第40話

 石段をくだって、石だたみにかこまれた扉にたどりつく。あの、赤さびた鉄の扉に。狼たちの、絶望に染まった扉に。

 開けろ。そう、男が命じる。

 すると、シファがすっと進みでて、赤さびた引き手をくわえた。四本の足に力をこめ、扉を横に引き開ける。

 その奥に現れたのは、暗い、地下への入り口だ。乾いた石段が、闇の奥へつづいている。

「入れ」

 男が命じる。

 シファが、レイスが、それにしたがう。

 男にうながされ、わたしもおりる。闇よりも暗い、死せる狼の世界へ。

 レイスは六歳のとき、文字どおり命をかけて、シファをここから地上につれもどした。

 その同じ扉を、わたしが、ふたたび開けてしまったのだ。

 たどりついた石の床の上、入り口から差しこむ、四角い光の中に立つ。目が暗闇に慣れるにつれ、まわりの様子が見えてきた。

 とても広い、ホールのような地下室だ。天狼が、立ったまま、十頭は入れるだろう。周囲の壁は石。足元の床も石。丸い部屋の奥には、石造りの祭壇らしきものも見える。

 けれど、その祭壇の上には、何もない。――いや、壇の上だけじゃない。壁にも、床にも、何もない。

 見えるのはただ、床や壁石の上にのこる、黒々とした焦げあとばかり。

 ――何もない。ここにあったものが何であれ、レイスとシファが、すべてを焼きつくしてしまったあとなのだ!

 悲鳴のように、男がさけんだ。

「馬鹿な――馬鹿な! おまえたちは、本当の馬鹿か!」

 戸惑うようなさけびは、やがて絶叫にかわった。

「こんなことが、許されるはずがない! 賢人たちの知恵が! 太古の術具が! もう二度と、集められはしないものだったのに――」

 そして、男はわたしを見た。ものすごい形相だった。手をのばし、わたしの髪をつかんで、レイスに向きなおる。

「こうなればもう、容赦はしない。天狼との契約の仕方をおしえろ。おまえは知っているはずだ。十年前、おまえがここで、契約の儀式にのぞんだことはわかっているんだ。さあ、おしえろ――この娘がどうなってもいいのか!」

 あえぐように叫ぶと、男はものすごい力で、わたしの髪を引っぱった。まとめ髪がほどけ、わたしはぶらんと、男の手からぶらさがった。

 思わずもれたうめき声は、つかまれた髪が引きつる、その痛みのせいだけではなかった。

 髪に感覚などないはずなのに、感じる。男の体のなかで、うごめくもの。うつろな飢えをかかえた、恐ろしい何かの存在を。

 いる。たしかにいる。この男のなかに、何かがいる!

 命の危険を感じ、わたしはのがれようと暴れた。けれど、男の腕はびくともしない。あせってあたりを見まわすと、食い入るようにこちらを見つめるレイスと目があった。わたしは必死に目をそらし、レイスの顔を見ないようにした。見れば、訴えてしまう。身も世もなくさけんでしまう。助けてと。わたしは英雄じゃない。わたしのことは気にしないで、なんて、そんな雄々しい言葉は言えない。わたしだけでも助けて! そうさけばないだけで、精一杯だ。

 そのあいだも、男の腕のなかでは、何かがうごめき、大地をゆらす地鳴りのような苦痛を伝えてくる。正体のわからない、その、恐ろしい感触――。

「……強情な。そんなに自分の身が惜しいか」

 男が低くつぶやき、つかんだ髪を、さらに高くかかげた。

 そして――。

 開けるまいとしていた口をひらいて、わたしは絶叫した。


 痛い。痛い。痛い。

 わかる。感じる。すぐそこに、恐ろしいものがあらわれようとしている。わたしを捕え、吸いつくすために、近づいて来ようとしている。

 きしむ髪を両手でつかみ、わたしは必死に目をあげた。

 すると、そこに、それはいた――わたしをぶらさげる男の手、その手首の内側に描かれた黒い文様から、春に萌え出る木の芽のように、ゆっくりと生えてこようとしていた。

 声を失い、わたしはその生き物を見つめた。ぐっ、ぐっ、と緩急をつけながら、男の腕からにじり出る蛇を。闇のようにつややかな、その黒い体を。

「――バシリスク」

 レイスが驚愕のこもった声をあげる。

 バシリスク。蛇のなかの蛇。

 命を吸いとる、蛇の王。

 けれど、なにより恐ろしいのは、骨も凍るほどにおぞましいのは、命を喰らうとまで言われるその蛇に、体が――体がないことだった。たしかに生きているのに、じりじりと動いているのに、その黒い体は向こう側が透け、おぼろな陽炎のようにゆらいでいる。

 肉をそなえた体がないのだ。体をもたない蛇なのだ。――この男、獣から生きた肉体を取りあげて、かわりに、自分の体に住まわせているのだ!

 わたしはめちゃくちゃに叫び、身を引こうともがいた。声にならないわめき声をあげて、やめて、ゆるして、と許しをこうた。とんでもないことだ。許されないことだ。体のない――幻だけの、幻獣なんて。魂だけの、幻獣なんて!

「さあ――この娘、死ぬぞ」

 蛇が下りてくる。触れるものに死をもたらす黒い蛇が、ゆっくり、ゆっくりと下りてくる。かつては神々しかったはずの生き物が、おぞましい、うつろな影となりはてて、男の手から、わたしの髪に、そして、髪をつたって、その下に。

 わたしはもう、叫んでなどいなかった。そうするだけの空気が、胸に残っていなかった。かわりに、もがく。涙を流しながら、もがく。どうしようもない恐怖と、どんどん強くなる苦痛に、ぶざまなばね仕掛けのように、ぴょんぴょんと体を跳ねあげながら。

 さあ、どうする。

 もう一度、男が問う。

 そして、声も出ない苦痛のなか、わたしは悟る。

 いまから、わたしは死ぬ。

 本当に死ぬのだ。

 なぜなら、レイスは言わないから。ホローの技を、誰にも教えないから。

 それは、自分の命のためではなく、シファの命のためでもなく。ホローがのこした遺産を、世に放たずに、とどめおくために。獣のために、人のために、そうしなければならないから。

 そのためならば、彼はわたしを捨てる。それを責めてはならない。


 それを、責めてはならない――。


 そう、理解した一瞬。

 苦しみにぬりつぶされた頭の中が、すっと澄んだ。

 顔をあげ、蛇を見る。黒い鎌首をもたげた蛇は、つる草が地面から生えるように、男の腕から生えだしている。

 そして、男と蛇とをつなぐ黒い文様は、男の土気色の肌の上で、まるでそれ自体が沸騰しているかのように、ちわ、ちわ、ちわ、とふるえていた。

 びりびりとふるえるその紋様に、わたしの目は吸いついた。

 人と蛇、人と獣、たがいに対極にある二つの命を、今、ここで、この紋様が、無理やりにつなぎあわせているのだ。この世のことわりをねじ曲げるための、あってはならない力のすべてを、今、ここで、この紋様がささえているのだ。

 ――この紋様に、傷さえつけられれば。

 そう考えたのが、わたしだったのか、わたしではなかったのかはわからない。

 血が沸き、頭も破裂しそうなその一瞬、わたしはなぜか、目の前の蛇ではなく、男が背負った革袋のなかの、黒犬のことを考えていた。

 むくむくとしたあの黒犬が、袋の中で、ぱちりと目を覚ましたのを感じていた。

 犬は袋のなかではねおきると、黒い背中をぐっとそらし、深く息を吸いこんで、天を裂くような吠え声をあげた。この世の全てを吹きはらうような、とほうもない吠え声を。

 そして、朗々としたその声が、わたしの体にひびきわたった、その瞬間。

 わたしのなかで、何かがゆっくりと爆発をはじめた。胸の奥ではじまったその爆発は、すべての痛みを吹きとばして広がり、そのとほうもない力で、わたしのなかに、今まで存在しなかった世界を生みだしていった――それは天空を吹くはげしい風、その上の無窮の広がり、同時に熱く、同時に冷たく、空を蹴り、雲を裂いて駆けぬけるもの。――それは狼の命、狼の世界。人の手のとどかぬ、この世のもう一つの姿。

 体のなかに押しよせる、その見知らぬ力に突きうごかされて、わたしはぐっと手をのばし、男が腰にさしたナイフをつかんだ。背中をひねり、腕をはねあげ、ねらいをたがえぬ獣の動きで、男の紋様に刃をたたきこむ。

 血しぶきがあがり、さけび声が聞こえた。黒くて太い、形のない蛇が、まるで煮られているかのように、ぐらぐらと宙で踊るのが見えた。

 そして、黒く崩れるその蛇の、幻のようなあわれな体が、わたしの顔にふりかかる寸前。

 シファが稲妻のように飛びこんできて、倒れかけた男の頭をくわえ、うしろに引きずってふりまわした。

 ぐしゃっ、と骨の砕ける音。

 男の頭をくわえこんだ、シファの歯と歯のあいだから、白い炎が噴きだす。

 そのとき、レイスの片手がわたしを引きよせ、もう片方の手がわたしの目をおおった。おかげで、わたしはそれ以上、怖いものを見なくてすんだ。ただ、顔の産毛がちりちりするほどの、恐ろしい熱を感じただけ。

 レイスの胸が背中にあたり、わたしはなにかを言おうと顔をあげた。けれども、それは言葉にならず、わたしはそのまま、気を失った。

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