第37話

 それは日の出前の谷に、灰色の霧が立ちこめる、十月の朝のことだった。

 秋も深まり、火の気のない、しめった納屋は寒かった。起きて着替えるやいなや、わたしは隣りにかけこみ、おき火のけぶる暖炉の前で、レイスが乳しぼりから帰ってくるのを待った。

 ところが、放牧地の霧が晴れはじめても、それどころか、谷間に陽がさしはじめても、レイスはもどらなかった。

 朝食の時間など、もう、とっくにすぎている。さすがのわたしも、気になってきた。牛が、みぞに落ちたのだろうか。それとも、ウサギ穴でも踏みぬいて、足をくじいたのだろうか――。

 なんにせよ、お腹がすいて、これ以上は待てない。もうしわけないけれど、先に食べることにする。

 ま新しいパンをぶあつく切って、暖炉でこんがりと焼く。そこに、金色のはちみつをたっぷりとぬって、たらりとしたたるところに、かじりつく。

 ところが、わたしが、そのささやかなごちそうの、最後の一口を味わいおえた、ちょうどそのとき。せわしない足音とともに、レイスがもどってきた。そして、小屋の戸を開け放つなり、こう言った。

「悪いが今すぐ、出て行ってくれ」

 ――は? わたしは一瞬、まじまじとレイスを見た。

 それから、椅子を蹴ってたちあがった。

「なによそれ! 今度はわたしが、何をしたっていうの?」

 ホローに居すわろうと、どうしようと、勝手にしろ。そういう意味のことを言われたのは、ほんの半月前だ。もちろん、いきなり出て行けなどと、言われる筋合いはない。――喧嘩を売ろうというなら、受けてたとうじゃない!

「だから、そんな言い方じゃだめでしょう」

 たまりかねたように、シファが戸口から顔をのぞかせた。

「ちゃんと説明しなければだめです。ミリエル、なにもあなたに、ディースに帰れと言っているわけではないんです。ただ、数日のあいだ、ここを離れていてほしいんです。ここは、しばらく危険になるかもしれないので――」

「――危険?」 

 レイスのほうをむいて、わたしは聞いた。けれど、返ってきたのは、例のだんまりだ。かわりに、シファが答えてくれる。

「ええ。あなたももう、ご存じでしょう? 昔、ホローが何をしていたのか。――あのころの知識や技は、もう、とうに失われているにもかかわらず、今でもまだ、あらわれることがあるんですよ。おかしな連中が」

「おかしな連中?」

「ええ。――あなた方のあいだでは、呪われた獣使い、などと呼ばれているようですが」

 その言葉に、わたしは思わずたじろいだ。ふりかえり、レイスの顔を見る。

 『呪われた獣使い』。その呼び名は、もちろん知っている。かつてのホローのように、獣を服従させるために、禁じられた術や薬をもちいる者のことを、そう呼ぶのだ。

 もっとも、ホローのように高い地位を与えられた、『呪われた獣使い』はごく少数。その大多数は、汚れ仕事をひきうけながら諸国をさまよう、流れ者として生きている。たとえば、こんな風に――

『おととい、ラダンの北で、農場の下男が呪われた男を見かけたそうだ。羽がずたずたの翼竜を、鎖につないで連れ歩いていたんだと』

 ふつうならば、令嬢の耳には絶対に入らないはずの、そんなうわさを、得々とわたしに話して聞かせるのは、きまってヤン兄だった。

 そして兄は、最後にかならず、こう、つけくわえるのだ。

『なあミリエル、おまえも、竜のあとばかり追いかけてたら、そんなふうにぼろを着て、街道をうろつくことになるんだぜ。俺たちみたいな、まともな幻獣使いになんて、なれっこないんだからな』

 わたしが歯がみしたのは、言うまでもない。

 けれど、今、起きているのは、そんな兄妹のいさかいの種よりも、もう少し厄介な事態のようだった。

 天狼は、わたしの知るかぎり、地上でもっとも、強い力をもつ幻獣のうちの一つだ。

 つまり、シファの縄張りであるこのホローは、地上でもっとも、獣におそわれる心配のない場所であるはずなのだ。

 そのホローが、危険ですって? 

 わたしはレイスを見たけれど、レイスはわたしと目を合わせなかった。はりつめた顔で、暖炉を見ている。――やれやれ。ホローの当代御当主は、こんなとき、厄介ばらいしたい相手(つまり、わたし)に言って聞かせる、気休めの言葉の一つも、持ちあわせていらっしゃらないらしい。

 わたしは肩をすくめ、シファに向きなおった。 

「で? どうすればいいの?」

「申し訳ありませんが、街道ぞいに、馬で南に向かってください。本当はわたしが送るべきなのですが、いまは縄張りをはなれられません。急ぐ必要はありませんが、いつかのように、のぞき見しようなんて気はおこさないように。命の保証をしかねます」

「……わかってるわ」

 わたしは思わず、しぶい顔になった。

 いくらなんでも、今はもう、あのころのようには馬鹿じゃない。



 支度もそこそこに、馬で発つ。シファはああ言ったけれど、急がなければならないことはわかっていた。幻獣どうしの戦いでは、いつ、何がおこるかわからない。それだけは、あのクレイディルの一件で身にしみていた。

 ――それにしても。

 谷の出口へむかう、いつもの小道を早駆けしながら、わたしはため息をついた。

 クレイディル。

 あの事件から、もう、五か月になるのだ。ディースを出てからだって、三か月。

 これから家に帰って、父さまに何をいえばいいのだろう? 

 ホローで学んだといえるほどのものを、わたしはまだ、なにも持っていない。せいぜい、パン粥が一人で作れるようになったくらいだ。もちろん、父さまが、そんなもので満足するわけがない。

「帰ったら、こんどこそ軟禁されたりして……」

 でも今は、安全なところで待つのが、わたしのするべきことなのだ。あとのことなど、どうとでもなる。

 枯れた葉がまばらにのこる、ブナの木立ちを駆けぬける。やがて、境界の石垣にもうけられた、小さな木戸が見えてきた。馬をおりて木戸をぬけ、木戸をとじて、ふたたび走りだす――いや、まさに走りだそうとした、そのときだ。

 わたしとアレクは、路上にぴたりと立ちどまってしまった。

 せまい野道のうえに、男が立っていた。


 それは、ひょろ長い体つきをした、初老の男だった。黒い服に、黒い革袋を背おい、どこかうつろな表情で、こちらを見ている。

 そこで、わたしも、男を見た。灰色をした男の顔に、ほんの一瞬、目を向けた。

 ところが、そのとたん。

 ほんの一瞬、男と視線が交わったとたんに。

 見えない縄でもかけられたかのように、いきなり、全身が動かなくなった。体じゅうの筋肉が、かちんと固まってしまって、指一本動かせない。

 わたしは驚いて声をあげようとし、それができないことに気づくと、今度は悲鳴をあげようとした。けれど、できない。こちらに近づいてくる男から、目をそらすことさえできない。悲鳴にも似たあせりとともに、わけもなく理解する――この人だ! この人が、例の獣使いだ!

 一歩、一歩、こちらに歩いてくる男の体は、地面からひょろりと立ちあがった、細長い虫のようだった。間近で見る、男の顔もまた、虫や、蛇の顔に似ていた。つるりとしていて、固そうで――目も鼻も口も、ちゃんとあるのに、人間の顔に見えないのだ。

 男はアレクの前に立つと、その、色のない瞳で、馬上のわたしを見あげた。それから、ふい、と手をのばし、アレクの鼻先をなでようとした。

 その瞬間、わたしの喉から、しわがれた声が飛びだした。

「――やめて」

 言いながら、自分でもわからなかった。男はただ、アレクの鼻に触ろうとしただけなのに、どうしてその一触れで、アレクが死ぬような気がしたのだろう。

 わたしの一言で、男は手をとめた。こちらを見あげる。

 そして、つぎの瞬間。

 男の手がひらめくように動き、わたしの腕をぎゅっとつかんだ。

 とたんに、毒虫に腕をかまれたような、するどい痛みが全身に走った。まるで、親指ほどもある太い牙が、腕に食いこんだようだ。それに、この、体から潮が引いていくような、おそろしい感じはなんだろう。男につかまれた二の腕から、何かが吸い出されていくのがわかる。何かあたたかい、血のようなものが、じゅるじゅるとしぼり出されていくのがわかる。

「――っ」

 干からびていくのどから、苦鳴がもれた。そのまま、肺がへこみ、心臓が止まりかけても、男は腕をはなさない。ますます太く、ますます深く、見えない牙を打ちこんでくる。生きながら命を吸われる痛みに、わたしはあえぎ、そのまま鞍からずり落ちて、どっ、と地面にぶつかった。その痛みで、どうにか正気づく――いったい、何がおきたの? 

「立て」 

 朦朧とするわたしを、男は腕一本で引きずりあげ、そのまま前に突き飛ばした。飛ばされた先は石垣の木戸で、わたしは閉まった戸板に頭から突っこみ、顔をすりむきながら倒れこんだ。

 そして――そのとたん。

 男の手が、わたしの腕から、はなれたとたんに。

 すべての痛みが、嘘のように消えた。今にも死ぬかと思うほどの痛みが、全部、いっぺんに消えたのだ。

 わたしはその場にへたりこみ、それから、自分の体をまじまじと見つめた。手のひらをながめ、腕をさする。どこにも、おかしな所はない。傷の一つ、血の一滴さえ、のこっていない。

 けれど、安心するのは早かった。男は座りこんだわたしの後ろ襟をつかむと、ぐいと引きあげて、木戸に向かいあわせに立たせた。そして、腰にさした長いナイフを抜き、わたしの耳の後ろにあてた。

「木戸を開けろ」

 何かがきしむような声が聞こえ、同時に、ナイフに力がこもる。

「開けろ」

 さらにナイフが押しつけられ、耳の後ろがすっと切れた。

「開けろ」

 男の手に、さらに力がこめられる。耳に刃が食いこみ、ぽたりと肩に血が落ちた。

 気がつくと、わたしは両手をのばして、木戸のかんぬきを引きぬいていた。わかっている。境界の木戸を開け放つことは、すなわち、ホローを開け放つこと。この男を、シファの縄張りに迎えいれること。決して、やってはいけないことだ。

 でも、逆らえない。体が動かない。

 わたしはよろよろと木戸を通りぬけた。男はもちろん、わたしの後についてきた。わたしが抜いたかんぬきを差しなおし、ナイフを、今度は、わたしの背中にあてる。

「歩け」

 その言葉に、つばを飲む。

 目の前には、つい今しがた、アレクと駆けてきた、谷底の道がつづいている。

 レイスの小屋につづく道。

 このまま進むということは、レイスとシファのもとに、この男をつれていくということだ。

 けれど、逆らえなかった。わたしはだまって歩きだした。

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