第41話
目が覚めて、最初に目に入ったのは、きれいな天井だった。見なれない、上品な花模様の壁紙が、一面にはられている。
一瞬、家に帰って来たのかと思った。母さまが、また、部屋の模様がえをしたのかと。
けれど、ちがった。
「――あれ、この犬」
すぐ目の前のソファに、大きな黒い犬がまるくなっていた。
犬が眠るソファのうしろには、見たことのない、美しい部屋が広がっている。高級なじゅうたんの向こうに、濃い赤のふさ飾りがついたぶどう酒色のカーテンと、優美な窓枠でかたどられた、大きな掃出し窓。窓の外は、そのまま石だたみのバルコニーにつづき、その向こうには、小さな湖と森、見なれた山並みがつらなっている――ああ、ここはまだ、ホローだ。
バルコニーの上には、白い狼が、日の光をあびてゆったりと伏せていた。そして、その手前の窓ぎわに、あるじであるレイスが立ち、だまってわたしを見おろしていた。
頭を枕にのせたまま、ゆっくりと部屋を見まわしたあとで、わたしはたずねた。
「……こんな部屋があるのに、どうしてあんなぼろ小屋に住んでるのよ?」
とたんにレイスは顔をしかめ、大きく息をはきだした。
「どうやら、無事らしいな」
「何が?」
「どうやら、正気のようだ、ということですよ」
ひらいた窓越しに、バルコニーから狼が口をはさんだ。
「わたしは、大丈夫だろうと言ったんですがね。なにしろ、そこの、それが、ぴんぴんしていますから。けれど、レイスはだいぶ心配していましたよ」
――そこの、それ?
わたしは体を起こした。
どうやら、シファが『それ』と言ったのは、ソファに寝そべる黒い犬のことのようだ。レイスとシファは、この犬を知っているらしい。
枕もとのテーブルにおかれたぶどう酒を、レイスがグラスについでくれる。珍しい待遇に驚きつつ、礼を言って口をつけると、年をへた酒独特の、深くてまろやかな味がした。
――なにこれ? 都の貴族がたしなむような逸品じゃない。
目をまるくし、あらためて部屋を見まわす。普段の窮乏生活は、どこへ行ってしまったんだろう。
「気分は?」
仏頂面で、レイスが聞いた。
「別に、悪くはないわ」
「それは良かったな」
どさりと、レイスが犬の隣に座る。
「お前、死ぬか、廃人になっていてもおかしくなかったんだぞ。バシリスクに触られたんだからな」
バシリスク!
その言葉に、眠る前の出来事を一気に思いだして、わたしはグラスを下ろした。そうだ、バシリスクだ。バシリスクが、あのとき――
「――あのとき、何が起こったの?」
思わず叫ぶと、レイスはなんともいえない顔で、わたしを見た。長いあいだ、そうしていた。それから、ため息をつき、こう言った。
「犬じゃない」
「は?」
「だから、犬じゃない」
同じ言葉をくりかえすと、レイスは、自分のとなりに寝そべる黒犬に目をむけた。その視線を目でたどりながら、それでも、わたしはさっぱりわからなかった。レイスが、なにを言おうとしているのか。
すると、窓の外で、シファが、ぱさりと尾をふった。体をおこし、ゆっくりとつけくわえる。
「……あなたは知らないでしょうね。いわゆる、黒天狼、と言うやつです」
むかし、狼は黒かった。
人を知らず、人の言葉も知らず、極北の空を駆けていたころ。
黒灰色の体、黒灰色の翼で天駆ける、大きな狼。
それが、人に飼いならされ、そうして、たまたま生まれた白い子狼を、人々が、めずらしがって愛でているうちに――
「いつしか、飼われている天狼は、すべて白くなってしまったのですよ。……その方が美しい、という理由で」
けれど、とシファは続けた。
「やがて、大きな戦乱が始まったとき、それで失われたものがあったことに、人々は気づいたのです。見た目にも映えると愛でられた白天狼は、その力において、北方の原種と同じ毛色を持つ黒天狼に、どうしてもかなわなかった。獣使いたちはやっきになって、黒い狼を探しもとめました。けれど、そのころにはもう、黒天狼は、たまの先祖がえりとしてしか生まれない、ごくまれな獣になっていた。それすら近頃では、見たという噂もなかったのです」
だらしなくふせた黒犬を、わたしは見おろした。
「……それが、この子なの?」
レイスがうなずいた。わたしはさけんだ。
「だって、羽根がないじゃない!」
レイスはだまって手を伸ばし、黒犬のふかふかした背中から、なにかをつまみあげた。
なにか、手のひら三つ分ほどの大きさの、黒い、三角形をしたもの。なんというか、ひよこの羽に、よく似ている――
「……お前、目のかわりにそばかすでもついてるんじゃないのか」
わたしはごくりと唾を飲んだ。そんなもの、気づけという方が無理だ――とは、とても口に出せない。これでも、幻獣使いのはしくれなのだ。少なくとも、そう主張してきたのだ。レイスはつまんだ羽を放した。
「こいつの父狼は、異国の獣舎から取り寄せた血筋だ。ホローの古い血統と掛け合わせて、こいつが生まれた」
レイスの言葉に、寝そべった黒犬――いや、黒狼が、ちらりと目を上げる。
「毛色を見て、親父や叔父達は小躍りしたらしい。――だが、親父たちには、こいつの力を確かめる時間はなかったんだ。ホローが焼け落ちた時、こいつはまだ、目が開いたばかりの赤ん坊だった」
レイスはため息をついた。
「館が焼けたあの夜、たった一頭、獣舎で鳴いてるこいつを見たとき、正直、面倒なやつが残ったなと思った。黒天狼の力なんて、俺は本気にしていなかったし。だが、こいつは確かに、普通の狼じゃない……狼なら当然持つはずの、忠誠心ってものがない。目を離しゃいなくなるし、いるはずのないところにはいるし、するはずのない真似はするし――」
のんびりと牧羊犬のあとを追っていた姿を思い出し、わたしは何も言えなかった。
「――でも、白天狼にバシリスクは倒せない」
どこかあきらめたように、レイスはしめくくった。
わたしはうつむいた。
レイスの言うとおりだ。あの時、シファはバシリスクに対して、何一つできなかった。男を殺したのはわたし。そして、そのための力を貸してくれたのは、この黒狼だったのだ。シファが男を焼きはらった時、男はすでに、事切れていた。
にぎり合わせた両手を、見下ろす。
あんな状況とは言え、人を殺してしまったことになる。
でも、当然あるべき罪の意識は、まだ、あまり感じられなかった。こんな考え方、いけないとは思うけれど――どのみち、あの男の中に、人である部分はもう、たいして残っていなかったのだ。
「……わたし、てっきりこの子、よほどの馬鹿犬なんだって思ったわ。あんな奴がいるっていうのに、きゃんきゃん言いながら走ってくるんだもの。あの男もそう。てっきりおかしくなったんだと思ったわ。ただの犬を、血相変えてつかまえたりするんだもの」
「あんたがどう思おうと、はじめから、奴が欲しがっていたのは、この黒天狼だ。ホローの術を聞き出そうとしたのも、結局は、こいつを手に入れるためだ」
「ついでにわたしのことも、蒐集しておくつもりではいたようですがね」
皮肉な笑みを浮かべて、シファがつけ足す。
わたしは順に、二人を見た。
「あなたたち、あの人のこと知ってたのね。だから毎日、見回りだの、石垣の修理だのばかりしてたんでしょ」
レイスは軽く肩をすくめた。
「一族が死んですぐ、あの男は一度、ここに来た。何もせずに帰ったが、また来るだろうとは思っていた。本人が言うには、父の代にしばらく、ここで働いていたことがあるそうだ。それ以上のことは、俺は知らない。向こうはこっちのこと、知ってたけどな」
「――ごめんね」
わたしは頭を下げた。
「わたしがホローに居すわったから、あの人、また、来たんでしょ。……本当に、悪かったと思ってるわ」
すると、レイスがわたしを見た。その目が一瞬、悔いるような、あるいは恐れるような色を帯びた。
「そのことについては」
一度言葉を切り、続ける。
「こっちとしても、謝らなきゃならないことはある。あんたを死なせかけた――というより、死なせたも同然なんだ。幸運が重ならなければ、間違いなく死んでいた」
「わたしのは自業自得よ」
「確かにそうだが、それだけじゃない。それに――完全に無事ですんだわけでもない」
レイスは立ち上がり、部屋のすみの鏡台から何かを取って、ぽいと投げてよこした。受け取ってみると、それは二つに折りたたまれた、小さな手鏡だった。
何気なく開いてのぞきこみ、わたしは悲鳴を上げた。
髪が――肩をおおう、金茶色のわたしの髪が、蛇の這い下りたあとにそって、太い螺旋を描くように、白くなっていた。
「……すまない」
レイスが謝った。
鏡を見つめたまま、わたしは黙った。まだらな、老婆のような髪。
それから、顔を上げて、ゆっくりと言った。
「どうして謝るの。あなたに謝られる筋合いじゃないわ。わたしの髪だし、わたしがしたことによるものよ。……それに、髪なんてまた伸びるわ」
母さま譲りの、きれいな髪――。
「……それに、そうよ。かたきはとってやったじゃない。向こうは髪じゃすまなかったんだから、結果としては、上々よ」
レイスは目を見開いた。ゆっくりと、笑みを浮かべる。
「それは、そうだな」
「そうよ」
わたしはうなずき、笑い返した。……そうとも、髪なんて大した問題じゃない。
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