クロスロード / 中野弘貴 作

名古屋市立大学文藝部

クロスロード 第1章

トラフィック


 交差点の信号が青になっていることを確認して、橋本はしもとは徐々にブレーキを掛けた。適度なタイミングで右ウィンカーを出し、交差点の中央付近で停車する。対向の直進車が途切れた頃合いを見計らってハンドルを切り、交差点から出る。ウィンカーがカチッと切れるのとほぼ同時に、後部座席に座っている女性客が口を開いた。

「今、交際って、されてますか?」

 ウィンカーが切れる小気味よい音を聞きながら、橋本はすっと目線を上げ、バックミラー越しに女性客の様子を窺った。

「ええ、一応していますよ」

 普段なら橋本は客の顔を盗み見たりはしない。というか客に対して必要以上の関心を払うことをあまりしない。もっとも客の方は、二十代半ばで、しかも女性がタクシー運転手をしているのがそこそこ珍しいのか、時折「どうしてこの仕事に?」と聞いてくる。ピチピチの新人の頃はいちいち律儀に答えていたが、時が経つにつれ面倒くさくなり、「まぁ、成り行きですね」などと返すようになった。

 で、そんな橋本がなぜ彼女のことを気にしたのか。それは外見と発言のギャップである。この手の発言の形は大体「ねえ君、彼氏いるの?」で、発言者は良識と節度を、ネクタイと一緒にどこかに置いてきた酔っ払いであることが大半なのだ。

 まあ、要するに若い女性を乗せたはずなのに、思いがけない質問が飛んできたので、思わず確かめてしまったというわけだ。あれ、素面の女性だったよね、と。

 バックミラーに写ったのは、黒髪のショートカットに、水色のシャツを身に着けた、美人というわけでは無いが、清々しさを周囲にまとっている二十代後半ぐらいの女性だった。色白なのがそう思わせるのだろうか。もちろん、酔っ払っている様子は無い。

「……そうですか」

女性客が静かに言葉を返した後、再び車内に静けさが訪れた。まだ早朝とは言え、やはり八月の朝は早く、もう日は上っている。が、高架下を走っているせいで車内は暗いままだ。ビル群に当たる朝日が、波打ちながら反射して、橋本の目を刺激してくる。朝日はしっかりと街に差し込んでいるようだが、今朝の天気予報では朝から雨になっていた。さて、本当だろうか。最近の天気予報はどうも当てにならない。確か先々週も同じ様なことがあって、干してあった洗濯物が全部雑巾みたいになったんだっけ……そんなことを頭の隅の方で考えながら、遠くに突っ立っている信号機の色を確かめる。青だった、が、おそらくこの青はもうすぐ黄色になる青だ。

ブレーキペダルを優しく踏みつけると、徐々に背中がシートに吸い付けられるような感覚になる。もの凄いスピードで後ろへ走っていた街路樹たちが段々と落ち着きを取り戻し、やがて立ち止まると、橋本の背中もシートからポンッと押し出された。

目の前の横断歩道を何気なく眺めていると、視界の左端からワイシャツ姿の若い男性が走り込んできた。社会人二、三年目のサラリーマンと言った格好で、必死の形相をして走っている。まだ遅刻するという時間帯でも無いのだが、何か拠ん所ない事情でもあるのだろうか。橋本がその拠ん所ない事情を適当に想像して遊んでいると、サラリーマンが車道と歩道の段差にけつまずいたのか、かなり派手に転んだ。履いていた靴の片方と鞄が、放物線を描いて前方に吹っ飛んでいき、本人ももんどり打って一回転した、チャップリンもかくやという転び様だったので、本当は心配しなければいけないところなのだろうが、橋本は思わず吹き出しそうになった。

いけない、いけない、耐えろ私。と、橋本が必死に笑いの波を自制心の防波堤で押し殺していると、後部座席で誰かがふふっ、と小さく笑い声をあげたのが聞こえた。当然女性客が笑ったはずなのだが、「声を出して笑う」という行為が彼女のイメージとかけ離れていたのと、咄嗟にバックミラーで彼女を見た時には、既に真顔になっていたので、そよ風の精が微笑したのかと勘違いしかけた。童話でよくある話だが、そんなわけは無い。

そよ風嬢は笑ったのを悟られたく無いようだが、彼女の笑いで車内に漂っていた、緊張感とまでは言えない変な空気が消えていったのを橋本は感じていた。そよ風嬢にもその感覚は伝わっていた様で、真一文字に結んでいた口をふっと解くと、

「その、変な話をしてもいいですか」と言った。

出たな、変な話。と橋本は思った。この世の話の前置きは大体はったりだ。「これは本当にあった話で……」から始まる怪談は殆ど嘘だし、酒の席で聞く「マジですごい話なんだけどさ……」は大体つまらない。当然「変な話」も右に同じくで、確かに珍しくはあるが、「へぇ……それで?」となるようなレベルの「変な話」か、もしくは自分語りを謙遜して「変な話」と言っているかのどちらかだ。

さて、どっちだ。どうせ聞くなら滅茶苦茶長い渋滞に捕まって、暇で暇でしょうがない時に聞きたかったな、などと考えていると、目の前の信号が青にパッと変わった。左右を確認してからアクセルを段々踏み込んでいく。あの転がっていったサラリーマンがその後どうなったのか、確認し忘れたのを思い出して、橋本はちょっともったいない気分になった。またあの調子で走り続けたのだろうか。今度は転ばないといいけど。

「私、今から海外に行くんです」そよ風嬢が再び口を開いた。

 知ってるよ、と橋本は心の中で答えた。彼女が行き先に指定した場所は、空港への直通バスのバス停があるところだ。こんな朝早くに行くということは大方空港に用事があり、そして空港への用事なんて一つに決まっている。国内か国外かは、さすがに分からなかったけど。

「海外旅行に行かれるんですか?」

 多分違うだろうな、とも思っていた。載せた荷物が海外旅行にしては少なすぎる。荷物は先に目的地に郵送してあるんだろう。留学か、後は何だろう、国際結婚とかかな?

「いえ、旅行じゃなくて、転勤です。保険関係の仕事で」

 うーん、残念。

「大体どのぐらい転勤先に」

ここまで言って橋本は発言の後半部分を飲み込んだ。車内の空気がなんとも言えない、微妙な雰囲気になったことに気付いたのだ。どうやら「変な話」の尻尾を踏んづけてしまったらしく、そおっとバックミラーを見ると、そこには硬くなったそよ風嬢の顔があった。

 彼女は少し息を吐いて、車窓を眺めながら、尻切れトンボになってしまった橋本の質問に答えた。

「……普通は五年ぐらいだそうです。長い人だともう二,三年プラスされることがあるみたいなんですけど、どちらにせよもう頻繁には日本に帰れなくなるのは間違いないんです。それで、先々週ぐらいから友人とかお世話になった方々に連絡したり、会って話したりしていたんです。」

 ほう。それで?

「それで、あらかた連絡し終えたのがちょうど先週で、かなり疲れていたんです。大学時代の友達に会いに行ったりして、結構動いた一週間だったので。もうそのぐらいには出発当日の予定、というか今日の予定ですね、それもあらかた決まっていて、その日夜に、何というか、こう……」

 彼女は言葉を途切れさせ、適切な表現を探すように虚空を見つめた、様に思われた。なぜ想像なのかというと、橋本はその時、目の前の横断歩道を渡る老婆に、気が気ではなかったからだ。もうすぐこっちの信号、青になるけど、大丈夫かなこのお婆ちゃん。

「魔が差した、というより、ふっと思いついて、三年ぐらい前に別れた彼氏に、当日乗るバスの出発場所と時間だけをLINEで送ってしまったんです」

 老婆が無事に反対側に渡りきったことに安堵していた橋本の意識は、一気に車内に引き戻された。なんだって?

「……なぜ、そんなことを」

「自分でも、よく分からなくて。送った時の記憶もはっきりとは無くて、翌朝スマホを確認して初めて気付いた感じなんです。送信取消しようかと思ったんですが、もう既読になっていたので、止めました」

「返信は来たんですか」

「いえ、来てないです」

 ん、ということは、だ。

「もしかすると、目的地のバス停に」

「そうですね。私の元彼がいるかもしれない、ということになります」

 三度車内に静けさが訪れた。聞こえるのはタクシーの低いエンジン音と、どこか遠くから聞こえてくるクラクションの音だけだ。

「本当に、何考えてたんでしょうね。伝えたいことも特にないのに。もし彼がいたら、私は何を話せばいいんでしょうか」

 橋本は思った。これは「変な話」じゃない、相談だ。

 彼女の言葉は橋本に問いかけているわけではなく、自問自答のようだった。単純な、なぜ? どうしよう? という戸惑いと若干の自責の念、そして不安がブレンドされた声色が、車内を漂う。

 橋本は少し首を曲げて、空の色を見た。朝日がやや弱まり、雲が出ている。灰色に染まりつつある空からは、雨の気配がした。どうやら天気予報は的中しそうだ。そよ風嬢に悟られぬように静かに息を吐き、橋本は口を開いた。

「もし、ご迷惑じゃなければ、その元彼さんのお話を聞かせて貰えませんか?」

重苦しい沈黙が数秒間続き――後もう少しで橋本は「ジョウダンデスゴメンナサイ」と言うところだった――彼女はゆっくりと語り出した。


 彼はいい意味でも悪い意味でも、常に夢を追っている人でした。大学の同じ学部で出会ったのですが、その頃から「夢は自分の曲を出来るだけ沢山の人に聞いて貰うこと」だと堂々と公言していました。……あぁ、そうですね、言い忘れていましたが、彼は一応シンガーソングライターをやっていました。多分今でもやっているはずです。「一応」というのは、自分が作った曲を聞いて貰えるなら、別にどんな肩書きでも良い、と言っていたからです。なんで自分の曲を大勢に聞いて欲しいかというと、本人曰く、誰かの人生に爪痕を残したいんだそうです。どんな形であれ、赤の他人の人生を少しでも揺るがすことが出来るかもしれないなんて、なんだか素敵だよね、みたいなことをしょっちゅう言っていました。どんな評価でも良い、でも褒められたら嬉しい、「言葉に出来ない良さがある」とか言われたら最高! みたいなことも言ってましたね。私が言うのも何ですが、少し変わった人でした。

 話がそれましたね。そんな彼と付き合い始めたのが……、大体出会ってから半年後ぐらいなはずです。別れたのは確か社会人三年目なので、約四年間交際してました。とは言っても、社会人二年目から徐々に距離を感じるようになってはいたんです。原因は、今考えてみると、多分人生観の違いだと思います。彼は、やっぱり社会人になっても、夢を諦めていませんでした。というよりも、夢が人生そのものだったんだと思います。学生の頃に、シンガーソングライターになりたいなら、なぜ大学に入ったのか、と聞いてみたことがあるんです。専門学校に入った方が良いんじゃない、と。そしたら彼は「経験のため」と答えたんです。「より良い曲を書くためには、キャンパスライフが必要なんだ」と言っていました。その時はひどい偏見だって二人で笑ったんですが、彼が普通に就職したのも多分同じ理由です。本人がそう言っていたわけではないですが。

 兎に角、彼には「そういうところ」がありました。別にそれ自体は嫌いでは無かったです。むしろ、私とはほぼ反対の生き方をしているので、今思えばそこに惹かれたのかもしれませんね。私はどちらかと言えば、安定したいというか、堅実に人生を歩みたいタイプなので。ただ、社会人になって、人生を長い目で見るようになってくると、どうしても私と彼の生き方の食い違いが、目につくようになってきたんです。今の先に見ているものが余りにも違うというか。あと、私が少し怖くなってしまった、というのもあるかもしれません。私と彼の交際も、彼にとっては所詮作曲のための経験でしかないんじゃないか。そんな風に考えてしまうんです。自分以外のものが、そういう扱いを受けていても笑っていたくせに、自分のこととなると急に怖くなるなんて、ずいぶん虫のいい話ですが、それでも不安だったんです。

 それでも、まだ彼と別れるという選択肢は、ありませんでした。このすれ違いもどうにかなる、とその時は思っていたんです。逆に好きな人といえど、赤の他人と一切のすれ違い無く生きていける人間なんて、いるわけないじゃないですか。だから大丈夫、そんな感じで誤魔化すみたいに関係を続けていました。

 別れるきっかけは、社会人三年目の秋頃に、彼が勤め先を辞めたことです。理由はもう察していらっしゃるかと思いますが、作曲活動に専念したいから、でした。この半年前ぐらいから、YouTubeなんかの動画投稿サイトに投稿していた曲が、少しずつ伸びてきていたので、そっちに集中したいと言っていたんです。正直私は反対でした。何よりまず、リスクが高すぎる。もう少し作曲の方が安定してからでも遅くはなかった。あと、辞める時に少しぐらい相談してくれても良かったのに、という感情的な反発もありました。一方彼は、安定したいとかそういうことは関係ない。やりたいからやってるだけだ、と。こんな感じで思いっ切り意見が対立し合って、何度か話し合ってから、別れました。いえ、別れたというか、ほぼ口喧嘩みたいな話し合いの後に、「もう一回時間をおいて、話し合おう」って言ってから、一度も連絡を取り合ってないという状況です。正確に言えば自然消滅というやつですね。

 後悔は、……そうですね、どちらとも言えないというのが、正直なところでしょうか。別れるべくして別れた、とも言えますし、あのすれ違いを放っておかなければ、という思いもあります。まあ、はじめから生き方が違う、っていうことは承知だったはずなんですけどね。こうなることを覚悟し切れてなかったというか、そんな感じです。


 遂に雨粒がフロントガラスに落ちてきた。そよ風嬢が話している間、空はどんどん不穏な色になっていき、雨雲はむくむくと膨れ上がっていたのだ。ハンドル脇のバーを上げ、ワイパーを働かせる。ワイパーはこれから始まる長時間労働に不満があるらしく、左右に振れる度にキュキュッと抗議の声を上げた。

車外が雨音でやかましくなるのとは裏腹に、そよ風嬢の話が終わったことでタクシー内は、静けさに包まれた。先程の重苦しい沈黙とは打って変わって、落ち着いた静かさだった。彼女が思うところを吐き出せたからだろうか。勇気を振り絞った数分前の自分を橋本は心の中で褒めちぎる。偉いぞ私。

薄暗い空と湿り気を帯び始めた車道を見つめながら、橋本は見たことすらない、そよ風嬢の元彼氏のこと考えた。知っている。彼によく似た生き方をしている人を、私は知っている。というかその人は今頃大急ぎで干してある洗濯物を取り込んでいるはずだ、多分。彼なら、なんと言うだろうか。橋本は慎重に言葉を選びながら、沈黙を破った。

「先程、何を話せば良いのか、とおっしゃってましたけど」

「はい」

「話すこと、決める必要ないと思います」

「え」

「別に私は深層心理とか、そういう心理学的なことは全然詳しくないんですけど、わざわざバスの場所と時間を教えるなんて、本当は二人きりで話したいことがあるんじゃないですか? 普通こういう時の見送りって空港とかでするイメージがありますし、お客さんも多分お友達にはそっちの時間を教えたと思うんですけど、どうなんですか?」

彼女は虚をつかれたように少し黙り、

「そう……ですね」と言った。

「話すことなんて、元彼さんを目の前にしてから考えれば良いじゃないですか。そもそもこうやって会いもしないのに、何を話そうか悩んでたから、ずっと連絡出来ずじまいだったんですよね。こんなタクシーの中で話題が思い浮かんだら、それこそ苦労しないと思いますけど」

「でも」ほんの少しだけ、苦しさの滲んだ声で彼女は言った。

「彼には……もう大切な人がいるかもしれない。そうじゃなくても、今彼は本当に自分の道を歩んでいるはずです。だとしたら、そこに私は関わらない方がいい気がします」

 役目を終えた役者は、舞台袖に退く、そういうものでしょう?

 橋本はハンドルを右に切り、車線を変えた。あと数分で目的地に到着する。

「話が少しそれるんですけど」そよ風嬢が何か言う前に、橋本は言葉を継いだ。

「人生において大切な人間関係って、恋人とか夫婦とか両親とか友人とか、つながりが強くて太いものがよく言われると思うんですけど、私はそうでもないなって考えてるんですよ」

「どうしてなんですか?」

「私たちって、一生の内にそれこそ数え切れないほどの人と出会いますけど、その中で親密な関係になれる人ってごく僅かですよね。だからこそ、そういう人たちとの関係を大事にしますけど、じゃあそうじゃなかった人たちとの出会いが、人生において無意味だなんて寂しいじゃないですか」

「……」

「それに取るに足らない出会いが、意外にも人生を支えたりすると思うんです。例えば、今の私とお客さんみたいな。あと、疎遠になった友人とか」橋本は言葉を句切って力強く言った。「元恋人とか」

 橋本はバックミラーを見つめると、まるで示し合わせたかのように、そこにはそよ風嬢の両目が写っていた。漫画や小説ならば、彼女が何を思っているのか、この瞬間にでも分かるのだろうが、非常に残念なことに橋本には何も伝わってこなかった。

彼女はふっ、と息を吐くと「ありがとうございます。励ましていただいて」と言った。

「いえ、偉そうに色々言いましたけど、私がこの仕事を始めるきっかけもこれなんですよね」

「きっかけ?」

 橋本は言葉を句切って、控えめに提案してみる。

「……今度は私が『変な話』をしても良いでしょうか」

 そよ風嬢は、ふふっと笑って「どうぞ」と答えた。


 多分大学一年生の秋頃だったと思います。高校時代の友達に会いに日帰りで旅行をした帰りでした。車の免許は持ってはいたんですが、運転するのがまだ怖くて、在来線を使って行きました。で、行きは良かったんですが、帰りの特急が人身事故か何かかで二時間ぐらい遅れてしまって、結局目的の駅に着いた時には終電が全部行ってしまっていたんですね。その駅から自宅までは、車でも下手すると一時間かかるぐらいの距離で、しかも次の日の朝からどうしても外せない用事があり、とりあえず一旦家に帰らなきゃ行けなかったんです。まあ、そんなギリギリの予定を立てたのが駄目だったんですけどね。

 そんなわけで、タクシーに乗り込んで帰路についたんですけど、予定が狂ったのと旅行の疲れが思いの外あったのとで、かなりイライラしていたんです。それが丸わかりだったのか運転手さんに、

「かなりピリピリしてらっしゃいますけど、何かあったんですか」って聞かれたんです。「良ければお話聞きましょうか」って。

 それを聞いて、なんかこう、一気に気持ちが落ち着いたんです。それからは色々話しましたね。と言っても一方的に私が喋ってただけでしたが。友人に会いに旅行に行ったこと、しばらく会わない内におしゃれを覚えて、彼氏も出来ていたこと、すごく楽しかったのに、帰りの電車が遅れに遅れてタクシーを使う羽目になってしまったこと、そのせいで気持ちが沈んでいたこと、色々話しました。私が話してる間、運転手さんはずっと相槌を打ったり、頷いたりしてくれて、気付いたら家の前についてました。それで、料金を払って、荷物を下ろして貰って、タクシーが行ってしまった後、家の前でキャリーケースと一緒にボーッと立ちながら、「こういうのもいいな」って思ったんです。

 これまでの人生、自分はずっと大切なつながりを求めて生きていました。さっきも言ったような、両親、兄弟、友人、恋人、そういうつながりを作って維持するのに必死でした。当然常に上手くいくわけじゃなくて、そもそもこの日友達に遠路はるばる会いに行ったのも、大学でなかなか友人が出来ないのを、彼女に会うことで埋め合わせしようとしてたんです。

 でも、さっきのタクシーの運転手さんは違った。私は彼の顔はおろか名前すらちゃんと覚えてない。私の人生において、たまたま道ですれ違っただけの人とそんなに変わらない。それでも私の心は彼に出会う前より確実に軽くなっていました。私が今まで求めてきた、深く強い誰かの人生への関わり方とは真逆の、他人の人生にちょっとだけ顔を出して「お邪魔します」って言って帰って行くだけの関わり方、こっちもなかなか捨てたもんじゃないな。そう思ったんです。

 よく質問されるんですよ、「どうしてこの仕事に?」って。この業界には私みたいなのはそれなりに珍しいので。そうやって聞かれる度に、今の話を適当に端折ってお客さんにしてたんですけど、皆さん微妙な反応ばかりなんですよね。だから最近はあんまりしないようにしてたんですけど、今日久しぶりに話しました。聞いて下さってありがとうございます。……いえ、とんでもないです。


 話し終わった頃には、目的地の停留所が目の前に迫っていた。依然として雨は降り続き、一向にやむ気配はない。そよ風嬢はと言うと、窓の外をじっと眺めていた。多分、来ているかもしれない元彼を探しているのだろう。

 まだ時間が早いせいか、停留所には他のタクシーは停まっていない。徐々にスピードを落としながら後部座席の彼女の様子を窺うと、いつの間にかまた能面のような顔になっている。

「いました」短く感情を押し殺した声で彼女は言った。

「そうですか」

 タクシーを停め、料金の支払いを済ませると、橋本は荷物を降ろすため、そよ風嬢と一緒に車外へ出た。トランクルームを開け、小さめのキャリーケースを取り出すと、停留所の屋根の下にいた彼女が「あ、ありがとうございます」と言って受け取りに橋本の前に立った。

 初めて、しっかりと彼女の姿を見た。思ったよりも背が高かった。可愛らしいピアスをしていた。高そうなヒールを履いていた。橋本は思った。ああ、他人だな、と。

「頑張ってきます」彼女は笑った。素敵な笑顔に見えた。もっと笑えば良いのに。

「頑張って下さい」橋本も笑い返した。

 彼女は軽く一礼すると、踵を返して小走りにバスターミナルの方へ向かっていった。遠くに傘を差した人影が見える。何か大きな荷物を背負っている。ギターケースだろうか。

 橋本は運転席に急いで戻った。最後まで見届けるべきではない、そう思った。あくまで「ドライバー」と「乗客」であるべきだ。あの夜、橋本と名も無き運転手が、そうだったように。

サイドブレーキを戻し、ブレーキから足を放す。軽くアクセルを踏み込むと、タクシーは雨の中をゆっくりと進み出した。

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