第38話

 歩きはじめてすぐに、体の調子がおかしいとわかった。

 頭が、がんがんと割れるように痛む。吐き気もある。まるで、熱病のかかりはじめみたいだ。

 でも、熱病などではないことは、わかっていた。ほんの少し前まで、あんなに元気だったのだ。体がおかしくなったのは、さっき、男に腕をつかまれてからだ。

 生つばを飲みこみ、行く手を見る。道はゆるやかに曲がりながら、木立ちの中をつづいている。葉の落ちた林に光がさしこみ、日の当たる地面では、枯葉が香る――けれど、今は、首をつたって流れる血の、赤さびた匂いのほうが鼻をついた。耳の後ろの傷がぴりぴりと痛み、血を吸いこんだ襟が肌に張りつく。

 ――他人の耳を、いきなり切る。

 そんな人間が、本当にいるのだ。

 どうしよう。どうすればいいのだろう。

 レイスとシファが言っていた獣使いとは、まちがいなく、この男のことだ。

 けれど、さっき小屋で別れたときは、レイスも、シファも、この男が近くにいるとは考えていなかった。まだ、時間はあると思っていた。

 なのに、男はいた。それも、境界の木戸のすぐそばに。

 だとすれば――

 残念ながら、シファはこの男に勝てない。相手の気配を読むこともできないようでは、戦いようがないからだ。

 しかも、この男、まだ、どこかに、自分の騎獣をかくし持っているはずだ。獣使いなのだもの、丸腰で来るはずがない。術であやつった凶暴な獣を、どこか、この近くにひそませているはずだ。

 どうしよう。素人のわたしでもわかる。

 ――レイスとシファに、勝ち目はない。

 ぐらぐらと、めまいがする。割れるような頭痛も、吐き気も、おさまるどころか、ひどくなるばかりだ。わたしは足をとめ、荒い息をついた。ひざに手をつき、目をつむる。もういっそ、倒れてしまいたい。

 でも、だめだ。男はわたしに、歩けといったのだもの。いうことを聞かなければ、たぶん、殺される。

 こみあげる吐き気につばを飲み、息を整えて顔をあげると、秋の光にてらされた、淡い色の枯れ野が目に入った。そのむこうにつづく、澄んだ山並みも。なんだか、涙が出そうになる。こんなときにも、谷はいつもと変わらない。わたしが血まみれで歩いていても、山々は青く、おだやかなのだ――

 そのときだった。

 どこかから、きゃんきゃんという、犬の吠え声が聞こえてきた。

 でも、こんなところに、犬だなんて。不審に思うあいだにも、声は近づき、やがて、目の前の枯れ野の上に、まりのようにはずむ、黒いものが飛びだしてきた。

 わたしは思わず息をのんだ。あの犬だ。わたしの誕生日ケーキを食べた、あの犬だ。小さな目をきらきらさせて、口いっぱいによだれをためて、元気よく、こちらに駆けてくる――ここには、この男がいるのに! この、呪われた男がいるのに! 

 今度の今度こそ、わたしはあきれはてた。心の底から、あきれはてた。思わず、顔をおおってうなりたくなる――馬鹿だ馬鹿だと思っていたけれど、ここまで馬鹿だとは!

 ところが、実際に声をだしたのは、わたしではなく、男だった。男は獣じみたうなり声をあげると、ナイフを投げすてて、犬にむかって突進した。

 同時に犬も、男に飛びついた。興奮のきわみのきゃんきゃん声をあげて、太いよだれの糸を宙にひいて。それは、久しぶりに会った友達どうしが、かたく抱きあおうとするようにも見え、わたしは思わず、目を丸くした――なによ、あんたたち、知り合いなの?

 ところが、男は犬に飛びつくと、犬の頭をもみくちゃになでるかわりに、その後ろ首をつかみあげた。そして、泡を吹いてかみつこうとする犬の額に、もう片方の手のひらをぐっと押しつけた。

 とたんに、犬が、ぎゃっ、と悲鳴をあげた。黒い足を宙につっぱり、目をむいてぶるぶるっと大きくふるえる。

「やめてっ!」

 わけのわからないあせりを感じ、わたしは金切り声をあげた。

「やめなさいよ!」

 けれど、犬はそのまま動かなくなり、だらんと男の手からぶらさがった。死んでしまったのだろうか? わからない。言葉をうしなうわたしの前で、男は背負っていた革袋をおろし、そのなかに犬を詰めこみはじめた。泥のついた四つ足までを押しこみ、袋の口をしばる。それから、山肌にそびえるホローの城を見あげて、こう言った。

「――あの若造、かならず殺してやる」 

 わたしは思わず、あぜんとした。男の顔を、まじまじと見つめる。

 殺してやる? 何のこと? 

 っていうか、さっきから何なの? この男。突然、犬に飛びかかったかと思えば、今度は、誰かを殺すなんて言いだして――さっぱり、わけがわからない。なんというか、支離滅裂だ。

 そこまで考えて、はっとした。

 わけがわからなくて、支離滅裂な――呪われた男? 

 そんな話を、どこかできいた気がする。

 そう、シファが言ったのだ。かつてのホローの男たちはみな、頭がおかしくなっていたと。いらだち、おびえて、まともな話もできなくなっていたと。

 そう。きっと、そうだ。この男もきっと、まともでなくなっているのだ。自らがあやつる術のために、正気を失っているのだ。

 だって、見た。一瞬だけだけれど、たしかに見た。犬に向けて突きだされた、男の手のひら。土気色をしたその手のひらには、くっきりと、赤い紋様が描かれていた。迷路のように細かな線で、あざやかに描きこまれた、花のような形の図柄。

 見た瞬間、ぞっとした。目を射るほどに赤い、その紋様が、何かが男の肌を食い散らした、食い跡のように見えたから。

 あるいは――こっちのほうが、もっといやだけれど――それが、男の肌に浮かびあがった、ウジか、寄生虫の模様のようにも見えたから。

 そして、その紋様のある手のひらを、男が犬に押しつけたとたん。犬は悲鳴をあげて気を失ったのだ。

 わたしは男を見た。その、どこか虫めいた、奇妙な顔を。

 この男がこんな顔をしているのは、あの、虫のような紋様が、あそこにあるからなのだろうか。

 ホローの男たちと同じように、この男もまた、奇怪な術に心をおかされているのだろうか。

 声もなく見つめるわたしの前で、男は腰をかがめ、落ちていたナイフをひろった。そして、それを、わたしに突きつける――熱もなく、色もない、奇妙な目で。

 やむなく、わたしは立ちあがった。足を引きずりながら、歩きはじめる。左右の肩甲骨のあいだに、突きつけられたナイフの切っ先を感じながら。

 ナイフは怖い。ことに、それを持つ相手が、誰かの耳を容易く切りおとそうとするような場合は。

 でも、本当に怖れるべきは、この男が持つナイフじゃない。

 本当に恐ろしいのは、この男の呪いだ。呪いの狂気だ。

 これから、何がおこるのだろう。この男はいったいどうするのだろう。

 それに、そう。――この男がさっき言っていた、『若造』って、誰のことだろう。

 もしかして、もしかしなくても、レイスのことなのだとしたら――

 この男、今からレイスを殺す気だ。

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