第14話 人の中の鳥居 続


 前妻は、S県の出だと言っていた。

 出会ったのは都心でだったが、彼女の出で立ちはとても美しかったことを思い出す。

 離婚したのは、そんなに昔だったわけではない。

 それにも関わらず、私はあのラジオを耳にするまで、彼女のことをすっかり忘れてしまっていた。

 忘れようと思ったわけでもなかった。

 むしろ、彼女と過ごした時間はとても愛おしく、とても大切で、宝物のような、淡く美しいものであったはずなのだ。

 喧嘩別れした訳でもない。

 彼女は、S県の田舎で生まれ育ったと言っていた。

 出会ってから、距離を縮め、仲を深め、そうして結婚した私達だった。

 普通の恋をして、愛を深めた。

 幸せだった。


 ただ、彼女は何故か、幼少期の頃の話や、生まれ育った田舎のことを話すことをとても嫌っていたように思う。

 嫌う、というより、話しづらそうな、触れてほしくなさそうな、苦々しい、なんとも言えない顔をしていた。

 時折、さあっと顔色を青白くしては、たらりと汗を垂らして、唇をぐっと噛み締めたりする仕草が目立った。


 結婚するとなった折に、せめてご両親に挨拶させてほしいと強請ったが、彼女は絶対に、首を縦には振らなかった。


 私も意地になって、何故そこまで拒否するのか理由を尋ねたのだが、その時の彼女の一言で、ご両親への挨拶を諦めたのだった。


 ――逃げてきたのよ。


 やっとなの。


 ――ああ、確かに。彼女はそう言ったのだ。

 あんなに印象的だったのに、何故忘れていたのだろう。


 きっと、ひどい生活を彼女は田舎で送っていたのだろう。最近で言う、毒親に当たった子どもだったのかもしれない。私はその時、そう思って彼女を憐れみ、必ず私が幸せにすると固く心に誓ったのだ。


 だから私達は、ひっそりと結婚して、こぢんまりと生活することを選んだ。

 それが彼女の為だとも、その時の私は思ったのだろう。


 そんな彼女も、田舎には唯一、友人がいるらしかった。

 彼女はその友人のことを私に話す時はいつもにこやかで、それは嬉しそうに、まるで歌うかのような口ぶりで、友人のことを自慢してきたものだ。


 ぐにゃり、と意識がまざる。


 


 何故、今まですっかりと忘れられていたのだろう。


 いや、むしろなぜんだろう。


 ――ああ、きっかけはやはりあのラジオなのだ。


 「人の中の神社」。

 あの話は、きっと彼女の友人のことだ。いや、そうに違いない。私は何故か確証もないというのに、そう確信した。


 だって彼女は言っていた。


 「あの子の中には神社があるのよ」


 だから、特別なの。


 と。


 当時の私は意味がちっとも分からなかったが、私は、年甲斐もなく、文字通り、おいおいと泣いた。泣きじゃくった。


 離婚に至る前日、彼女はとても優しい顔をして、それから悲しそうな顔をしていた。

 携帯と、真っ白な、差出人のない封筒を手にしていて、離婚届の全ての項目を埋めていた彼女は、リビングの椅子に座って、向かい合う私に向かって、最小限しか語らなかった。


 「依り代になります。お世話になりました。ごめんなさい。逃げられませんでした」


 私に向かって頭を下げた彼女は、泣きながら、言葉を続けた。


 「どく好かん。あわいどん、呪うてやる」


 恐らく彼女の生まれ育った地方の方言なのだろう。


 方言は、私には分からない。ただ、呪い、という言葉の持つ生々しさと、世界中の嫌悪をかき集めたような、どうしようもない呪詛のような言葉が、ただ恐ろしくて、悲しかった。


 依り代というのもなんのことだかさっぱりだ。


 ただ、そう。

 あの時、あの言葉を受けた時。

 確かに彼女はこれからと、直感でそう理解したのだ。


 行かせたくなど無かったのに。

 必死で私は止めたはずだ。いや、止めようとしたはずだ。

 けれど、翌朝、私の身体はソファの上に転がっていて、家の中も、まるで最初から私しか住んでいないようなありさまだった。


 何故私はあの時彼女を引き止められなかったのか。

 何故私は今までこの記憶をなくしていたのか。

 いや、それよりも何故

 ――私は未だに彼女の名前を思い出せないのか。



 遠くに、ケーン、と、赤子が泣くような声が響いている。

 


 


 

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S県のおかしな出来事を集めてみた 背骨ミノル @ydk

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