのか、と思って見ていると、人だかりの中から急に黒っぽい服装の男が飛び出してきた。ほぼ同時に、「逃げたぞ!」「誰か捕まえて!」「盗撮犯だ!」という声が上がり、駅構内は一気に騒がしくなった。

 俺の脳ミソは「盗撮犯」というワードに一瞬で反応した。考えるより先に足が動き、気がつけば男の後ろを猛然と追いかけている。途中でゴンさんが呼んでいるような気がしたが、かまうものか。今は緊急事態だ。

 逃げる男は、妙な走り方をしていた。若干右足を引きずるようにしているが、だからと言って遅いわけではなく、むしろ上手く人混みを利用してスイスイと距離を離していく。逆に俺は、最初の勢いはどこへやら、もうバテ始めていた。既に一分以上追いかけっこをしているように感じていたが、多分二十秒も走っていなかったと思う。

 俺は走りながら、男の素顔をどうにか確認しようと頑張ってみたが、振り切られないようにするのが精一杯だった。黒のパーカー、カーキ色のチノパンの他に、紺色のキャップを深くかぶっているので、髪色も分からない。現状こいつの見た目は佐藤に瓜二つだ。

 少しずつ俺との距離を離していた男は急に向きを変えて、目の前の人だかりに突っ込んでいった。当然俺も後に続きながら、

「そいつ盗撮犯です! 誰か捕まえて下さい!」と叫んでみたが、わらわらと人混みが散っていっただけで、誰も動こうとしない。が、人がある程度いなくなったおかげで、前方に何があるかはっきり分かった。駅の三番出口の看板の下を男が走り去っていく。こいつ、駅の外に逃げる気だ!

「ちくしょう!」

 思わず声が漏れた。後もう少しなのに。どうにか出来ないかと辺りを見渡すと、盗撮犯が逃げていく直線上をちょうど横切る進路で歩いている、中肉中背の男の姿が目に入ってきた。スマホをいじっているようで、目前の騒動に気付いていないようだ。盗撮犯もそれに気付いたのか、若干走る方向を変えた。

次の瞬間、歩いていた男が、素早くスマホをしまい、盗撮犯目がけて猛然とダッシュを開始した。ちょっと後ろから走りながら見ていた俺ですら、理解が追いつかなかったのだから、盗撮犯は反応すら出来なかっただろう。男はものの見事なタックルをぶちかまし、盗撮犯は駅の柱に叩きつけられた。

ハリウッドさながらの急展開に驚いて転びそうになりながらも、俺はタックルを食らってのびている盗撮犯のもとに駆け寄った。仰向けになって泡を吹いているその顔は、


佐藤じゃなかった。


 緊張が一気に解け、疲労と安堵で震えながらどうにか俺は立ち上がり、通りすがりのタックル男に向かって、

「済みません。警察呼んで貰えますか」と言った。別に自分で通報したって良かったのだが、非日常を直に体験した後だったので、これ以上日常から外れたことをしたくなかった。せめてあんたが肩代わりしてくれよ、というわけだ。

「えー、ちょっと無理かなぁ」

 当然、「分かりました」という返事が来るものだと思っていた俺は、

「え」と言って思わずタックル男の顔をまじまじと見てしまった。そしてもっと驚いた。だって、ニヤニヤ笑っていたタックル男は、

「あれ、宮川さんじゃないですか、奇遇ですね」

 佐藤だった。



「何があったか、私たちにも分かるように説明しろ」

 ゴンさんはテーブルについさっき到着したばかりのアイスコーヒーをものの五秒で飲み干すと、そう言い放った。喉が渇いていたらしい。

 タックル男が佐藤だと判明した後、ゴンさんがやっとその場に到着し、俺たち二人を駅のタクシー乗り場のすぐ近くにある喫茶店に連れてきたのだ。俺は警察が到着するまで待っていた方が良いと言ったのだが、夜のバイトに遅れたくない佐藤と、早く話が聞きたいゴンさんの反対に押し切られた。

「僕はただ、盗撮犯のフリをしてただけですよ」

「何のために」俺はアイスコーヒーにガムシロップを入れながら聞いた。

「まあ、順を追って話しますから、聞いて下さい」


 お二人はさっき、「盗撮被害は一ヶ月前から」っておっしゃってましたけど、それは間違いです。僕の知る限り、三ヶ月ぐらい前からあいつは盗撮をしてました。で、どうにか止めさせたいな、って思ってたんですけど、ある時「僕があいつに変装して、頻繁に駅に出没すれば警戒が厳しくなって、盗撮がやりづらくなるか、上手くいけば警察に逮捕させられるかもしれない」と思ったんです。それが大体一ヶ月と二週間前のことで、そこから駅内部と周辺の地理を頭に入れたり、盗撮犯の服装とか時間帯の傾向を調べたり、色々やりました。……いえ、結構楽しかったですよ。なんか小学生に戻った気分でした。今度一緒にやってみます? ……ああ、そう。

 まあ、兎に角、その後は変装して、盗撮っぽいことをしたりして、たまに駅員さんから疑われて、追いかけられて、の繰り返しでした。なんだか、途中から役者魂に火がついちゃったんですよね。どれだけ犯人っぽい雰囲気を出すことが出来るか、みたいな。疑われる度に「上手くいったんだ!」ってなっちゃって、困りましたけどね。僕がそうやってる間にも、本当の犯人の方も性懲りも無く盗撮をやってたみたいですけど、その内に駅にポスターが貼られたりとか、鉄道警察が見回りを強化し始めたりして、徐々に効果は上がってきてました。それで今日、見事お縄になったっていうのが顛末てんまつです。

 ……うーん。残念ながら三番出口にいたのは偶然です。偶然というか、まあ一種の賭けですね。いつも通りトイレで変装しようとしたら、なんだか駅の中が騒がしくなっていたので、もしかしたらと思って待機してたんです。結果オーライってやつです。


「先生、質問です」俺は挙手した。

「はい、宮川君」佐藤は俺を指さす。

「盗撮したフリって、具体的には何をしたんだ」

「そうですね。例えばエスカレーターで、ミニスカートを履いている女性の後ろに繰り返し立つ、とかですね」

「それだけなのか?」ゴンさんは意外そうに聞き返した。

「最近の盗撮は結構凝ってて、自分の靴のつま先の部分にカメラを仕込んだりするんですよ。そうすると、スカートを履いている人の後ろに立つだけで盗撮が出来るって言う寸法です。あの犯人も確かやってましたよ」

「ああ、なるほどね」だから走り方がおかしかったのか。

「私からも一つ質問がある」ゴンさんが慣れた手つきでポニーテールを結び直しながら、質問した。

「どうぞ」

「お前はどこで『盗撮被害が三ヶ月前からある』という情報を手に入れた?」

 俺もそれには引っかかっていた。俺とゴンさんが下手な芝居を打ってまで、駅長から聞き出した情報も「一ヶ月前」だった。どこで被害を知ったのかは説明されてない。

 佐藤は少し頬を赤らめた後、

「実は僕、少し前から付き合っている人がいまして」と口を開いた。

「ほう」とゴンさん。

「へぇ」と俺。

「彼女は度々この駅を使うんですけど、三ヶ月ぐらい前に『盗撮にあったかもしれない』と僕に相談してきたんです。その頃はまだ付き合って間もなかったので、『僕がどうにかする』みたいな虚勢を張ってしまったんですよ。それがこの変装ごっこのきっかけみたいなものです」

「じゃあ」ゴンさんは微笑しながら、「バイトを始めたのもそれが理由だな」と言った。

「あ、分かりますか?」佐藤も照れくさそうに笑った。「同棲することも考えてるんですけど、どう考えても今の収入じゃ目当ての新しい部屋を借りられないので、始めたんですよ」

 俺はまじまじと佐藤を見つめてしまう。へぇ、こいつ彼女いたのか。


 そろそろ出発しないとバイトに間に合わなくなる、と佐藤が言い出したので、俺たちは喫茶店を出た。気付かない内に小雨が降っていて、少しだけ憂鬱な気分になる。

「お前、バイト先までなにで行ってんの?」ゴンさんが空を見上げながら訪ねた。

「タクシーです」佐藤は事もなげに言う。

「タクシー?」俺は思わず声を上げてしまった。「どこにそんな金が」

「あれ、言いませんでしたっけ。僕の彼女、タクシー運転手なんですよ。バイト先が最寄りの駅から遠いって文句言ってたら、タダで乗せてってあげる、って言ってくれたので、お言葉に甘えてるんです」

俺は抗議の意味も込めて「職権濫用だあ」とつぶやく。

少し歩いたところで佐藤が「あのタクシーですね」とタクシー乗り場に止まっている一台を指さした。小走りに向かおうとする佐藤をゴンさんが「ちょっと待ってくれ」と言って呼び止めた。

「何でしょう」きょとんとした顔で佐藤が振り返る。

「最後に一つだけ聞きたいことがある」

「いいですよ」

「途中で警察に相談しようとは思わなかったのか?」

 佐藤は数回瞬きをして

「そうですね、最初はそれもありかなって思ってたんですけど、かなり上手くことが運んでたので、もったいなくなったっていうのと」

 言葉を句切ると、ニコッと笑って、

「演劇みたいで面白かったからです」と続けた。

 ゴンさんは「そうか」とだけ言った。

「じゃあ、また明日」そう言って佐藤は軽く一礼すると、今度こそタクシーに駆け寄っていき、助手席に乗り込んだ。すぐにタクシーは雨の中でライトを光らせながら、走り去っていく。


 雨の中に消えていったタクシーを見届けた後、ゴンさんはしみじみと

「要するに私たちは、あいつのお芝居に乗せられてたってことか」と呟いた。

「まあ、そうなりますね」

「ああいうやつが、きっと演劇に人生を捧げるんだろうな」

「うらやましかったりします?」

「いや、私は何かに人生をかけて生きるのは、あんまり好きじゃないんだけど、ああいうのを見てると『なんかいいな』って思えるから不思議だよ」

「そうですね」俺もしみじみと呟いてみる。「なんかいいですよね」

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