第44話

 結局、黒天狼の名前は、『ちびちゃん』になった。

 それを聞いたレイスは、なんとも言えない顔をした。それから、ため息をつき、首をふり、最後には結局、まあ、俺の狼じゃないからな、とつぶやいた。

 もちろんわたしだって、改名できるものならしたかった。でもレイスとシファに、『出来るわけないだろう』、『出来ません』、と一蹴されてしまった。狼にとって、呼び名は、あるじを変えないかぎり、変えることの出来ないものなのだそうだ。ホローの黒天狼は、ちびちゃん、ということになった。たとえ、馬より大きく育ったとしても。

 そんなふうに、名前については案外、寛容なところを見せたレイスは、ところが、儀式の餌が、ケーキだったことに激怒した。誤った食生活が狼に与える悪影響について、わたしはたっぷり半時もお説教をくらった。レイスときたら、天狼が甘いものなど食べたら、気質がゆがむとまで言うのだ。わたしにはそんなの、気にしすぎとしか思えないけれど。

 そして、もう一つ。ちびちゃんについて、わたしが驚いたことがある。

 ちびちゃんはなんと、雌だったのだ。これには、驚いた。

 けれど、驚くだけではすまない。これには大きな意味がある。黒天狼が雌ならば、シファと掛けあわせて、もう一度、天狼の群れを、ホローによみがえらせることが出来るのだ。

 ところが、わたしがそう言うと、レイスは微妙な表情をした。

「……まあ、理屈で言ったら、そうなんだけどな」

 二頭を見ているうちに、わたしにも、その言葉の意味がわかってきた。

 理性的で賢いシファに対して、ちびちゃんは考えなしの怠け者だ。一緒にいると、お互いに、たいそういらいらするらしい。とても、相性が良いとは言えない。

「無理強いは出来ないからな、こういうのは」

 そう言うレイスが煮え切らないのは、彼自身、迷っているせいもあるだろう。ホローを自分の代で終わりにしたいという気持ちと、天狼の血を絶やすのを惜しむ気持ちの間で、揺れているのだ。

 わたしは、どちらでもかまわないと思う。いずれ、狼たち自身が選ぶだろう。

 


 湖畔の館で五日ほど過ごし、わたしたちはもとの獣舎小屋に戻ることにした。

 もともと、わたしが館に運びこまれたのは、そのまま寝ついてしまったときのことを考えてのことだ。晩秋に病気の人間を介抱するには、小屋の納屋は寒すぎる。

 さいわい、体調はすこぶる良かった。短くなった髪以外には、怪我もない。まあ、たしかに、散髪のあと、はじめて鏡を見たときには悲しかったけれど、いったん慣れてしまうと、初めての短髪は軽快そのものだった。蒸れないし、洗いやすいし、乾きやすい。暑い夏のあいだ、この髪だったなら、じゃぶじゃぶと、毎日だって頭が洗えたのに。

 谷の小屋へは、半日ほどの道のりだった。荷物を満載したアレクのあとを歩きながら、わたしはご機嫌だった。一人ではとうてい使い切れないほどの、リネンや着替えを手に入れたのだ。これで、野蛮人の暮らしとおさらばできる。

 レイスはアレクの手綱をひき、シファはその横を歩いていた。道の両側には枯れた草原が波のようにうねり、そのまま、モミの濃緑とカバの黄色が混じった森につながっていた。

 その向こうには、白い峰。山からの冷たい風が、短くなった髪を吹きぬけていく。けれど、日の光はまだ、暖かい。

 わたしの横には黒狼が、ふかふかとした毛並みに陽をふくんで歩いていた。

 ふと思いついて、背中の翼をつまみ上げる。産毛におおわれた翼(になるはずの部分)は、ひっぱり出すとそれなりに長いのだが、たたんでいると、黒い毛に埋もれて、触れてみなければ、まず気がつかない。

 ちびちゃんは嫌そうに身をよじり、目つきも悪くこちらをにらんだ。――やれやれ。これがシファなら、たとえ尻尾を切り落とされたって、大人しくあるじに従うのだろうに。

「ねえ、この子、いつ飛べるようになるの?」

 前をいくレイスの背中に、わたしは聞いた。

「狼の最初の換羽は、普通、十二歳の春」

 こちらを振り向かないまま、レイスが答えた。

「逆に言えば、それで焦ってたんだ。来年か再来年の春には、こいつはどこでも好きなところに飛んでいくようになっちまう。あるじもなしでそれでは、とても面倒見切れないからな。もっとも、人を乗せて飛ぶようになるのは、だいたい十四歳以降、体格が出来てきてからだが」

 何気なくその言葉を聞き、そして、わたしははっとした。

「それって、わたしが、この子と空を飛ぶっていうこと?」

 それは、考えもしないことだった。黒狼のあるじが自分だと知ってからでさえ、思いいたらなかった。父さま、ロイ兄、ヤン兄、レイス――いつだって、獣と空を飛ぶのは、わたしではなく、他の誰かだったのだ。

「他に誰がいるんだ?」

 レイスのけげんそうな声を、わたしは無視した。

「すごい! それなら、どこへだって行けるのね! なんなら、諸国を回ることだってできるんだわ――国境だって、越えられるんだもの」

「ああ、いいですね、そういうのも」

 とシファ。

「でしょう? わたし、地図で見て、行ってみたかったところがいっぱいあるのよ。クレイディルの故郷の、砂漠だって見てみたいし、ほかにも見たい幻獣が、たくさんいるわ。そうよ。旅のあいだは、あなた達は山で、鹿でもなんでも獲ればいいんだわ、出来るんでしょう?」

「もちろん」

「で? 俺達は? 鹿と一緒に木の枝でもかじるのか?」

 心底呆れたように、レイスが口をはさんだ。

「馬鹿も休み休み言ってくれ。狼で国境なんぞ越えたら、連隊を差し向けられるぞ。――お前の頭、脳みそじゃなくて、綿でも入ってるんじゃないのか?」

 馬鹿にした物言いに、かちんと来る。

「何よ、そんなの、大人しくしてりゃばれやしないわよ。あなたこそ脳みそがあるなら、少しは楽しいことも考えたらどうなの? そんな悲壮な顔してたって、いいことなんか起こりっこないわよ」

 シファが、わたしの言葉に同意するように苦笑する。けれど、レイスはただ、馬鹿にしたように、ふんと鼻を鳴らしただけだった。その背中をにらみつけ、それから、わたしは話題を変えた。

「で、シファ、空を飛ぶ頃には、この子もあなたみたいに喋るようになるかしら?」

 首を傾げ、シファは少し考えた。

「それは、狼によりますね。狼がものを言う場合、そのくらいの年齢までに喋り出すのが普通ですが、中には、一生喋らないものもいますから。喋ったとしても、片言だけの場合もありますし」

「喋らない? それは、主義ってこと? 竜みたいに」

「まあ、それもありますが、もう一つには、やる気ですね。生来のものではない振舞いを身につけるには、それなりの努力が必要です。たいていの狼は、あるじと意思を通じ合わせたいがために、その努力をするのですが――」

 そこまで言って、シファはちらりと黒狼を見た。わたしはあとを続けた。

「――中には、その熱意がない狼もいるってことね」

「まあ、そうです」

 すると、熱意がない、と評された当の本人が、歩きながら大あくびをした。ピンク色の口が開き、舌がめくれ上がり、白い牙がむき出しになる。大きく開いた口が、パクンと音を立てて閉じるまでを見守り、わたしは言った。

「でも、不思議だわ。今じゃこの子、わたしが呼んだって来やしないし、そもそも、言うことを聞く気があるのかどうかも怪しいのよ。何を考えているかなんて、それこそさっぱりわからない。――なのに、あの地下室ではわたし、たしかにこの子と繋がった、という気がしたの」

 わたしは続けた。

「ほんの一瞬だったけれど、狼の目に映る世界が見えた気がしたわ。広くて、きれいで、澄んでいて、世界のすべてを見通すようだった。自分が何をするために生まれてきたのか、はっきりとわかった気がしたわ。素晴らしい気分だった――なのに、目が覚めてみれば、元どおり」

 小さく息をつき、わたしは続けた。

「今となれば、夢でもみてたみたいだわ」

 誰も、何も言わなかった。アレクのひづめの音と、風の音だけがひびく。

 やがて、レイスが口を開いた。

「……そんなもんなんじゃないのか。望みがかなう瞬間なんて」

 わたしは思わず聞き返した。

「望み?」

「そう」

 うなずいて、レイスはわたしを振り返った。

「それを望んで、あんたはここに来たんだろ」

 その言葉に、わたしは息をのんだ。

 それは、自分でも気づかなかったことだった。どうして、ホローに来たのか。どうして、獣をあきらめられなかったのか。

 ……そうだ。わたしは、狼を、見たかった。狼が、欲しかった。彼らの力、彼らの世界が。どうしようもなくあこがれて、どうしても手に入れたかった。

 その願いが、あのとき一瞬、叶ったのだ。

 そうだ。今なら、わかる。あの男が望んだもの――それも、わたしと同じだったのだ。

 わたしと同じように、あの男も獣を欲した。獣の力、獣の命を。人の手の届かぬ、良きもののすべてを。でも、望みかたが間違っていたのだ。

 レイスの背中を見つめ、わたしはたずねた。

「あなたも、あるの? 感じた事があるの? あの、狼と一つになるような――」

 レイスはただ、うなずいただけだった。けれど、それで十分だった。あの晩だ。燃えさかる炎の中、断末魔の狼に、止めをさして回ったあの夜。人の愚かさと、痛みと苦しみのなかで、レイスとシファは、知ったのだ。垣間見たのだ。あの、大きく澄んだ世界を。人と獣に分かたれる以前の、完全なおのれ自身を。それは、幻のように与えられるつながり。夢のようにすぎさって、跡すら残らない。それでいいのだ。

 なぜなら、あの一瞬、見たものを忘れないなら。狼が見るもの、狼が感じること、この世界の本当の広さを、美しさを、忘れないなら。

 わたしはこの先、道を誤ることはないだろうから。

「お前、わかってるのか。……理解、してるのか」

 つぶやくように、レイスが言った。

「黒天狼のあるじになるってことは、この先何かあっても、俺とシファには、お前を止めてやることが出来ないってことなんだぞ。そいつの力に、シファは及ばない。たとえお前たちが道を踏みはずしても、引きもどしてやることは出来ないんだ」

 わたしは黙って、その言葉を聞いた。

 ゆっくりと、黒狼に手を伸ばす。

 背中をなでてやる。

 暖かかった。

「……だいじょうぶよ」

 かたくなめらかな毛に触れながら、わたしは言った。

「きっと、なんとかなるわよ。今まで運が悪かったぶん、ホローは、このあとは幸運続きかもしれないじゃないの」

 顔を上げ、レイスを見る。暗い色の瞳を見つめて、たずねる。

「それに――そうは言ってもあなただって、助けてくれるでしょ、全力で」

 レイスは何も言わなかった。だまって、こちらを見返しただけだった。

 けれど、他の返事は必要なかった。わたしは微笑んだ。

「なんとかなるわよ」

 そのとき、ふと、シファが走り出した。翼を広げ、数歩のうちに舞いあがる。一度、二度、大きく羽ばたく。翼が風をつかみ、白い四肢がきらめいて、見る見るうちに空へと登っていく。

 論ずるよりも、まず飛べ――。

 黒狼がそれを見あげ、すぐに飽きて、そっぽを向く。レイスが、小さく息をつく。

 天駆ける白い姿をあおぎ、それから、わたしは前を見てほほえんだ。


 ……そう、大丈夫。万事良好。

 この先何が起こるとしても。

 今のところは、万事良好。


 耳元で、風がぴゅうぴゅうと鳴っている。

 そしてわたし達は、あの小屋を――あの小さな家を目指し、下っていった。



 終

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