第42話

 あらためて、鏡をのぞきこむ。

「でも――驚いたわね。あの時、わたし、本当に死にかかってたのね。そんな気はしたけれど」

「バシリスクの殺しは、並みの獣では止められない。黒天狼だって、よくて互角だろう。運が良かったんだ。奴が、肝心な点で勘違いをしていたから」

「勘違い?」

「黒天狼のあるじを、俺だと思っていた。あんたじゃなく」

 思わず鏡を置き、わたしはレイスを見た。新手の嫌味かと思ったけれど、レイスは真剣だった。黒狼に手を伸ばし、ふさふさとした首をなでる。鼻面を持ちあげ、顔をのぞきこむ。

「あの時こいつ、どうして気を失ってた? あの男、何かしなかったか? 例えば――」

「――その子の額に、あやしい、真っ赤な紋様を押しつけたりとか? したわよ。それで、その子、ばったり倒れたんだもの」

「それから?」

「それから……そうね、そのあと、あいつ、あなたを殺すって言い出したのよ。なんか、ずいぶん怒ってたわ」

「大体、予想通りだな」

 レイスはつぶやき、それから、顔を上げてわたしを見た。しみじみと言う。

「……本当に、殺されなくて良かったな」

 わたしは思わず、顔をしかめた。

「どういうこと?」

 わたしの問いには答えず、レイスは黙って黒狼の耳の間をかいた。そのまま、首の付け根あたりまでかいてやる。

 やがて、静かに、レイスは言った。

「あんた、こいつに何か食べさせなかったか? あと、名前で呼んだりとか」

 その口調の中の何かが、わたしをどきりとさせた。思わず身がまえる。

「そうね……食べさせたことは、あったかも。名前の方は、心当たりがないけど」

 用心深く答えると、予想外のところから、返事がかえってきた。

「呼んだんですよ。心当たりがなくても」

 そう言って、シファが立ち上がる。一歩、二歩、こちらに近づく。

「天狼は生涯、あるじの与えた名前以外を認めません。また、生涯、自分が殺した獲物しか口にしません。ただし、己のあるじが、手ずから与えたものだけは別です。――逆に言えば」

 白い狼は、その形の良い頭をぴたりとわたしに向けた。

「呼び名を与え、手から餌を食べさせることが出来れば、その狼は、あなたを主と認めたことになるのです。名づけの儀式、と呼ばれるものです。本来は、あるじとなる人間が生きた羊を屠り、狼に与えるのですが――手順がどうあれ、名づけを行ったあるじと、狼とのきずなが、たやすく切れないことに変わりはありません」

 狼のあとを、レイスが続けた。

「お前がバシリスクを殺したあの時、こいつはお前に力を貸した。それも、内側から。そんなことが出来るのは――互いの魂をそこなうことなく、それが出来るのは、獣と、その正当なあるじの間だけだ。――つまり」

 軽く肩をすくめ、レイスは結論した。

「お前は間違いなく、こいつのあるじなんだ」

 わたしは、呆然としていた。あまりにも意外だった。

 わたしがこの黒い狼に、食べさせたもの――とすれば、あの誕生日、あの河原でのこと以外にありえない。

 でも、誰が思うだろう。

 母さまが贈ってくれたケーキが、天狼との契約を取り結んでしまうなんて。

 レイスは続けた。

「こいつが額に押しつけられたという紋様は、獣をあやつるための、あの男の術だ。狼のために編みだされたものではないが、古くからある、強力なやり方だ――あのバシリスクも、同じような紋から現われていただろう? おそらくあの男、まだ、体のあちこちに、ああした紋を隠し持っていたはずだ」 

 わたしは言葉もなくうなずいた。

「でも、その術が、こいつにはかからなかった。あの男はそれで、こいつにすでに、あるじがいることを悟ったんだ。あるじを持つ狼を手に入れるには、まず、あるじとのきずなを断たなければならないからな」

 思わず、黒狼を見る。

 あの時、わたしとのきずながあったから、この子は無事だったのだろうか。

 いや、その前に。

 あの時、わたしを助けるために、この子は来てくれたのではないだろうか。……あるじである、わたしを助けるために。

「……全然、気づかなかったわ」

「俺もだ」

 軽い口調で、レイスは言った。

「それに、あの男も、最後まで気づかなかった。――最後まで、黒天狼のあるじは俺だと信じていた」

「そう言えば、言っていたわね。お前が潔白なら、って……」

 その言葉の意味が、今ならわかる。

 黒天狼のあるじが、レイスなのだとすれば。レイスは禁じられたホローの呪いの術に、手を染めたことになるのだ。狼と人のきずなは一対一。二頭めを手にするには、禁を犯すよりほかないのだから。

 レイスは息をついた。

「あの男は前に、俺に言ったことがある――なぜ、黒天狼を自分のものにしないのかと。ホローの知恵を持ってすれば、簡単なことだろうにと。死んだってそんな真似はしないと、俺は言ったんだ。すると今度は、ならば、黒天狼を自分に譲ってくれと言ってきた。あるじを持つ当てのない獣など、厄介の種になるだけだろうからと。だから言ってやった。白だろうと黒だろうと、お前に狼は譲らない、自分のためだけに獣を欲しがる獣使いに、ホローの狼は譲らないと――」

「そう言ったら、帰ったの? あの男」

「帰った。その時はな。でも、何か策をたずさえて戻ってくるつもりだったろうし――実際、そうなった」

 策。それはつまり、わたしを人質にすることだ。

 あの男は、ホローに隙が生じるのを待っていた。

「もちろん、こちらも、ただ、手をこまねいていたわけじゃない。ここは古くからの狼の縄張りだし、幻獣同士の戦いでは、そういうことが大きくものを言うんだ。相手が何だろうと、守りを固めることは出来る――でも、それだけじゃ駄目なこともわかっていた。結局、必要なのは獣使いだったんだ。それも、こいつをまかせられるような、しっかりとした人間が――」

 あ、とわたしは声を上げた。もしかして、わたしをここに置いた理由って――

「……なのに、どれだけ待っても、来たのはこんな奴だけだったしな」

 わたしを見て、レイスは肩をすくめ、ため息をついた。

「悪かったわね」

 わたしはふん、とそっぽを向いた。

 でも、やっとわかった。レイスがなぜ、あれほど嫌がりながらも、わたしを追い返さなかったのか。

 どんなにわたしのことが嫌いでも、レイスは試さざるをえなかったのだ。わたしが、この黒天狼の、あるじとなりうる人間なのかどうか。ホローのためでも、自分のためでもなく、この黒狼のために、そうしなければならなかったのだ。

 そして、それは――

 獣をめぐる忌まわしい術に、首まで浸かりこんだあの男にとっては、考えられないことだった。二度とは生まれない黒天狼を、ただで、誰かにくれてやるなんて。それも、よりによってこのわたし、この甘ったれの、ものを知らない、どうしようもないディースの小娘に、みすみす渡してしまうだなんて。

 だから、わたしは死なずにすんだのだ。

 黒天狼の持ち主が、わたしだと知られていたら。あの男は、その瞬間に、わたしを殺していた。ためらいもなく。

「……結局、わたしが取るに足りないようなやつだったから、助かったようなものなのね」

 小さな声で、わたしは言った。

「……別に、いいんじゃないか? それで」

 しばらく黙ったあとで、レイスは答えた。

 めずらしく、嫌味のない口調だった。

 

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