第39話

 男はやがて、わたしの知らない横道に入った。やぶに埋もれた山道は、岩まじりの崖につづいている。

 ゆく手を見あげ、わたしは絶望的な気分になった――ただ歩くだけでも、息も絶え絶えなのに、今度は山を登れですって? 

 もはや、歩くことすら無理だった。傾斜が急なところでは、四つんばいで登るしかない。それも、息が切れ、ひざがふるえて、にじるようにしか進めない。

「悪いけど、もう歩けないわ。あなたさっき、わたしになにをしたの?」

 ぜいぜいとかすれた声で、わたしは言った。

 けれど、男は聞いていなかった。歩みの遅さにいきどおるでもなく、ひたすらに、行く手を見つめている。行く手にそびえる、ホローの城を。

 レイスを殺すかもしれない男を、わたしはこのまま、二人のところに連れていくのだろうか。 

 ――そんなの、だめだ。そう思うのに、現実には、わたしにできることなど、何もなかった。たとえ、全力で逆らったところで、あっさりと殺されるだけだろう。

 なんとなく、わかる。この男はもう、人間などには興味がないのだ。求めるのは獣、強い獣だけ。騎獣も持たない、小娘のわたしになど、小石ほどの興味もないのだ。

 汗をだらだら流しながら、両手両ひじを使って、雑木におおわれた、最後の斜面を這いあがる。

 すると、平らな場所に出た。急にひらけた視界の先、森がとぎれたその向こうに、荒れた植えこみにかこまれた、館の正面が見える。

 城の敷地に入ったのだ。

 男はわたしを立たせ、引きよせると、服の背中をぐっとつかんだ。そのまま、わたしを楯に、やぶのなかを進む。ぐいぐいと後ろから押されるままに、わたしは目をつむり、腕で顔をかばって、体で枝をかきわけた。そうこうするうちに、木立ちがとぎれ、茶色の枯草に埋めつくされた、城の前庭に出る。

 そして。

 レイスとシファは、そこにいた。ただ一枚のこった、城の正面の壁を背に、わたしたちを待っていた。

 わたしの背中をつかんだまま、男は立ちどまった。ナイフを抜く音が聞こえ、とがった感触が首すじにふれる。そして、わたしの頭ごしに、男が言った。

「――その言葉どおりに、おまえが潔白なら、命までは取るまいと思っていたが。残念ながら、おまえには死んでもらうしかない」

 その言葉に、レイスがけげんな表情をうかべた。言われている意味が分からない、という顔だ。

 もちろん、わたしも分からなかった。『言葉どおりに潔白』とは、いったいなんのことだろう?

「だが、その前に、おまえには、ホローの秘術を伝授してもらわねばならん。おろかな継承者とともに消しさるには、あまりにも貴重な知識だ」

 そこで男は、わたしのあごを、ぐいとナイフで押しあげた。

「ことわれば、この娘を殺す」

 ――うそでしょう? 

 わたしは一気に青ざめた。

 自分が、レイスとシファにたいする人質なのだということに。そして、今の今まで、そのことに気づきもしなかった自分の阿呆さかげんに、あぜんとする。

 ナイフを突きつけられ、連れてこられながら、その意味を考えもしなかっただなんて。そうして、いまだにどこか、蚊帳の外にいる気分でいたなんて――われながら、どこまでまぬけで、馬鹿なのだ。

 だまってこちらを見つめたまま、レイスは何も言わない。あたりまえだ。呪いの技を教えろなどと言われて、レイスがうなずくはずがない。獣使いの誇りにかけて、レイスはそんなことはしない。

 男が、ぐい、とナイフの刃を上げる。食いこんだ刃にのどを押され、思わず咳こみそうになる。

 どうしよう。こわい。今すぐ体のどこかを、傷つけられてもおかしくない。

 どうしよう。こんなのだめだ。二人の足を、わたしがひっぱるなんて。

 そう思うのに、ただ、顔をこわばらせていることしかできない。抵抗すればいいのに、今すぐ叫んで暴れればいいのに、だまって、縮こもっていることしかできない。どうして、わたしは、こうなのだろう。どうしていつも、やるべきだと思うことができないのだろう。

 やがて、男が言った。

「……案内してもらおうか」

 その言葉に、まず立ちあがったのは、狼だった。音もなくきびすを返し、城の奥へとむかう。レイスが、そのあとにつづく。

 早く行け。男がわたしの首に刃を押しつける。

 そこで、わたしも歩きはじめた。焼けた館の側面をまわって、その裏手へ。あの日、黒犬を探してさまよった、山城の中へ。くずれた石の河原を踏んで、さらに、その奥へ。

 今はもう、わたしにも、みながどこに向かっているのかがわかっていた。

 あの場所だ。あの、石だたみにおおわれた隠れ谷。恐ろしい、地下への扉がある場所へ。

「……おまえは、すぐれた後継者にもなれたのに」

 わたしの後ろで、男がつぶやいた。

 もちろん、レイスに言っているのだ。

「だが、それは、もう言うまい。むしろ問いたい。残された技を継ぎ、ホローを再興する――そうする気がないのなら、なぜ、この娘を引きいれた? この娘がいなければ、わたしでさえ、無傷で天狼の縄張りをやぶることはむずかしかったろうに。……やはり、おまえもただの男ということか」

 ――なんたる侮辱! わたしは思わずふりかえった。

 けれど、文句の一言さえ、いえなかった。あらためて、眼前にナイフを突きつけられただけ。

 それでも、はげしく腹を立てたせいで、ようやく、頭に血がめぐり始めたのか、わたしは遅ればせながら、理解しはじめていた――今、起きていること、男の言葉の意味を。

 たぶん、この男、前にもホローをおとずれたことがあるのだ。

 この十年より前のホローを、知っている人物なのだ。

 レイスと知り合いのような口をきくのも、わたしの知らない、城への横道を知っているのも、そのためだ。

 けれど、そのころのホローは滅び――そして、今、あとに残ったレイスとシファを、この男はねらっているのだ。狼をあやつる、ホローの術を手に入れるために。

 わたしは怒りに歯をかみしめた。そんなことのために、この男はやってきたのだ。そんなことのために、レイスを殺し、シファに呪いをかけようとしているのだ。

 と、男が口を開いた。

「……まあ、でも、たしかに、この娘にも、見るべきものはある。なんといっても、騎馬で、クレイディルから逃げのびたのだから」

 その言葉に、目を見はる。

 どうして知っているの? まず、そう思い、それから、わたしは自分で、その答えに気づいた。今度こそふりかえって、わたしはさけんだ。

「じゃあ、あなたが――!」

 そう、この男だったのだ。あの日、あの場所にクレイディルを呼びよせたのは、この男だったのだ。考えてみれば、あたりまえだ。砂漠の獣が自分から、こんな北の国にやってくるはずがない。あのクレイディルは、この男にあやつられていたのだ。だからあんなに、牛を殺して、最後には、自分も殺された。

 でも、いったい何のために? クレイディルをあやつることで、この男に、何の益があるというのだろう?

 たいして悩まずとも、その答えは出た。シファだ。あの場所で騒ぎを起こせば、レイスとシファは、駆けつけるに決まっている。クレイディルをシファにぶつけることで、男はシファの力をはかろうとしたのだ。あるいは、シファがまだ、ホローの呪いに毒されていないかどうかを、たしかめようとしたのかもしれない。

 つまりは、あのクレイディルの来襲も、ホロー襲撃の一環だったのだ。

 男の言葉はつづいていた。

「あの夜、わたしはこのご令嬢が、生きのびるとは思わなかった。けれど、彼女は生きのびた――十のうち、九までが運とはいえ。それだけでも、この令嬢には、敬意をはらわれる資格がある。それに、物事を見る目も、多少はそなえておられるようだ――金に目がくらんだディースの馬鹿どものなかから、天狼に目をつける者があらわれるとは、思っていなかったからな。それが息子ではなく娘だったというのは、連中にとっては不運なことだが」

 わずかに顔をゆがめ、男は、皮肉な笑み、のようなものを浮かべた。

「……そう。ならば、このご令嬢は、無事に帰してやってもいい。獣たちが生かしたものを、わざわざ殺すのは無粋なやりかただ。それに、彼女のおかげで、わたしはいま、ここにいるのだから。――もっとも、すべては、お前しだいだが」

 男の言葉に、レイスは答えなかった。だまって歩きつづけるだけ。

 そして、わたしは――

 ――わたしは、うつむいたまま、顔があげられなかった。

 恥ずかしかった。恥ずかしくて、申しわけなくてたまらなかった。

 レイスとシファに対して。この地に眠る狼たちに対して。

 男の言うとおりだ。

 男をこの地に招きいれたのは、わたし。

 男はわたしを待ちぶせ、わたしをとらえた。わたしが、ホローに隙を作ったのだ。わたしが、ホローの守りに傷をつけたのだ。

 ホローとはかかわるな。そう言ったロイ兄が、正しかった。ここは、ホローは、わたしのような甘えた人間が、足を踏み入れていい場所ではなかったのに。呪いの何たるかも知らない子供が、入りこんでいいような場所ではなかったのに。

 呪いが生みだした闇に、末代までもおおわれた場所。禁を犯した者たちの、けがれた欲がうずまく場所。――それこそが、ホローの本質だったのだ。

 だからこそ、シファは昼も夜も、見まわりをつづけていた。レイスも、ぼろぼろになるまで、境界の石垣をなおしていた。いつかふたたび、こんなことがあるとわかっていたから。この男が現れると、わかっていたから。そうやって、守ってきた。残してきたのだ――ホローにゆるされた、最後の平穏を。

 わたしのせいだ。二人だけなら、守れたのだ。ホローを守れたのだ。わたしが、わたしさえ、現れなければ――

「後悔するぞ」

 ぽつりと、レイスが言った。

「あれは、お前の手に負えるようなものじゃない」

 男はかすかに笑った。

「今のおまえに、それを言われたくはないな。『狼は蒐集品じゃない。一人に一頭、それがあるべき姿だ』――そう言ったのは、どこの誰だ? ……といっても、責めているわけではないが。獣使いが、より強い獣を求めるのは、当然のことだ。それに逆らうというほうが、理に反するのだ」

 男のその言葉に、レイスは答えなかった。

 なにを言っても無駄なのだ。男にあるのは、獣を、力を、欲する欲だけなのだから。

 そして。

 そんな男を前に、わたしは後悔していた。今までしてきたこと、全てを。

 力を求め、獣を求める――男がかかえた、その欲は、あの日、獣を望むばかりに家を飛びだした、わたしのおろかな衝動と、どこかで深くつながっていた。

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