第43話

 色のぬけた髪は、切ってしまわなければならなかった。

 もちろん自分では出来ないので、レイスに散髪してもらった。意外と手つきもたしかだったし、出来あがりも悪くはなかったので、はさみの持ち方が羊の毛刈りと一緒だったことには、目をつぶっておこうと思う。

 その日の晩に運ばれてきた食事は、これまでホローでは一度もお目にかからなかったような品ぞろえだった。市で買ってきたのであろう白パンに、キャベツの酢漬け。新鮮な肉のソテーに、ミルクで煮た豆。

 けれど、さらに豪勢だったのは、その下の食器だった。金と青で彩られた白磁に、銀のナイフとフォーク。銀器の色こそ変わっていたけれど、日常使いの物でこれなら、ありし日のホローの暮らしぶりも、だいたい、想像できると言うものだ。

「どうしてここに住まなかったの?」

 むしゃむしゃと豆を食べながら、わたしは聞いた。

「ここなら少なくとも、まともなベッドで眠れるじゃない」

「一人で住むには大きすぎる」

 そう言うレイスは、二人分の食事を、いつもの小屋で料理して運んでいた。館の厨房は、少人数の食事を作るには大きすぎるのだそうだ。薪もないし。

「でも、服とか毛布とか、あったら有難いものはたくさんあるわ。これから寒くなるんだもの。今だって、納屋は結構寒いのよ」

「好きにすればいい。ただし、アレクが運べる程度にしてくれよ」

 そこで、さっそく次の日、わたしは屋敷の探検に出かけた。

 居室の戸をあけ、外に出る。鎧戸の閉めきられた廊下は暗く、手に持ったランプの明かりだけが頼りだ。

 十年前からそこにあるような、かび臭い空気をすいながら、上へ上へと階段を登り、屋根裏の使用人部屋にたどりつく。ランプをかかげ、棚をさぐると、あるある――使い古されたリネンに、仕事着、肌着。どれもこれも、きちんと洗われ、アイロンがかけられている。この館の使用人たちは、きちんといとまごいし、身のまわりを始末して、去っていったのだ――狼に襲われたり、焼け死んだのではなく。

 使えそうなものをよりわけて抱え、来た道をもどって部屋の戸をあけると、明るさに目がくらんだ。扉を背中で閉め、新鮮な空気に一息つく。それから、あらためて部屋の中をながめた。

 こうしてみると、あきらかに特別なつくりの私室だ。この館の、女主人の部屋にちがいない。美観からすれば大きすぎるバルコニーは、空から狼で乗りつけるためのものだろう。

 戦利品を鏡台に置き、クローゼットを開ける。秘密をのぞくような罪悪感はあるけれど、領主の許可も取ったことだし、まあ、いいだろう。

 虫除けのハーブの香りが残る戸棚には、豪華と言うよりは品のよい、女物の衣装がそろっていた。思ったよりも、数は少ない――この部屋のあるじは、華美なたちではなかったらしい。ほっそりと落ちついたデザインの服は、多くが、上品な青色か藍色。わたしは服の持ち主に好感を持った。

 そして。

 ショールやヴェールをかき分けた、さらにその下に置かれていたものに、わたしは思わず、息を飲んだ。白の絹地の下に横たえられていたのは、手のひらほどもある牙。天狼のものだ。この部屋の主は、獣の形見を、大切に保管する人だったのだ。

「――シファの父にあたる狼のものだ。叔母が一番、親しんでいた」

 背後から、声がした。いつの間にか、レイスが入ってきていた。

 わたしは立ち上がり、クローゼットを閉めた。

「毛皮か何か、暖かいものがあったらもらおうと思ったの。亡くなった方の持ち物を、のぞき見するのは気が引けたんだけど」

 レイスはうなずいた。

「べつに構わない。叔母も駄目とは言わないはずだ」

「親しい方だったの?」

 答えを、レイスはわずかにためらった。

「親しい、と言うか――俺はほとんど、ここ――叔母のもとで、育ったようなものなんだ。父親からは、見放されていた。まあ、それにはむしろ、感謝しているけどな」

 思いがけない言葉だった。わたしは小さく息を飲み、それから、あらためて辺りを見回した。

「じゃあ……この屋敷が、あなたの家みたいなものだったのね。あっちの、焼けた城じゃなく」

 レイスはうなずき、部屋を横切って、暗い色のソファに腰を下ろした。昨日、黒狼が寝そべっていたあたりに。それから、しずかに口を開く。

「前にも言ったと思うが、俺の母は、異国の人間だった。異国から嫁ぎ、俺が生まれてすぐ、故国に戻った。何人かいた兄の母親も、皆同じだ――始めから、血筋を残したら離縁する約束だった」

 両手を組み合わせて、レイスは続けた。

「嫁ぐ方にしても、その方が良かった。言葉も通じない、親族もいない土地だ。そのころのホローは、どんな人間にとっても、暮らしやすい場所じゃなかったし」

 ひどい話だ。わたしは首をふった。全く、どうしようもない。

「そして、これは聞いた話だが……母が去ったあと、ゆりかごで眠る俺を前にして、当時、この部屋に住んでいた叔母が、父に、こう言ったそうだ。――この子は駄目だ、あなた達のようにはなれない、と」

 それは、冷淡な言葉に聞こえた。わたしは眉をひそめた。

 レイスは淡々と続けた。

「叔母は騎獣こそ持たなかったが、当時のホローで一番優れた、獣使いの才を持っていた。父も、それは認めていたんだ。叔母のその言葉で、父は俺を手放し、叔母の元で育てさせることに同意した」

 きれいな部屋の、高い天井を、レイスは見上げるようにした。

「……今となっては、叔母が何を思って、そんなことを言ったのかもわからない。あるいは、最後に生まれた赤ん坊くらいは、一族に迫る破滅から、救いたいと考えたのかもしれない。一族の中で、叔母だけは、自分たちがしていることを、正確に理解していたんだ――正確すぎて、命を縮めるほどに」

「亡くなったの? いつ?」

「館が焼ける少し前。叔母は獣使いの教育を受けたことはなかったが、狼達の苦しみを、誰よりも深く感じとっていた。そして狼も、それを知っていた……術に支配され、言葉も正気も奪われた狼たちが、叔母に対しては首を垂れ、頭を差し出すんだ。撫でてくれ、と言うように」

 レイスの声が、かすかに揺れた。

「――それだけに、辛かったんだろう。だんだん食事を取らなくなって、最後は、消え入るように死んだ。狼に引きずられるように」

 レイスはそこで、いったん、言葉をとぎらせた。大きく息をつく。

「獣使いに向いている人間なんていないと言ったのは、そういう意味だ。濃い血や才能を持っていたって、それが何かの役に立つとは限らない」

 わたしはレイスを見つめ、それから、目をそらして部屋を見た。

 レイスにとって、母ともいえる人の死の様子を、わたしは今、聞いているのだ。この部屋は、その人の部屋だったのだ。

 と、わたしの顔を見て、レイスが笑った。

「心配しなくても、あんたはどうやったって、そこまでになる見込みはない」

 わたしは赤くなった。

「誰も、そんなこと言ってないでしょ」

 でも、わかった。

 レイスが、女なんて、という態度を一度も取らなかったのは、昔、ここにその人がいたためだったのだ。


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